平安陰陽騒龍記
31
「……大丈夫かなぁ、栗麿……」
走りながら、葵は後を振り向いた。足元が疎かになって転びそうになり、すぐに体勢を整えて前を向く。
「現時点で、あいつの未来は百歳までのらりくらりと生き続けて大往生……にゃんていう、ある意味文句のつけようがにゃい幸せにゃものだったにゃ。少にゃくとも、別れた時点で、その未来は変わっていにゃかった……」
「なら、今のところは大丈夫だと信じるしかないね。……ところで、葵。ボク達って今、どこに向かって走ってるの?」
素朴な疑問を口にして、紫苑が首を傾げた。走ったところで、弓弦の場所がわからなければあまり意味が無い。
「……弓弦と、初めて会った場所に行ってみようと思うんです」
「初めて……って、ひょっとして、あそこ? 栗麿が生み出した式神に追い掛けられて、その途中で弓弦ちゃんに躓いたって言う……」
葵は頷いた。
「弓弦が龍宮から来たって言うなら、何であんな山の中にいたんでしょう? ……弓弦だけじゃない。荒刀海彦も十二年前、山の中で師匠達と会っているんです。……話を聞く限り、十二年前も今回も、惟幸師匠の庵から近い。つまり、同じ場所である可能性が高いんです」
「そうか。前回も今回も、わざわざ自分が不利ににゃる場所にいたという事は、そこがおろちの生まれる場所である可能性が高いって事ににゃるにゃ」
「そう。それに……」
「それに?」
紫苑の返しに、葵はしばらく黙り込んだ。言って良いものか、悪いものか。少しだけ考えてから、葵は口を開いた。
「それに……何となく、わかるんです。俺達が向かう先に、弓弦がいるって。俺の中に、荒刀海彦がいるからかもしれません」
紫苑が、どことなく詰まらなそうな顔をした。期待が外れた……という顔だ。
「弓弦ちゃんと葵の魂魄が呼び合ってるとか、そういうのじゃなくって?」
「……紫苑姉さん、虎目の未来物語に毒され過ぎです。……と言うか、その手の話題になると、俺の中で荒刀海彦が不機嫌になるんで、本当、やめてください……」
情けない顔で肩を落として。しかし、すぐに表情を引き締めて葵は懐に手を伸ばした。
前方に、鬼達がわらわらと集まり始めている。そのすぐ向こうが、羅城門だ。弓弦と出会った場所に行くためには、京から出る必要がある。だが、羅城門を通れなければ外には出れない。鬼達を突破していくしかない。
「じゃあ、とっとと弓弦ちゃんのところへ行くためにも……いっちょやりますか!」
言いながら、紫苑も懐に手を入れる。そして、二人は頷き合い、懐から数珠を引き出して背中合わせに真言を唱えた。
「ナウマク、サンマンダ、バザラダン、センダ、マカロシャダ、ソハタヤ、ウン、タラタ、カンマン!」
「ナウマク、サンマンダ、ボダナン、オン、マリシエイ、ソワカ……オン、サンザンザンサク、ソワカ!」
見えない力が渦巻き、鬼達をなぎ倒していく。だが、まだだ。まだまだたくさんの鬼達が、羅城門の前で蠢いている。中には、葵達の姿に気が付いて向かってきている鬼もある。
「ナウマク、サンマンダ、ボダナン、オン、マリシエイ、ソワカ! オン、アミリトドハンバ、ウムハッタ!」
「オン、アミリタ、テイゼイ、カラ、ウン!」
唱えても、唱えても。鬼達の数は一向に減る様子が無い。むしろ、数が増えてきているようにも思える。京中……いや、京近隣にいる鬼までもが、ここに集まってきてしまったのではないだろうか。
「……逆に言えば、ここを何とかできれば、あとは邪魔が入る事無く弓弦ちゃんのところまで一直線……って事だよね」
「そうにゃるにゃ。……! 紫苑!」
突然虎目に名を叫ばれ、紫苑はハッと振り返った。背後に鬼が迫っている。鋭い爪を、紫苑の背に叩き込もうとしていた。
「紫苑姉さん!」
「……っ!」
間一髪で、避ける。しかし体勢を整えようと立ち上がった途端、紫苑はよろめいた。
「姉さん!?」
葵の顔が青ざめる。そんな弟弟子に、紫苑は情けない顔で苦笑いをしながら「大丈夫」と手を振った。
「攻撃が当たったわけじゃないよ。けど……ドジっちゃった。足をひねっちゃったみたいでさ」
慌てて避けたため、まともに着地姿勢が取れなかったのだろう。痛みが酷いのか、紫苑は顔を一瞬だけしかめた。しかし、すぐに笑顔に戻って見せる。
「こんなんじゃ、ボクが行っても足手まといだよね。……栗麿の真似みたいになっちゃうのは癪だけどさ……今度は、ボクがこの場を引き受けるよ。葵は、早く弓弦ちゃんのところに行ってあげて!」
「けど……!」
心配から動こうとしない葵に、紫苑はキッと眉を吊り上げた。
「弓弦ちゃんは、葵の事を待ってるよ! 行ってあげなきゃ! このままここでまごまごして、弓弦ちゃん一人におろちと戦わせて……弓弦ちゃんに何かあったら、葵はきっと一生、後悔するよ! それでも良いの!?」
「……!」
葵は目を見開き、そして拳を握りしめた。そうだ。弓弦を一人で戦わせるわけにはいかない。しかし、紫苑をここに一人残していくのも気が引ける。揺れる心を押さえつけながら、葵はギリ……と歯を噛みしめた。
「あー……二人とも? 青春ドラマを繰り広げるのは結構にゃんだけどにゃ……」
「え?」
遠慮がちに口をはさむ虎目に、二人は呆けた顔で振り向いた。そんな二人に、虎目は羅城門の方角及び、自分達の周辺をぐるりと指差して見せる。
「今のままだと、紫苑どころか葵も京から出られそうににゃいんだけどにゃー」
言われて、二人は自分達の周りをぐるりと見渡す。鬼に囲まれている。それも、結構図体が大きくて強そうな奴に。勿論、羅城門の前は似たような体躯の鬼達が絶賛占領中だ。
先ほど紫苑を攻撃した鬼が、拳を振り上げた。今まで隙だらけなのに襲ってこなかったのは、空気を読んでくれたのか。はたまた、このちょこまかとした奴らをどういたぶてやろうかと考えていたのか。……恐らく、後者だろう。
この鬼が頭目だったのか、周りの鬼達も拳を振り上げ、爪を尖らせ、ある者は武器まで構えて。じりじりと葵達への包囲網を狭めてきた。どうやら、いたぶる方法は大勢で袋叩き、にしたようだ。
「……紫苑姉さん。俺と荒刀海彦で、何とかします。姉さんはその間に、虎目とどこか安全なところへ……!」
「だっ、駄目だよ! 荒刀海彦が出てきて戦ったら、葵が体力を消耗しちゃうじゃない! 弓弦ちゃんのところへ行く前に体力を使い切っちゃったらどうするの!? 辿り着けても、その後どうやっておろちと戦うの!?」
「……と言われましても。流石にこの数に一斉にかかってこられたら、俺と紫苑姉さんの二人でも何とかするのは難しそうですし……それが俺一人で、となったら、これはもう荒刀海彦に頼るしか……」
難しい顔をして、葵と紫苑は虎目の方を見た。未来を見て、という顔だ。
「二人とも、まずは奴らの攻撃を防ぐ事を考えるにゃ! おみゃーらが、どうしようどうしようと迷う度に、未来が揺らぎそうににゃってるにゃ! 余計にゃ事は考えにゃいで……葵、跳べ! 紫苑は伏せるにゃ!」
虎目の叫びに、二人は反射的に体を動かした。数瞬後には、葵の足があった場所を鬼の爪が掬い、紫苑の頭があった場所を鬼の拳が空振った。虎目自身もサッと走り、鬼の攻撃を避けている。
まさに間一髪だ。あのまま喋っていたら、二人の足と頭は今頃地面に転がっていただろう。
しかし、攻撃を避けれたとは言え、窮地に立たされている事に変わりは無い。鬼達は次の攻撃を仕掛けようと構えている。包囲網も、先ほどまでより更に狭まっている。今度は、避ける事も難しいかもしれない。
「このままじゃ……!」
葵は、最悪の事態を口にし掛けた。
しかし、その考えは言葉にされる事無く葵の頭から消え失せる。
「天理に帰命し奉る! 雷鳴来臨、諸神真人、百鬼調伏、万魔覆滅! 急急如律令!」
鋭い声が聞こえ。次いで、激しい稲妻がまるで滝のように降り注いだ。