平安陰陽騒龍記
24
それは、夜の事だった。
それは、月の無い暗い夜の事だった。
それは、月の無い暗い夜の、丑三つ時の事だった。
それは、月の無い暗い夜の、特に妖しの物が活発に動くとされる丑三つ時の事だった。
暗い山道を、二人の男が歩いていた。片方は、若き日の隆善。もう片方は、若き日の惟幸。月明かりも手燭も無いというのに、二人は足元に気を使う様子も無くさくさくと歩いている。
「……紫苑は、もうとっくに夢の中なんだろうね」
ぽつりと、惟幸が呟いた。すると、隆善が「当たり前だろう」と不機嫌そうに返す。
「今、何刻だと思ってるんだ? 紫苑に限らず、見廻りの武士とお盛んな連中以外は全員寝てるだろうよ。……ったく、本来なら今頃、俺も加夜姫とお楽しみだったってのに」
「あの安倍晴明様に言われたとあっちゃ、流石のたかよしも断り切れなかったみたいだね」
笑う惟幸を、隆善は「うるせぇ」と睨み付けた。
「天命を全うする時が近い爺さんの頼みをやなこったと突っぱねるほど、俺は嫌な人間じゃねぇってだけの話だ。相手が安倍晴明だろうが帝だろうが物売りだろうが、関係無ぇ」
「……それだけじゃないでしょ? ただ面倒な事を頼まれたってだけなら、たかよしは全部一人で片付けようとするよね? なのに、僕を呼んだって事は……」
惟幸に言われ、隆善は益々不機嫌そうな気配になった。もし今ここに灯りがあれば、きっと渋い顔をしている隆善を見る事ができただろう。
「……あの大陰陽師、安倍晴明の事だ。ただの面倒事なら自分で何とかするだろう。体調なり予定なりに不都合があって動けねぇのなら、身近に動かせる奴はごまんといる。子も孫も陰陽師で、師匠筋の賀茂家とも縁が切れてるわけじゃねぇ」
「……」
隆善の言葉に、何故か今度は惟幸の気配が不機嫌そうになった。だが、そんな事には構わず、隆善は喋り続ける。
「それが何でか、まだまだ未熟で知名度もイマイチな俺に白羽の矢を立て、ただこの刻限にこの場所へ行け、とだけ言う。どんな卦が出たのか知らねぇが、多分これは、相当厄介な事になると見た」
「話が噛み合わないよ、たかよし。相当厄介な事になるなら、何で自分で言うところの未熟で知名度も無い陰陽師に、あの晴明様がわざわざ依頼をするのさ?」
「……俺なら、お前を巻き込む事ができるからな。晴明を除けば、恐らく当世一の陰陽師、惟幸を。八年前に出奔するまでは京の中で色々とやらかしてたんだし、お前の実家が実家だ。晴明も、お前の事はよく知ってるって事だろう」
「……そりゃあね」
惟幸の声は、まだ不機嫌そうだ。
「でもって、お前を必要とするような重大な厄介事に晴明自身が出てこないって事は、これはきっと長期に渡る話になる。さっきも言ったが、あの爺さんが天命を全うする時は近い。最後まで責任持って面倒見る事ができねぇと踏んだから、若くて使える陰陽師を巻き込んでおきたいんだろうな」
「……」
惟幸はしばらく黙り、そして深い溜息をついた。
「……本当に、思った以上に厄介な事になりそうだね」
「だろう? でなきゃ、誰が余命幾ばくも無ぇ爺さんのために、夜の楽しみを諦めるかよ」
「……さっきと言ってる事が違うよ、たかよし……」
呆れた調子で、溜息をもう一度……吐きかけて、惟幸は息を呑んだ。
気配がする。ぞろぞろ、ぞろぞろ、ぞろぞろ、ぞろぞろと。長虫のようで、悪寒と嫌悪を抱かせる気配が、闇の中で蠢いている。
「……たかよし」
「あぁ。流石は大陰陽師、安倍晴明様の卦ってところか。刻限も場所も、寸分も違わねぇ」
そして二人は、合図も無く走り出す。気配がより強い方角へと。
途中、長虫のような気配が何度か襲い掛かって来た。その都度、惟幸と隆善は鋭い声で孔雀明王の真言を唱える。
「オン、マユラ、キランディ、ソワカ!」
力強い声が夜の山に響く度、ぞろぞろと蠢く気配は惟幸達を襲うのを止め、二人から遠ざかっていく。
「孔雀明王の真言が効くって事は、やっぱこの足元の奴らは蛇か」
「多分。……月明かりが無くて良かったね。足元が見えてたら、今頃足がすくんで動けなくなってるよ」
「蛇の百匹や千匹で動けなくなるようなタマか」
軽口を叩いている間に、ぞろぞろと蠢く気配はより一層強くなっていく。それと同時に、今まで感じる事の無かった神気まで感じられるようになってきた。
「……何だ? この神気は……」
「! たかよし、あそこ!」
惟幸が叫ぶのにわずかに遅れて、辺りが一瞬、眩しく光り輝いた。次いで、洞を風が吹き抜ける時のような重く冷え冷えとした音が鳴り響く。
「何だ……!?」
「急ごう!」
そして二人は、全速力で走り出す。蛇避けの真言を唱える以外は、声を発する事も無く。