平安陰陽騒龍記
17
(この井戸……ただの井戸じゃない……!?)
目を見張りながら、知らず知らずのうちに胸に手を遣る。心臓は、もうすっかり落ち着いている。落ち着いた心で、葵は今起きている眼前の出来事を静かに見詰めた。
弓弦が井戸から手を引き抜いた。目が覚めるほど鮮やかな青の袿は、今は右の袖が水と光で濡れそぼっている。
光は弓弦の指先へと集っていく。同時に、袖からは光が消え、元の色を取り戻している。
弓弦は目を閉じ、すう、と深く息を吸い込み、吐いた。そして、カッと目を見開くと、右腕を振り上げる。
葵と、やっと追い付いた紫苑と虎目。二人と一匹は、瞠目し、息を呑んだ。
振り上げた事で露わになった、弓弦の腕。白かったそれに、今はびっしりと、無数の青い鱗が生えている。まるで瑠璃の欠片かと思えるほどに、綺麗な青い鱗だ。その鱗の先……白く細長い指の先には、人間の物とは思えぬ鋭い爪が生えていた。全てを切り裂きそうに鋭いその爪は、まるで肉食獣のそれで。
そして、見開かれた目は今までのような黒い物ではなく。金色に輝き、ぎょろりとしていた。それは、まるでそこにいる蛇達のような目だった。
「ゆ……弓弦?」
「このような中途半端な姿をお見せしてしまい、お恥ずかしゅうございます。ですが、今この場を切り抜けるには、こうする他は……」
声は、確かに弓弦の物だ。しかし、目の前に本人がいて喋っているというのに、腹の底に響き渡るように感じるのは何故だろう。
葵が言葉を探しているうちに、異変を察知したらしい蛇達がざわめきだした。ぞろぞろ、ぞろぞろ、ぞろぞろぞろぞろと、包囲網を狭めるようにじわじわと葵達に近寄ってくる。先ほどまで井戸を遠巻きにしていたというのに。
「……気安く寄るな、無礼者どもが!」
凛とした弓弦の声が辺りに響く。その声に気圧されたかのように、蛇達の動きがびくりと止まった。
蛇達の動きが止まるや否や、弓弦は振り上げた右腕を思い切り良く地面へと振り下ろした。右腕は振り下ろされるに従って、次第に大きくなっていく。しまいには葵を鷲掴みにできてしまいそうなほどになると、勢い良く地面を抉った。
地面と一緒に抉られた蛇達が、無残に千切れていく。平らかな地面に、蛇の血と肉片がわずかながら飛び散った。微かに漂ってくる生臭い臭いに、葵は思わず顔を背ける。
しかし、背けた視線の先にはまだ山のように蛇達がいた。その蛇達を目の当たりにして、治まっていたはずの心臓が再び強く脈打ち始める。
(何だよ、これ……どういう事!?)
「あ……くっ……!」
歯を食いしばり、それでも抑えきる事ができず。そのままズルズルと、井戸の傍らに座り込む。
「葵!」
心配をする紫苑の声が聞こえる。だが、蛇達に足止めを喰らっているのか、紫苑と虎目がこちらへ来る様子は無い。目の前では、弓弦が大きくなったその手で蛇達を散らしている。
(そう言えばさっき……弓弦が井戸に手を入れてから、身体が軽くなったんだっけ……)
ほんの少し前の出来事を思い出し、残る力を振り絞って立ち上がり、傍らの井戸を覗き込む。見たところ、水自体は何の変哲もない水だ。だが、水の向こう……井戸の奥底から、神気が湧き出してくるのを感じられる。
葵は、恐る恐る水の表面に触れてみた。冷やりとした感触が指先に心地良く、それだけでスッと楽になった気がする。
葵は少しだけ楽になった身体を起こし、辺りを見渡した。弓弦が戦っている。紫苑と虎目が、蛇達相手に苦戦している。この場で何もしていないのは、葵だけだ。
(何、やってるんだよ、俺。これじゃあ、何のために師匠達に鍛えられてきたのか……。何でこんな時に、こんな……)
ギリ……と井戸の端を掴む。ドクリと、心臓が大きく脈打った。
「……っ!」
まただ。せっかく楽になりかけていた身体が、また苦しくなってくる。そして心臓が脈打つ度に、井戸の水へ手を……いや、全身を浸したくなる。まるで体が、この井戸に呼ばれているようだ。
(浸かれば……いや、いっそ飲めば……?)
そんな考えが、頭を過ぎる。水の表面に触れただけでも楽になるのだから、この水を体内に取り入れれば、ひょっとしたら。
(けど、もし取り憑かれたり、祟られたりしたら……?)
考えている間に、再び心臓が大きく脈打った。急かされている。早く水を求めよと。
(こうなったら……一か八かだ!)
葵は心を決め、井戸の水に勢い良く両腕を突っ込んだ。腕がより深く水に差し込まれるごとに、身体が軽くなっていく。
(まだ、駄目だ。これじゃあ、またすぐに……)
またすぐに、心臓が奇妙に脈打ち始めるだろう。この水の神気を、もっと取り込まなければいけない。もっと、もっと、もっと。
身体を井戸の囲いから乗り出し、水面に唇が触れる。冷たい水が、するりと口の中に入り込んできた。葵はそれを、躊躇わずに飲み込む。
ドクリ、と。心臓が今までで一番大きく脈打った。
「……!」
思わず胸を抑え、その拍子に体勢を崩して身体が井戸の中に落ち込む。大きな水音が立ち、弓弦、紫苑、虎目がハッと井戸を見た。
「葵様!」
「葵!」
「にゃにやってるにゃ!?」
二人と一匹は、井戸に駆け寄ろうとする。だが、地面を埋め尽くす蛇達が次から次へと道を塞ぎ、時には飛び掛かってきて。思うように前へ進む事ができない。
「まずいにゃ……あんにゃフラフラの状態で井戸にゃんて落ちたら……!」
「葵! 返事をしてよ! 葵!」
紫苑が必死に呼ぶも、井戸の中からは返事は勿論、水音も聞こえてこない。
弓弦が蛇達を一気に薙ぎ払い、やっと井戸へと駆け寄った。
「葵様!?」
井戸の中を覗き込み、名を呼ぶ。だが、水は既に静まり、少々の波紋が見えるだけだ。葵の姿は、水底の闇に邪魔をされて、見る事ができない。
「葵様……葵様ーっ!!」
弓弦の叫び声が、井戸の中に木霊する。その声に反応してか、偶然か。水面が少しだけ、波立った。