平安陰陽騒龍記










16












「葵! どうしたの、葵!?」

「葵様、お気を確かに! 葵様!」

紫苑と弓弦が必死に呼びかけるが、葵は立ち上がる事ができずにいる。地に膝をつけ、辛うじて両腕で身体を支え、荒く速い呼吸を繰り返している。

そうしている間にも、蛇の数はどんどん増えていく。

「! 紫苑、弓弦! 葵を何とか起き上がらせるにゃ! あと少しで葵の手元に、毒蛇が近付いて来るにゃ!」

虎目の言葉を受けて、紫苑と弓弦は二人がかりで葵の肩を支え立ち上がらせた。そして葵を引き摺るようにして数歩下がるが、下がった先にもまた、うじゃうじゃぞろぞろと蛇が這っている。

「惟幸が懸念してたのは、これだったか……。それにしても、まさか葵がこんにゃ事ににゃるにゃんて……これは、まずい。まずいにゃ……!」

そう言っている間に、蛇は虎目がいる木の上にまで這い上がって来た。それを二股の尾ではたき落としながら、虎目は対策を考える。

「紫苑! 何か、良い符は持ってにゃいか!? 蛇を追っ払うようにゃ効果があるようにゃ……」

「そんな符、都合良く持ってないよ!」

非難がましく叫びながらも、紫苑は己の懐と、ついでに葵の懐もまさぐる。まさぐっている間に、気が立っているらしい蛇が数匹、顎を大きく開いて飛び掛かって来た。

「オン、マユラ、キランディ、ソワカ!」

孔雀明王の真言を唱え、蛇を防ぐ。だが、蛇やら符やらに気を取られてまるで集中できていない状態。効果も本当に一時的だ。

「あ、蛇避けは無いけど、鎮不安符ならあったよ、虎目!」

葵の懐から拝借した符を、紫苑がひらひらと振って見せる。登ってくる蛇をはたき落としながら、虎目はそれを見た。

「じゃあ、それに念を込めて、葵に持たせておくにゃ! 何もしにゃいよりは、少しはマシにゃはずにゃ!」

紫苑は頷き、病人の心を鎮める力を持つ符に念を籠め、葵の懐へ丁寧にねじ込む。やがて、葵の呼吸は規則性を取り戻し、弓弦に支えられながらも何とか己の力で立ち上がった。

「……済みません、紫苑姉さん。もう、大丈夫です……」

まだ大丈夫そうには見えないが、それでも先ほどよりははっきりとした声で葵が告げる。弓弦に礼を言い、支えられていた肩を放してもらった。

「それで……これからどうしますか、紫苑姉さん?」

まだ青い顔で、葵は問う。持ち直したとは言え、未だ辺りには蛇達がひしめき合っている。その様子を見ていると、符で鎮めているのに再び心が取り乱しそうになる。紫苑と虎目にも、それが伝わっているのだろう。顔に、早く何とかしなければ、という焦りの表情が見えた。

「むむぅ……さっきから見ていれば、紫苑も葵も一体何をやっているでおじゃるか! 自分達の力で何とかできないなら、さっさと瓢谷に応援を頼むでおじゃる!」

塀の上で、まるで他人事のように栗麿が叫ぶ。

「自分で何も動こうとしない者は、お黙りください!」

負けじと弓弦が叫び、明らかに無毒な蛇を引っ掴んで栗麿へとぶん投げた。蛇は栗麿の肩にぼたりと落ち、「やあ」と言うように鎌首をもたげている。

「ふぉ……ふぉぉぉぉぉっ!?」

栗麿の悲鳴が木霊する。そして弓弦は涼しい顔で、耳を両手で塞いでいる。

「……弓弦ちゃん、やるね……」

「……忘れてくださいませ。それよりも……」

恥ずかしそうに顔を背け、背けた視線の先に蛇がいたので睨み付ける。弓弦に睨まれた蛇は縮こまり、しゅるしゅると遠のいていった。

(あの時と、同じ……?)

栗麿の式神が弓弦に見詰められた事で隙ができた。あの時の事が、脳裏に蘇る。過ぎた事を考えているせいで弓弦の言葉が頭に入ってこないが、とにかく何か考えていないとあっという間に先ほどの妙な体調に戻りそうだ。

「あの栗麿が申しておりましたように、瓢谷様に救援を頼むのは必要かと存じます。ですが、瓢谷様がここに到着するまでにどれほどの時が必要になるかはわかりかねます。ここにいる私達で、人々に被害が拡がらぬよう時を稼ぐは必定かと」

紫苑が頷き、懐から何も書かれていない紙を取り出した。親指を噛み、滲み出た血を紙に押し付けると、その紙を手早く折り付け鳥の形を作り出す。そしてそれにフッと息を吹きかけると、紙の鳥はひとりでにパタパタと羽を動かし始め、宙へと飛び上がった。

「これで、良し。あとは、師匠が来るまでボク達が頑張るしかないね」

「はい。その事で、紫苑様。私にひとつ、奥の手がございます」

「奥の手?」

袖で蛇を振り払いながら問う紫苑に、弓弦は頷いた。

「葵様」

「……! あ、ごめん。……何だった?」

声をかけられ、ハッとして葵は弓弦に問う。顔色は、相変わらず良くない。符で心を保つのも、限界に近い。

「……葵様、私が先ほど覗き込んでいた井戸。覚えておいでですか?」

「うん。流石についさっきの事だし、覚えてるよ。……あの井戸が、どうかした?」

問いには答えず、弓弦は井戸のある方角へと視線を向けた。つられて、葵、紫苑、虎目も同じ方角を見る。

「……今から、あの井戸へと参ります。葵様、お身体が辛い中申し訳ございませんが、しばしのご辛抱を……」

「え……?」

問う暇も与えず、弓弦は葵の手を掴むと、脱兎の如く駆け出した。突然の弓弦の行動に、葵は勿論、紫苑も虎目も即座に反応する事ができなかった。

「走ってる……。弓弦ちゃん、良いとこの子っぽいのに、走ってる……」

「……走ってるにゃー。紫苑でもにゃいのに……」

唖然としながらも、紫苑と虎目も二人を追う。弓弦の走る速度は、かなり速い。走る事をはしたないとされる貴族はおろか、野山で獲物を追う事で生計を立てている猟師ですら敵わないのではないかと思われるほどに速い。

物凄い速さで、地面を埋め尽くさんばかりの蛇達を踏み付ける事も厭わずに走っていく。

「ちょっ……弓弦!?」

体調が思わしくない事も忘れるほどの速さで引っ張られ、葵は舌を噛みそうになりながらも何とか弓弦の名を呼んだ。すると、それが合図であったかのように弓弦が止まる。

そこは、先ほど弓弦が覗き込んでいた井戸の前だった。不思議な事に、この井戸の周りには蛇達の姿が見られない。歩幅にして二歩分……六尺も離れれば、そこにはうじゃうじゃぞろぞろと蛇達がとぐろを巻いているというのに、だ。

まるでこの井戸を避けて取り囲んでいるように、そこには蛇達がいなかった。

「……え? これって、どういう事……?」

「お静かに!」

ぴしゃりと言い放つと、弓弦は井戸の中に手を差し入れた。透き通った水の中を、白い手が、袖が濡れるのも構わずに潜っていく。

「弓弦!? 何やってるの? 危ないよ……!」

葵は力の入らない手で弓弦の袖を掴み、これ以上井戸に身を乗り出さぬよう引っ張ろうとする。だが、今は弓弦の方が力が強いように感じられ、引き寄せる事ができない。……いや、今だけではなく。これはひょっとすると、普段の葵よりも強い力かもしれない。

やがて、井戸の水がきらきらと光りだす。陽の光を反射しているのではない。水が自ら光り輝いているような……。

ゆらゆらと、水に波紋が立ち始めた。波紋は次第に弓弦の腕に収束していき、それに乗るように光も集まっていく。

井戸から、煌々と神気が立ち上り始める。光り輝くような清浄な空気が辺りに満ち、その空気を吸っているうちに身体が軽くなっていくのを葵は感じた。






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