平安陰陽騒龍記
18
暗い。暗いはずなのに、明るい。いや、やっぱり暗い。
ごぼごぼと気泡を昇らせながら、葵は水の中を沈んでいく。神気溢れる井戸に落ちたからだろうか。先ほどまでの苦しさは、感じない。水に落ちて息ができないはずなのに、息苦しさも無い。
(あ、これ……俺、死ぬのかな?)
死を意識した途端、胸が苦しくなった。しかし、先ほどまでとは少し違う苦しさだ。心臓が、締め付けられるような感覚に支配される。
(嫌だ……まだ、死にたくない……)
記憶を取り戻していない。両親に再会していない。二人の師匠に恩返しをしていない。まだまだ、学びたい事はたくさんある。それに、葵は弓弦に……
(弓弦に、本当の名前……まだ、訊いてない……)
「葵様!?」
空耳だろうかと、最初は思った。水の中で、声が聞こえるはずが無いから。ましてや、声の主は葵が井戸に落ちる直前まで、蛇達と相対していたのだから。それが、自分がその存在を意識した途端に声が聞こえるなど……都合が良過ぎる。
「葵様……葵様ーっ!!」
「……!」
空耳では、ない。弓弦の声だ。弓弦の声が、確かに葵の耳に聞こえてくる。
(弓弦……!)
その名を、強く念じた。まだ微かに見える、頭上の光に向かって手を伸ばす。
ドクリ、と、音が聞こえた。
(こんな時に……!)
ドクリ、ドクリ、と。心臓は大きく、速く、脈打ち暴れ、葵の体内から呼気を追い出していく。
(う……くっ……!)
水の中、身体を思うように動かせぬまま必死で胸を抑え、心臓を落ち着かせようとする。だが、静まらない。遂に、肺の空気を吐き切ってしまった。
ドクリ、ドクリ、ドクリ、ドクリ。
息ができないというのに、心臓の動きはどんどん速くなっていく。やがてその運動は肩に、首に、手に、腹に、腿に、足に。次第に伝搬していき、痛みとなって全身を苛み始めた。更には、身体中の血管と言う血管を、小さな虫達が這いまわっているかのような感覚まで覚え始める。
(う……あ、うあぁぁぁっ!)
葵は声無き声で叫び、それに呼応するかのように血管の中の虫のような動きが活発化する。
そして、遂には虫達が血管を食い破り。身体中の穴という穴から飛び出してきたように、葵は感じた。