贄ノ学ビ舎
32
「……え?」
突然の出来事に、奉理も知襲も言葉を失い、呆然と倒れた白羽の体を見詰めるしかできずにいる。
何かが、白羽の体に突き刺さっていた。赤く、そして点滴のチューブのような細い管。白羽の体から、まっすぐに暗い廊下の奥へと伸びている。
「なに……これ……」
「おとう、さん……? お父さん!?」
知襲が顔を真っ青にして駆け寄った時、白羽に突き刺さっていた管がぼこりと膨れ上がった。膨らみは、布を被せられた小動物のように動き、廊下の奥へと移動していく。
廊下の奥に、何か、いる。それを認識した時、奉理は威圧感を覚えた。この感覚には、覚えがある。自分の力では抗いようも無い、とてつもなく強い何か。それが、こちらへ段々と近寄ってくる。
「あの時と、同じ……? 静海の、儀式の……」
似ていた。静海を生贄として犯そうとしていた、あの山の主の気配に。あいつは、倒したはずなのに。だから、今ここに奉理がいるはずなのに。
「あー……くそまじぃな」
ドスの効いた声が聞こえた。奉理は咄嗟に白羽の手からポケットライトをもぎ取り、声の聞こえる方へと光を向ける。
蝙蝠のような羽が見えた。青黒い肌が見えた。虎の瞳が、鋭い牙が、漆黒の体毛が見えた。宙に浮いている。あの赤い管が、掌から生えている。
間違い無く、あの山の主の同類。そう断言できる化け物の姿が、光に照らされ浮かび上がった。
化け物は、赤い管の伸びる右腕を勢いよく一振りする。管は鞭のようにしなり、その動きに合わせるようにして白羽の体からもう一度、そう動物のような膨らみが生まれて動き出す。
「うぐはっ!」
白羽の体が、ビクンと大きく痙攣した。その体が、次第に土気色に染まる。次第に、古木のように枯れていく。
「な……!」
言葉を失い、奉理は白羽と化け物を交互に見る。小動物のような膨らみが、化け物の掌に辿り着き、そして掌の中に消えた。一瞬、ごくん、という音が聞こえる。
「はい、ごちそうさん」
化け物がべろりと、長い舌で舌なめずりをした。すると、それが合図であったかのように。白羽の体が茶色くなり、そして土くれのようにぼろりと崩れた。
「……!」
「お父さ……!」
奉理は目を見開き、知襲が悲鳴をあげる。その様子に、化け物は不満げに顔を歪めた。
「おいおい、何で悲鳴なんかあげるんだよ。あんたが、やめて、とか言うから、こんなまっじぃジジイを食ってまで止めてやったんだぜ、母者?」
「……え?」
奉理は、我が耳を疑った。今、この化け物は何と言った?
「母……?」
奉理の呟きに、化け物は舌打ちをした。ひらひらと、右腕を振る。
「あーあー、やってられっか。……おい、母者。俺は地上に出るぜ。地上で、好きな場所で自由に暮らして、好きなモンを食うんだ。あんなジジイじゃなくて、母者。あんたみてぇに、若くてキレイな娘をよ」
知襲は、何も言わない。ただ、小刻みに震えている。化け物は、宙に浮いたまま奉理の方へと向かってくる。……いや、奉理ではなく、その後の階段――地上への出口を目指しているのか。
すれ違いざま、化け物は低い声で囁いた。
「お前は見逃してやるよ。野郎の味なんざ、あのジジイ一人で充分だ」
そして、そのまま行ってしまう。奉理の足では追う事もできず、後には、奉理と知襲の二人だけが残された。
知襲は、まだ震えている。奉理は、何と声をかければ良いのかわからない。
「あ、あのさ……知襲……」
声をかけられた瞬間、知襲の体がびくりと大きく震えた。小刻みだった震えが、大きくなる。
「や、柳沼くん……ご、ごめんなさい……」
「え?」
意味がわからず、奉理は怪訝な顔をした。
「ごめん、って……何が……?」
「ごめんなさい……ごめん、なさい……!」
謝る以外に、知襲は何も言わない。繰り返し繰り返し、謝り続ける。奉理は、どうしたら良いのかわからない。わからないまま、おろおろと辺りを見渡した。
「ウゥ……グゥオオォォォアォォォァァォォォ!」
「!?」
唸り声が。突如、辺りに響き渡った。……そうだ、すっかり忘れていた。この校舎には、まだあれがいるはずなのだ。大型の肉食獣のような唸り声をあげる、何かが。あの理科室の上にある、体育館に。
「知襲、あれ……」
注意を促そうと視線を知襲に戻した時。知襲は、走り出していた。奉理に背を向け、廊下の向こうへと。
「え、知襲……!?」
わけがわからず、奉理は立ち上がる。急いで後を追おうとするが、トラバサミで負った傷が痛み、思うように動けない。
「……くそっ!」
悔しさから呟き、足を引き摺りながら知襲の足取りを追う。恐らくだが……行き先は、体育館だ。