贄ノ学ビ舎
31
知襲の声が、それを止めた。階を踏むはずだった足は元の床を踏み、奉理は背後を振り返る。
そこには、想像に違わず、知襲が立っていた。汗一筋も流さず、呼吸一つ乱さず、しかし顔色を変えて。思い詰めた表情で、白羽の事を睨んでいた。
「知襲……まだ邪魔をする気ですか?」
どこかうんざりとした顔で、白羽が知襲に向き合った。白羽の視線が己から外れ、奉理は呪縛が解かれたように気が抜けた。再び足腰が力を失い、その場にへなへなと座り込んでしまう。
「……駄目です。お父さん、もう……やめてください。これ以上、誰かを犠牲にするのは……もう……」
「やめたところで、化け物は既に全国に散らばり、増え続けているのですよ。生贄を出さずとも、誰かが犠牲になります。生贄を出した方が、犠牲は少なくて済む。知襲も、わかっているでしょう?」
小さな子どもをあやす様に、白羽は優しい声で言う。だが、声音は優しくとも、気配は凍えるように冷たい。それを感じているのだろう。知襲は、身震いをし、少しだけ体を縮こませた。だが、それでも負けじと顔を上げ、泣きそうな顔になりながらも、必死に抵抗の声をあげる。
「倒せば良いんです! 全ての化け物を倒してしまえば、誰も死なずに済むじゃないですか!」
「どうやって倒すのですか? 奴らには、自衛隊でも敵わなかったのですよ? まさか、物語のように勇者が現れるのを待つと言うわけでもないのでしょう?」
「それは……!」
言葉を詰まらせ、知襲は口をつぐんだ。そんな知襲に、白羽はくすりと冷たく笑う。
「アダム細胞破壊毒……ですか? 堂上明瑠さんの遺した」
白羽の口から出た言葉に、知襲はぎくりと身を強張らせた。その名前に、奉理は覚えがある。理科準備室にあった、例の毒薬が入っていた瓶に貼られていたルーズリーフのお手製ラベル。そこに、書いてあった。
白羽の顔が、醜く歪んだように感じた。背を向けられているので、顔を見る事はできない。だが、気配でわかってしまう。嗤っている。悪魔が憑りついたような顔で、嗤っている。
「そう……そうです。忘れていました。あの毒薬がどこにあるのかを、訊かなければいけませんでしたね。あの化け物達に致命傷を与える事ができる、人類唯一の武器。堂上さんが生み出した、私達の理想の実現を妨げる……あれを、処分しなければいけませんからね」
そして白羽は、奉理の方へと視線を遣った。悪魔の顔に、奉理は一瞬、呼吸を忘れてしまう。
「柳沼くん……あの毒薬はどこにありますか? あの儀式で化け物を倒した君なんですから、当然、知っているでしょう? 化け物達は、あの毒薬無くして倒す事はできないのですから……」
言いながら、白羽はしゃがみ込み、奉理に視線を合わせてくる。だが、その視線は奉理の目だけを見てはいない。シャツに、ズボンに、靴に。全身を観察するように見詰めている。
「それとも。今も持っているのですか? あの忌まわしい毒薬を、その身体のどこかに、隠しているのですか?」
白羽の腕が伸びる。奉理は何とか逃げようと、抜けた腰に力を入れようと試みる。何とか動ける、後ずさろうとする。だが、真後ろは階段で、後ずされない。
立ち上がらなければ逃げられない。だが、立ち上がろうにも、上手く立ち上がれない。
「お父さん、やめて! 柳沼くん! 逃げてください!」
知襲の声が、何故か遠く聞こえる。
逃げ遅れた足を、白羽の腕が掴んだ。奉理が上履きを脱がせ、中に何も入っていない事を確認し、次にスラックスのポケットをまさぐる。気持ちの悪い感触に、奉理は思わず白羽を突き飛ばした。
白羽はバランスを崩して尻餅をつく。だが、すぐに体を起こし、奉理の胸ポケットを見た。
「靴やスラックスに隠している様子はありませんね。では、隠しているとしたら……」
思わず、奉理は胸ポケットを抑えた。そしてすぐに、それが非常にまずい行為であった事に気付く。
「ああ、やはりそこですか。……いけませんねぇ。定石通りに上から調べていれば、無駄な時間を費やす事も、あんな風に尻餅をついてしまう事も無かったでしょうに」
そう言って、白羽は奉理の胸ポケット目掛けて腕を伸ばそうとする。
「お父さん!」
知襲が、泣きそうな声で叫ぶ。
「やめて! やめてください! こ、これ以上は……本当に、あ、ア……」
「アダムを呼びたければ、呼びなさい。彼に見られても良いのであれば、ですが」
冷たく、吐き捨てるように言った。知襲は、震えている。そんな彼女を尻目に、白羽は腕を伸ばす。
「やめてください……やめてぇぇぇぇっ!」
悲鳴とも、絶叫ともとれる。そんな知襲の声が辺りに響き渡るのと、白羽が急にくずおれたのは、ほぼ同時だった。