贄ノ学ビ舎
22
夕暮れ時の、グラウンドを眺める事のできるベンチに座って。奉理はぼんやりと考え事をしていた。
知襲の名字……白羽は、この鎮開学園の理事長の名だった。白羽という名字は、決してよくある名前ではない。
だとすれば、知襲はこの学園の、理事長の身内……という事になるのだろうか。確か、白羽理事長は現在七十代。ひょっとしたら、八十を超えていたかもしれない。……となると、知襲は理事長の孫、だろうか?
そうだとしたら、色々と得心がいく。生贄の儀の内容を知っていた事もそうだし、地下に埋められた校舎の存在や、その内部構造を知っていてもおかしくない。
「だとしたら……何で俺に、化け物を倒す方法を教えてくれたんだろう……?」
化け物を倒す方法を偶然知襲が見付けたのだとしたら、それは奉理ではなく学園の全てにおいて権限を持つ白羽理事長に教えるべきだろう。その方が、確実に最適な人選を行える。
「それに、理事長の身内なら何で……」
何故、この学園にいるのだろう。理事長だって、人の子だ。生贄を養成するこの学園に、わざわざ身内を入学させるとは思えない。まず、強制推薦枠に入る条件を熟知しているのだから、生贄に選ばれないよう教育するのではないだろうか。
首を傾げ、まとまらない考えにイラついて頭をガシガシと掻く。以前にも、こんな状態にならなかっただろうか?
どこからか、歌声が聞こえてくる。合唱部の練習だろうか。それとも、生贄に選ばれた者が、神の心を鎮める歌を、本番に備えて練習しているのか。……これも、前に似たような状況が無かっただろうか?
……あぁ、そうだ。あれは、まだ静海が生贄に選ばれる前。やはりこうして、夕暮れ時のグラウンドで考え事をしていて、埒が明かなくなって。
そう言えばあの時は、どこからともなく、すすり泣きの声が聞こえてきた。今回は、そのような事はない。すすり泣きの代わりに、夕方から強くなり始めた風の音が耳元で唸る。まるで、獣の唸り声のような音だ。
「ウゥ……クゥオオォォォアォォォァァォォォ!」
「!?」
違う。風の音じゃない。奉理は勢いよくベンチから立ち上がり、辺りを見渡した。だが、何も見当たらない。
「あの時と、同じ……!?」
人の気配が無いか、注意する。だが、やはり前回と同じだ。唸り声に気付き、グラウンドの様子を見に来る者は無い。
奉理は必死に耳を澄まし、音の出どころを探る。
木や校舎に反響し、わかり難いが……音源はどうやら、地下だ。前回は知らなかったが、地下には、あの校舎がある。
「あの校舎の中に……何か、いる!?」
引き続き、耳を澄ます。耳を澄ましながら、件の林を探しつつ、グラウンドの上を歩く。歩くうちに唸り声が大きく聞こえる場所、比較的小さく聞こえる場所がある事に気付いた。特に大きく聞こえる場所は、地面が、空気が、ビリビリと震えている。
「下だ……この真下に、何かいる……」
確信し、奉理は林から現在地までの、方角と距離を目で測った。三週間前にあの地下校舎には、林の中にあるペントハウスのような建物から入った。それを踏まえて考えると、今、地面を挟んで奉理の足もとにある場所は……。
「あの、理科室があった棟……?」
奉理の方向感覚が正常であれば、間違いない。この下には、あの理科室があった棟が埋まっているはずだ。確か、その上の階は体育館だったか。
「何で、こんな声……」
あのペントハウスのような建物には、扉らしい扉は無かった。その気にならずとも、誰でも簡単に入れる。人間でなくとも、野生動物だって。
「何か、入り込んだのかな? 野生のクマ、とか……」
口に出してみてから、それはあり得ないと首を横に振る。クマの唸り声など本州は都会寄りの場所にある住宅街で育った奉理は聞いた事が無い。だが、それでもこんなおぞましく大きな唸り声は出ないだろうと思う。
そもそも、この学園は元々ここにあった学校を埋め立てて造った山の上に建っているという。そんな人工の山に、クマのような巨大な野生動物が生息しているわけがない。いたとしても精々野犬や野良猫、野生化した元ペットのアライグマぐらいだろう。
「じゃあ、元々何かが住んでいた……!?」
住んでいるとしたら、何だ。どこに? こんな大きな唸り声を出すような奴だ。少なくとも、小さくはないだろう。だとしたら、住める場所は限られてくる。体の大きな生物が、のびのびと暮らす事ができる場所。それは、例えば……。
「体育、館……?」
埋め立てられ、グラウンドが無い校舎だ。一番広い場所は、間違い無く体育館だろう。そして、体育館は今奉理が立っている場所の真下。更にその下の階には、件の理科室と理科準備室がある。
つまり、あの時。奉理が知襲に導かれて毒薬を探していたあの時、奉理がいた場所の真上には……。
「……っ!」
強烈な寒気を感じ、奉理は総毛立った。そして、今更ながら大変な事に気付く。
「知襲は……今も、あの校舎に……?」
知襲は、あの校舎を家のような物だと言っていた。理事長の身内という事なら、それは実際に住んでいるのではなく、子どもの秘密基地というようなニュアンスだったのだろうが。どちらにしても、授業が無い時間、長く居る場所だという事に変わりは無い。
「……っ! 知襲……助けないと!」
こんな唸り声を発するような奴と同じ場所にいては、危険だ。そう考えた瞬間、奉理は走り出していた。
はっきり言って、何がいるのかもわからない場所に一人で突っ込んでいくのは怖い。だが、自分と静海を助けてくれた……それでなくても、か弱い少女が危険な場所にいるかもしれないのに、放っておく事などできない。
以前の奉理なら、放っておく事などできないと思いながらも、結局関わらないようにしたかもしれない。だが、今は……逃げたくなかった。あの生贄の儀で自分の裡に見付けた勇気を、無かった物にしたくはなかった。
走って、走って。奉理はあの林の中に駆け込み、あのペントハウスのような建物を探した。
それはそれほど時を置かずに見付かり、奉理はすぐさま、その中へと駆け込もうとした。だが。
「……誰か、出てくる!?」
暗い暗い、階段の下から、足音が聞こえてくる。奉理は咄嗟に、物陰に隠れた。
やがて、扉の無いその出入り口からは、スーツを纏い、かくしゃくとした老人が現れる。六十代にも七十代にも見えるその老人の顔は、奉理も知っていた。
あれは、昼間、小野寺との話で出てきた人物。この鎮開学園の全てに権限を持つ人間。白羽理事長に間違いない。
白羽理事長の後からは、知襲が数歩遅れて出てきた。知襲が無事だった事にホッとしつつ、奉理は白羽理事長と知襲の様子を見詰め続ける。
どこか暗い影があるが、それでも笑った顔で。知襲は、白羽理事長と親しげに言葉を交わしている様子だ。どうやら、知襲は白羽理事長の身内であるという推測は当たっていると見て良さそうである。
二人は奉理に気付かぬまま、林の出口へと歩いていく。一度だけ、知襲が振り向いた。ひょっとしたら、目が合ったかもしれないのだが、その時に、奉理はぞくりと悪寒を感じた。
その目は、奉理に「早く部屋に戻れ」と言っているように見える。そして、横に立つ白羽理事長の存在を気にしているようにも。
急に例えようも無い恐怖を感じ、奉理はそろそろとその場から離れた。そして、知襲達の姿が見えない場所まで来ると、寮に向かって一目散に駆け出す。そうしなければいけないような、そんな気がした。
奉理が駆け去ってから、しばらく後。白羽理事長が、林から姿を現した。そこには、知襲の姿は無い。
白羽理事長は、奉理が地面に残していった足跡を見、次いで寮の方を見た。そして、深いため息を吐くと……そのまま、校舎の方へと歩いて行った。