駆出し陰陽師と夏に降る紅葉
13
清い水で、とっておきの墨を丹念に磨る。
紙も、その辺にある適当な物ではいけない。美しい紙でなくとも良い。香を焚き染めなくても良い。気の利いた花や枝を添える必要も無い。ただ、皺や汚れの無い紙を。
文字は、いつにも増して丁寧に。誰が見てもわかるほど雑に書いてはならぬ。
用件は、簡潔にわかりやすく。どれだけ技巧を凝らそうとも、相手に伝わらなければ意味は無い。特に仕事の文は、時をかけずに相手に伝わる文章にするよう心がけよ。
ただし、用件のみもまた味気ない。時候の挨拶、近況の報告、相手への気遣い。何か一言添えて、文を読む相手の気持ちに寄り添うべし。
これらの事を季風に叩き込んだ姉に送る文だ。身内への文と言えど、気は抜けない。
季風は姿勢を正して筆に墨を含ませると、一切皺も折り目も汚れも無い紙に、丁寧に文字をしたためた。
長らく家を空けている事を侘び、姉の健康と家の者達の多忙を気遣う言葉を綴り。
現在どのような案件に携わっているのかを簡潔に書き、姉に力を貸して欲しい旨を記す。
今知りたいのは、虫食いの文字が何を意味するのか。季風が何とか順番通りに回収する事ができた葉の文章は、何なのか。
それがわかるだけで、事が随分と進むように思う。
すぐに投げ出したのだと思われないよう、上司である隆善にも相談した旨を忘れずに記し、しばらくの間は机の上で墨を乾かす。乾かしている間に隆善が文の内容を覗いていったが、特に何も言われなかったので、まずい事は書いていないはずだ。
墨が乾いたところで、紙を丁寧に何度も折り畳む。皺も折り目も無い紙で文を書くべし、という旨に反するが、これは必要な事なので大目に見て貰える。
紙を鳥の形に折り、机の上に置く。心を落ち着かせて呪を唱え、鳥の形をした紙を再び手に取ると、ふっと息を吹きかけた。
すると、紙の鳥は翼をぱたぱたと動かし始め、自力で宙へと浮き上がる。その様子に満足そうに頷くと、季風は口元をほころばせて呟いた。
「姉上の許へ」
途端に、紙の鳥はすいっと陰陽寮の建物から飛び出し、朱雀門を越え、南の方へと飛んでいく。
今はとにかく、時が惜しい。それに、かの邸で暑気あたりをした事からもわかるように、疲れている。
季風が歩いて自邸へ戻り姉に尋ねるよりも、式神を飛ばした方が早い。それに、返事が来るまでの間に仮眠を取る事ができる。
隆善と周辺の同僚に許可を取り、机を少しだけ移動させて、仮眠の場所を作った。そして、さぁ寝ようと思った時だ。
「隆善様ー? 隆善様と季風殿に文を、という人が来ているんですけど? らんの君、という方から」
早過ぎる。季風はがばりと身を起こして顔を引き攣らせた。視線を移せば、隆善の表情も引き攣り、目の端がひくひくとしている。
「……相変わらず、お前の姉はどうなってんだ……」
「どう……なっているんでしょうね……?」
季風の方が知りたいぐらいだ。
二人してうろたえている間に、文遣いが案内されてやってきた。何やら後ろに、何人もの下男を連れている。そしてその下男の全員が、大きな行李を背負っていた。
「え、あの……この行李は?」
季風が目を白黒させて問うと、文使いも困ったように首を傾げている。
「さぁ……私どもは、姫様にこちらも併せてお届けするように言いつかっただけですので……」
そして彼らは、山のような行李を屋内に無理矢理押し込み積み上げると、そそくさと帰っていってしまった。文遣いは、季風の手にらんの君――姉からの文を握らせていく事を忘れない。
残された季風、隆善、その他諸々の陰陽師達は、困惑した顔のまま、その場に突っ立っている事しかできずにいる。
そうして、どれほどの時が経ったであろうか。
まずは、らんの君のわけのわからなさに最も慣れている季風が、我に返った。こうしていても何もどうにもならないと、まずは姉からの文を開いてみる。そして、ぎしりと身を強張らせた。
その反応が気になったのか、次いで隆善が再び動き始めた。季風の背後から手紙を覗き込み、顔を顰める。
上司の機嫌が悪くなった事が空気となって伝わったのか、他の者達も我に返りつつ顔を強張らせていく。
「季風……回し読みするのも面倒だ。……音読しろ」
「……え」
隆善の言いつけに、季風は声を詰まらせた。声を出して読めと? 姉の、この文を?
しかし、回し読みするのが面倒だというのはたしかだ。何故他の陰陽師達にも聞かせる必要があるのかはわからないが、何故かそれなりに人員がいるこの部署。全員で読んでいては、時がかかって仕方が無い。
季風は息を吸い込み、手紙をよく見える位置に上げ。意を決して口を開いた。
『ずっと家を空けているあなたが、元気でやっているようでまずは安心いたしました。たとえ何事も無かったのだとしても、便りも無く待たされるのはとても心配するものなのですよ。未だに通う姫が無いとはいえ、便りは小まめに寄越す癖を置浸けなさい』
「そこから読まなくても良い。仕事減らして早く帰らせろって意思表示か?」
隆善がじとりと睨み付けてくる。そんなつもりは毛頭無かった季風は、そう捉えられる事もあるのかと慌てて口をつぐむ。
そして、自分が未だにどこの姫のもとにも通っていないという事まで音読でばらしてしまったのは失態だったと思う。
反省に反省を重ねて、まずはざっと手紙の全文に目を通し直す。そして、即座に読むべき部分と読まなくても良い部分を頭の中で仕分けた。
『心当たりがあれば教えて欲しいとあなたから文を頂いた文章ですが、あれは源氏物語の一文です。言ふよしもなき匂ひを加へ……源氏物語の第四十二帖、物語の中心が薫君と匂宮に変わったところですね。こういう事もあるから、物語と侮らず、隙あらばどんな書物でも読んでおきなさいと常日頃から申し上げているのですよ。それを怠ったから、今このような事になっているのでは? あなただけであれば若さゆえの不勉強であろうとため息を吐くにとどめるでしょうが、上司である隆善殿までがわからないとは、何と情けない。日々仕事に追われてお忙しいのでしょうが、上に立つ者、どんな情報にも過敏になっておかねば、いずれは足下を掬われますよ、と、必ず隆善殿にお伝えください。……いえ、彼の事ですから、皆の前でこの文を音読するように、とあなたに命じるかもしれませんね。その際には、この隆善殿への苦言も必ず音読するように』
「そこで本当に音読するんじゃねぇよ……っつか、覚えてねぇよ、そんな細かい文章まで。読んだは読んだんだよ、源氏物語は。一応」
がっくりと肩を落とす隆善に、季風は少々申し訳無さそうに肩を竦める。だが、文を出した途端に文を返してくるようなわけのわからない姉だ。必ず音読するように、と言われた文章を音読せずに済ませた場合、どうしてかばれてしまう気がする。……というか、文を簡潔に書くようにと季風に教えたのは姉であるはずなのだが、姉が季風と隆善に対しての文に小言を書き連ねるのは良いのだろうか……。
姉の文の内容……と言うよりも、物の言いように、他の陰陽師達が季風に対して憐憫の目を向けているような気がする。中には、苦笑している者もいるが。
苦笑に苦笑を返し、季風は最後の一文を読む。
『あなたが収集した葉に記されていたのが源氏物語の四十二帖の一文という事は、それより前の日の葉には源氏物語のもっと前の巻の文が記されている事も考えられるのではないでしょうか? 三月という日数を考えると、他の物語の文章が記されている葉もあるかもしれませんね。参考として、今までに私が書き写した物語の本を全て送ります。保管してあるというこれまでの葉と照らし合わせてみれば、何かわかるのでは?』
あとは、『それでは、あなたから後日談を聞く事を楽しみにしています』と結ばれていた。
文をたたみ、懐にしまう。そして。
「……」
全員が黙り込んだまま、山と積まれた行李に視線を移した。
今の文から、この行李の中には姉が書き写した物語の書物が詰まっている事がわかる。
そして、姉は言っているのだ。
この膨大な量の書物と、あの山のようなもみじ葉を照らし合わせろ、と。
この後起こるであろう事態を察したのだろう。全員が、胡乱な目で季風の事を見た。そして、全員から魂魄を抜き取ろうとするかのように、隆善が言い放つ。
「……とりあえず、季風以外全員、今やってる案件一旦止めろ。緊急性がありそうな奴は、本来の陰陽師に押し付けといてやる。……で、ここにいる全員で、この書物ともみじ葉の内容を照らし合わせる。異論は認めねぇ」
察していても、実際に言葉となり、言霊が宿ると、その威力は凄まじい。
全員が、魂魄を抜かれたように崩れ落ち、呻くようなため息を吐いた。