駆出し陰陽師と夜桜の君




















逢魔が時を迎え、空の色は次第に赤く、そして黒く移り変わっていく。そんな空の下、季風は邸の主人と共に、桜の木の下でゆるゆると酒を酌み交わしている。

「まことに、今宵で終わるのか?」

疑わしげな目をしながら酒を乾す主人に、季風は「えぇ」と頷いた。

酒は、夜桜の君が現れるまでの時を潰せるよう、邸の主人が用意してくれた。だが、折角の厚意だが、正直なところ、季風はあまり酒に強くない。完全に酔っぱらってしまう前に、事を済ませたいところだ。

辺りはどんどん暗くなり、やがて、いつも夜桜の君が現れる刻限となった。だが、不思議な事に、いつまで経っても夜桜の君は現れない。

主人は不思議そうに首を傾げ、酒をどんどん乾していく。やがて、その酒も無くなり、する事が無くなった主人が赤らんだ顔を季風に向けた。

「不思議じゃ……まことに不思議じゃ。いつもならとうに現れておるはずの、夜桜の君の姿が一向に見えぬとは……。もしやそなた、既に……わしの知らぬ間に、夜桜の君を調伏してくれたのか?」

「いいえ」

多少、酔いが回ったのだろうか。少々緩慢な動作で首を振り、季風は否定の言葉を口にした。

「調伏はしていませんし、夜桜の君はまだここにいますよ。ここに」

そう言いながら、季風は懐をまさぐった。取り出したのは、何かを丁寧に包んでいる懐紙。それを開くと、ころん、と貝殻が転がりだした。桜の花と同じ色をした、貝殻だ。

「これは……貝か?」

「そうです、貝です。これを、こうして……」

言いながら、季風は貝殻を地面に置いた。地面には、今までに舞い落ちた桜の花びらが薄らと積もっている。

そして、貝が地面に完全に置かれたか否かの時だ。

ひらひらふわふわと。舞い落ちる花びらの量が増え始めた。

「これは……いつもの……!」

邸の主人が目を見開く。そんな彼に言葉をかける事も無く、季風は目の前の光景をじっと見詰めていた。今後二度と見る事は無いかもしれないこの美しさを、目に焼き付けようとするかのように。

ひらひら、ふわふわ。ひらひら、ふわふわ。

花びらはどんどん増える。大雪かと見紛うほどに降り注ぐ。咲いている花よりも多く、これ以上落ちたら木が丸裸になってしまうのではないかというような量が。止む事無く、降り続く。そして、咲き誇る花は減る様子が無い。

やがて、吹雪のようなその花びらの中に、うっすらと人の姿が見え始めた。

夜桜の君だ。

彼女は姿を現すと、昨夜と同じようにただ一点……門の方ばかりを見詰めている。その姿に、季風は笑いながら声をかけた。

「こんばんは。また、お会いしましたね。夜桜の君」

声をかけても、夜桜の君は微動だにしない。それほどまでに一途に、一体何を待っているのだろうか。

それは、季風にはもうわかっていて。そして、それはもう、すぐそこに用意してあった。

「お待たせして申し訳ありません。お入り頂けますか?」

季風は突然声を張り上げ、門の外へと呼びかけた。すると、門から三人の人影が姿を現す。

一人は九か十くらいの年ごろであろう童。一人は、童より一つか二つ下であろう女童。どちらも中々良い着物を着ている。良家の子だろうか。

三人目は洗いざらしの水干を着た、若い男。恐らく、童達の家に仕える舎人か何かなのだろう。

その三人に、季風は言葉を発しないまま、頷いて見せる。それだけで伝わったのか、童と女童も頷いた。

童が、少し間の悪そうな顔で懐をまさぐり、懐紙を取り出す。それには、先ほどの季風が持っていた懐紙同様、桜色の貝殻が包まれていた。

「何と、同じ貝が二つ? それに、この者達は……この童は、孫の……」

目を丸くする邸の主人に、季風は苦笑した。

「同じ貝が二つ、ではありません。元々この貝殻は、二つで一つだったんですよ」

そう言いながら、童から貝殻を受け取り、先ほどと同じように地面に置く。

すると、ただでさえ吹雪の様に舞い落ちていた桜の花びらが、更に増えた。花びらは舞い落ち、積もり、そして渦を巻くように舞い上がる。

その花びらの渦の中に。いつしか一人の貴公子が現れた。

品のある美しい顔立ち、背は高く、柔和な表情をしている。身に纏っている単と狩衣は、夜桜の君の薄花桜の襲と似た色合いだ。呼び名は……今の状況に合わせて、仮に〝花吹雪の貴公子〟……とでもしておこうか。

夜桜の君と、花吹雪の貴公子。二人はそこにいる者達には目もくれず、ただ互いに見詰めあっている。

やがて、先に動いたのはどちらであっただろうか。二人は共に近寄り、腕を広げ。そして、力いっぱい抱き合った。人目をはばからないその様子に、季風と邸の主人は思わず顔を袖で覆い、舎人は二人の童の目を両手で隠した。

そして、時が経つにつれてそろそろと覆いとした袖を下ろしていく季風と主人の眼前で。抱き合ったまま夜桜の君と花吹雪の貴公子の姿は薄れていく。

薄れて、薄れて。やがて、二人の姿は完全に見えなくなった。それと同時に、あれほど降り続いていた花吹雪も、ただちらちらと舞い落ちるだけとなる。地面にも、それほどの量は積もっていない。いつもと同じだ。

「な……何だったんじゃ、今のは……」

唖然とする主人の前で、季風は地面からある物を拾い上げた。それは、先ほどの桜と同じ色をした貝殻。別々に置いた筈なのに、今はしっかりと組み合わさって一つになっている。

「これ。……この貝が、夜桜の君と、あの花吹雪の貴公子の正体だったんですよ」

「貝が?」

季風の言葉に、主人は目を丸くする。見れば、童と女童、舎人も不思議そうな顔をしているではないか。

そこで、季風はここへ来るまでの道のりを話す事にした。まず頭に過ぎるのは、あの姉から届いた文の事だ。





  ◆





「これは桜貝です。この程度も、ひと目でわからないなど、勉学が足りていない証拠です。嘆かわしい」

姉から送られてきたのは、大体こんな感じの冒頭で始まる文だった。

「あなたの学が足りない事に関しては、また後日。それよりも、この貝殻が一枚しか無い事が気にかかります。男のあなたには馴染みが薄いかもしれませんが、貝殻という物は二枚で一組となる物なのですよ」

言われてみれば、そうだ。貝殻は、二枚で一組。そして、例え同じ種類の貝であっても、綺麗に組み合わせる事ができるのは元々一緒になっていた貝殻のみ。

そう言えば、女人が遊ぶ貝合わせは、この同じ貝殻としか組み合わせる事ができないという貝の特徴を生かした物ではなかったか。たしか、貝のようにぴったりと対になる事ができる、そんな殿方と出会い嫁ぐ事ができるように……というような意味だったような。

そこで、季風ははっとする。片方しか無い貝殻。ずっと門の外を見詰めている夜桜の君。それが意味するのは、ひょっとして……。

考えながら姉の手紙に更に目を通す。後の方にも、かなりの量の文字が書かれていた。

例えば、現在海のある国に国司として赴任している者がある家。

例えば、最近海のある国に赴き、そして帰ってきた者のある家。

例えば、市場で干魚を購っている者の家と、その仕入先。

とにかく、海に関係がある者、あった者。桜貝を手に入れる可能性がありそうな者の名前がずらりと書き記してあった。

……いつの間に、どうやってこれだけの事を調べたのだろうか。本当に、あの姉は何者なのだろうか。

そんないつも感じている疑問は横に捨て置き、姉の文を頼りに季風は京中を駆け巡る事となった。

季風の考えが正しければ、この京のどこかに……姉の記してくれた人物のうちの誰かが、片方しか無い桜貝の貝殻を持っている筈だと信じて。





  ◆





「結果は、ご覧の通り。この子達の叔父君が先日まで仕事で須磨に行っていたとかで。こちらの妹姫に桜貝を一組、土産として持ち帰ったそうなのですが……兄君がいじわるをしてこの貝を持ち出してしまったと言うのです」

童は、この邸の主人の孫と仲が良かった。それで遊びに来て、庭で遊んでいるうちに貝殻を片方落としてしまったのだろう。

「あとは、何となくわかりますよね? 対となる相手と離れ離れになってしまった桜貝の片割れが、相手を求めて夜な夜な姿を現していたのです。あの門から、いつか迎えに来るだろう、と。それが、あの夜桜の君だったんです。」

そして、今宵対となる貝殻は、夜桜の君を迎えにやってきた。花吹雪の貴公子として。

夜桜の君である貝殻は季風が持っていたのだから、元の持主がわかった時点で返しても良かった。だが、目の前で夜桜の君が消えなければ、この邸の主人は安心できないだろう。だから、舎人を保護者に、童達に貝殻を持ってきてもらう事にした。

そして結果は、見ての通りだ。夜桜の君は花吹雪の貴公子と無事対面し、二人は再び一つとなった。そして、今こうして元通り一組の桜貝となり、女童の手元へと返される。綺麗な貝が戻ってきた事で女童はよろこび、兄である童は間が悪そうな顔のまま女童に謝った。

それらの様子を一部始終目の当たりにした邸の主人は、「ふむ」と頷いた。その顔は、とても満足気である。

「つまり、これでもう夜な夜な夜桜の君が出る事は無くなった、という事じゃな。真相を知ると、今後あの美しい女人に会えなくなるのが少々惜しくもあるが……せっかく一つに戻れた二人を、また引き離すわけにもいかないからのう」

そう言って納得し、そして一つ欠伸をした。

「いかんいかん、夜も大分更けてきおったわ。皆、今日は我が邸で休まれるがよかろう。季風殿も……」

泊まっていけ、と言う主人に、季風は丁寧に礼を言った。だが、他の者達とは違い。すぐに寝殿の方へ向かおうとしない。

「実は、先ほど頂いた酒が大分回っておりまして。しばらく外の風に当たり、酔いを醒ましておからお世話になりたいと思うのですが……」

季風の申し出を、主人は快く受け入れてくれた。そして、季風を一人庭に残し、皆寝殿の方へと向かって行く。

残された季風は、はらはらと花びらを落としている桜の木に向かい、ふっ、と微笑んだ。

「いるのでしょう? 差支えなければ、姿を見せてはくださいませんか? ……夜桜の君」

季風の声に反応するように、舞い落ちる花びらの量が増えた。そのうちに、一人の女人が姿を現す。

だが、それは先ほどまで皆が見ていた夜桜の君ではない。桜萌葱の襲を身にまとった、女人。髪は白く、口元には柔らかな曲線で皺が描かれている。随分と齢を経ているようだ。

だが、齢を重ねているとは言え、その女人は上品で、それでいて、齢を感じさせぬほどに美しかった。

「先ほどの女人は、夜桜の君ではなく、桜貝の君と呼ぶべきだったのでしょうかね。……あなたが、本物の夜桜の君、でしょう?」

季風の問いに、老女は柔らかく微笑んだ。肯定されたとみて良いだろう。

「おかしいと思ったんです。桜貝の精なのに、彼女が現れる時には花吹雪が舞っていた。そもそも、あの二人は人の姿になるにはあまりに若い。これは、誰か別の精霊が力を貸しているな……と思ったわけですよ」

独り言にも似た季風の言葉を、老女――夜桜の君はにこにこと聴いている。どうやら、彼女が桜貝達を人の姿にしていたとみて間違い無さそうだ。

「桜の木を……あなたを調べた時に、二つの気配を感じました。一つは、そこにいた夜桜……いえ、桜貝の君の気配。そしてもう一つは、木の内側から、あなたの気配を」

対となる相手と離されてしまった桜貝を哀れに思い、齢を経て力を持っている桜の古木が力を貸した。

だから、桜貝の君や花吹雪の貴公子が現れた時に、花吹雪が舞ったのだ。

だから、貝殻を地面に置くまでは、桜貝の君が姿を現す事が無かったのだ。根を通して桜の木と繋がっている地面。桜の花びらが降り積もっている地面。そこに触れて力を貰わなければ、貝殻は人の姿を取る事ができなかったから。

夜にだけ桜貝の君の姿を現したのは、人目に極力触れないためか。それとも、逢魔が時を迎えた後であれば、人ならぬ者の力が増すからか。

どちらにしても、並みの精霊ならやろうとも思わないだろう。何の縁故も無い桜貝のために、そこまでしようなどとは……仮に季風が桜の木の精だったなら、思い付きもしまい。

「優しい方ですね。それに……美しい」

ぽろりと言うと、夜桜の君は驚いたように目を丸くし、そして苦笑した。年寄りをからかうものではない、と言っているようだ。

「お世辞ではないですよ。本心です」

少しだけ照れながら言って、そして季風ははにかんだ。すると、夜桜の君も照れを隠すように袖を顔にやる。顔は隠れたが、それでも笑っている事が気配からわかった。

顔を隠したがる夜桜の君に呼応したものだろうか。ざ、と強く風が吹き、降り積もっていた桜の花びらが舞い上がる。季風が舞い上がる先を思わず見上げれば、夜空に大きく丸い月が照り輝いていて……。

「美しい……」

月と桜、両方から目を離す事ができないまま、季風はそれだけを呟いた。夜桜の君も、もう顔を隠してはいない。共に、桜の花びらに彩られた夜空の月を眺めている。

季風と、夜桜の君。二人は言葉を交わす事無く、ずっと空を眺めていた。夜が明けて、夜桜の君が姿を消してしまうまで。

ずっと、ずっと……。





  ◆





「なるほど。それで二日前、あのような文を寄越したのですね」

納得した様子の姉に、季風は「そういう事です」と頷いた。だが、これで解放されるかと思いきや、姉はまだ何か訊きたい事がありそうな顔をしている。

「……あの、姉上……まだ何か?」

恐る恐る問えば、姉は「えぇ……」と疑うような視線を季風に投げてくるではないか。

「……日の数え方を間違えてはいませんか? あなたの話だと、夜桜の君の件が解決したのは、文のやり取りをしたその日の晩……つまり、二日前の夜です。昨日の朝には全て終わっていたのでしょう? なのに、あなたが帰ってきたのはつい先ほど」

何を想像したのだろうか。姉が少しだけ頬を赤らめつつも、季風を睨み付けてきた。

「丸一日、あなたは一体どこで何をしていたのですか?」

残念ながら、姉が今想像したような事は何一つしていない。ため息を吐きながら、季風は補足の報告を口にした。

「陰陽寮で報告書を書いていて、それが終わったのが昼過ぎ……。終わってすぐに帰ろうとしたのですが、同じく修羅場でかれこれ十日続けて働き詰めの先輩が動けなくなってしまったので、代わりに調べものと、各種書類の代筆を行っておりました……徹夜で」

加えて、前の二日間も、季風は夜桜の君の件でほぼ徹夜をしている。実質、三日連続の徹夜である。道理で帰ってきた時、死相が浮かんでいたわけだ。

「あらあら、それでは私は、そんなあなたに話を無理強いしてしまったのですね」

ごめんなさい、と素直に謝り、姉はそのまま季風を解放してくれた。季風はほっと溜息を吐き、己の室に帰ろうと立ち上がる。

「あ、ちょっとだけ待っていただけますか?」

解放してくれたと思ったのに、すぐに姉は季風を引き留めた。二階棚の前でごそごそとしていたかと思うと、何物かを取り出し、季風に差し出してくる。

それは、小さな小さな絹製の袋。匂い袋だろうか? 偶然にも、あの桜貝の君や花吹雪の貴公子が着ていた着物と似た色合いの布地が使われている。

「これは……匂い袋ですか?」

首を傾げながら、季風は袋の口を開けてみる。すると中から、淡い色をした桜の花びらが数枚、ぱらぱらとこぼれ落ちた。

「あ……!」

風に攫われたらまずい。咄嗟にそう判断して、季風は慌てて花びらを袋の中に戻す。姉は、そんな季風の様子を眺めてくすりと笑った。

「持ってお行きなさい。話に聞くだけでも美しい桜をその目におさめたあなたなのですから……それを持って床に入れば、夢の中でまた、美しい桜を見る事ができるかもしれませんよ?」

姉が話の全容を知ったのはつい今しがただというのに、何故このような物が用意されているのだろうか。本当に、この姉は何者なのだろうか。

考えたところで答えが出るものでもないだろう。眠さにも負け、季風は考える事を止めた。

今度こそ姉の室を辞去し、三日ぶりに夢を見るべく、己の室へ足を急がせる。

途中一度だけ、先ほど姉に手渡された匂い袋を取り出し、まじまじと見詰めた。

気のせいだろうか。桜の香りと、嗅いだ事も無い筈の潮の香りと。二つの香りが鼻腔を掠めた気がして、季風は思わず顔を綻ばせた。













(了)











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