駆出し陰陽師と夜桜の君
1
いずれの御時かはわからねど、平安の代。蝶が舞い飛ぶ、春の事である。
麗らかな春の日差しを浴びながら、死相を浮かべて大路を歩く青年が一人。直衣に冠姿なので、恐らく仕事帰りなのだろう。
青年は角を何度か曲がり、四条の小路沿いにある邸へと足を踏み入れた。今をときめく藤原氏の邸とは比べ物にならないが、それでもそこそこに広くて立派な邸だ。
門をくぐり、青年はため息を一つ吐く。そしてとぼとぼと階を上り、渡殿を渡り、簀子縁を歩く。そして、ある一角まで来ると下ろしてあった御簾を掻き上げて体を中へと滑り込ませた。ここが、青年が自室として使っている区画なのだろう。隅に置かれていた脇息にもたれかかり、青年はほっと息を吐く。
……が、安らぎを得たのも束の間。
「若君、帰っておいででしたら、すぐに参るように、との姉君様からの言伝でございます」
御簾の外から女房に声をかけられ、青年はがくりと項垂れる。そして
「わかったよ」
力無く返事をすると、手早く狩衣と烏帽子姿に着替えた。そして、再び御簾を掻き上げて南庇に出、簀子縁に降り、西の方角へと歩き出した。ここは邸の東対屋。先ほど彼を呼び付けた姉がいるのは、西対屋だ。
「姉上、お呼びでしょうか?」
「遅い」
目的の場所へ辿り着き、御簾の前で声をかけた瞬間に、御簾の奥から静かな罵声が飛んできた。
「私があなたに来るよう、女房を遣わしてからどれほどの時が経ったと思っているのですか? 待ちくたびれて、物語を三冊も読み終わってしまいましたよ?」
決して、のろのろとしていたわけではない。寧ろ、急ぎに急いで着替えてきたほどだ。
だが、姉の発言も真らしく、彼女の傍らには決して薄くは無い草子が三冊、綺麗に積み上げられているのが御簾越しに見える。一体どれほどの速度で読めば、彼が着替えてここまで来るだけの短い間に、あれだけを読み終える事ができるのだろうか。
そう、疑問を頭に浮かべ。そして、彼――豊喜季風(とよきのすえかぜ)は姉に知られぬよう密かにため息を吐いたのだった。
◆
「それで、季風。近頃、お勤めの調子はどうなのですか?」
許しを得て御簾の向こうに入った途端に、これだ。そう問うてくる姉の口調は、弟の近況を訊きたいという優しい口調ではない。ちんたらしていないでさっさと現状を報告しろ、と催促する、姉というよりは上司の言うようなそれだ。
「あ、近頃というのはやはり、その件で……」
もごもごと季風が問うと、姉は深くため息を吐いて見せた。
「つい五日ほど前の事ですよ? まだ十七だというのに、そのように覚えが悪いとはどれだけ弛んでいるのです」
別に、弛んでいるつもりは無い。職場でも弛んでいるなどと言われた事は無い。ただ単に、姉が近況を訊いてくる回数が多過ぎるだけではないか、と思う。……が、言わない。言い負かされるのは目に見えている。
「五日前に、廃れた九条の襤褸邸で育ちかけのがしゃどくろを調伏したところまでは聞きました。その後の五日間、一度文を寄越しただけで全く何も話しに来て頂けないから、わざわざこのようにお呼びしたのですよ?」
「あ、近況というのはやはり、小さな事一つたりとも漏らさず全て、という意味でしたか」
「この場合、他にどのような意味があるというのですか?」
取り付くしまもない。すると、姉は今までとは一変、何かを期待するような表情を作った。
「それで、どうなのですか? 何か面白そうな話は無いのですか? 折角あの陰陽寮の特殊部署で、あなたが陰陽師として働いているのです。たった五日しか間が無くとも、そろそろ何か、新しい話が舞い込んできた事でしょう? あなたがお勤めのさ中に文を寄越して私の意見を求めてきたのは、そういう事なのではないのですか?」
そう言う姉の目は、きらきらと輝いている。
これだ。こんな顔をされたら、例えいつもは暴君のような姉であっても、何か喜ばせてやりたくなってしまうではないか。
そんな想いを胸に秘め、季風は軽く苦笑した。
◆
豊喜季風は、今年働き始めたばかりの駆出し陰陽師だ。本来なら、先輩陰陽師たちの指導の下、日々雑用に追われ、時には儀式の手伝いをする立場である。
……が、現実の季風の仕事は、そんなまともな物ではない。
陰陽師とひと口に言っても、陰陽、天文、暦と専門分野が分かれている。その中で季風は陰陽学生として学び、今年めでたく正式に陰陽師となれる事になった……のだが。
配属されたのは、陰陽でも天文でも暦でもなかった。
どんな部署かと言えば、調伏を専門に行う部署なのである。
悪霊や異形の者を調伏する事を専門とした陰陽師が集められた部署で、中には元々朝廷に仕えず民の間で細々と活動していた者までいたりする。とにかく実力主義、出自は問わず、で人材を集めた部署であると言える。
こう言うと、何やらすごい部署であるかのように思える。が、陰陽師になるべく学んだものの調伏以外の仕事がからっきしであったり。真面目に事務をする気も就職する気も無かったが調伏はできる、陰陽を司る家の子息などがいたりもするわけで。
要は、調伏の実力はすごいが、それ以外は正直言って怪しい者達を掻き集めた部署なのである。そのような部署に配属されたというのは、喜んで良いのか悪いのか……。
そもそも、何故このような部署があるのか。
理由は、近年調伏の需要が増えてきて、今までの陰陽寮だけでは全ての依頼を捌けなくなってきたから。
そして、個人的に陰陽師に依頼をされるとどうしても心情的にそちらが優先されやすく、結果的に伝手を多く持つ、身分の高い者しか悩みを解決してもらえなくなる恐れがあるからだ。
それに、調伏ばかりしていたら、朝廷の行事や天文の観測などの仕事にしわ寄せがくる。
それらの理由から、調伏専門の部署が作られた。そして、この部署に所属していない陰陽師は、基本的に相手が誰であろうと通常業務を優先させ、個人的な依頼は余裕がある時だけにしなさい、という決まりができたのである。
しかし、それではこの部署に所属する陰陽師に伝手を持ってしまえば、結局今までと変わらないではないか。そう言う者もいる。一応個人的な依頼は禁止、と言われているのだが、断りきれない者だっているだろう。
だが、実際のところ、そういう事例はほとんど無い。何故かほとんどの依頼者が、「陰陽寮を通さない依頼は禁止、身分に関係無く緊急性の高そうな物を優先する」という決まりを破らずに守ってくれているのである。
そして、破った者はその後姿を見る事が無くなるという噂がまことしやかに流れていたりもする。少し背筋が寒くなる話だが、細かい事を気にしてはいけない。気にしたら負けだ。
そして、この調伏専門部署を立ち上げたのが、何を隠そう、季風の姉なのである。
何故女の身である彼女に、陰陽寮の部署を立ち上げる事ができたのか。何故こうも、調伏専門部署に無理を言ってくる者が少ないのか。
簡単に言うと、姉が言葉での説明が困難なほどに有能だからである。
瞬く間に物語を何冊も読んでしまう事からもわかるように、この姉は文学の素養が非常に高い。文学だけではなく、漢籍にも歴史にも数字にも強い。筆と文字を使って行う事は何でも苦にせずこなしてしまう。
もちろん、歌も詠める。絵も上手い。楽器も堪能だし、幼い頃護身の為に学んだとかで、太刀と弓もそれなりに扱えるという話である。そして、当然のように容姿も良い。
おまけに、どんな手を使っての事か、京中に伝手やら情報網を持っており、呼べばすぐに駆けつけてくれる手下的存在までいたりする。
まさに万能。欠点と言えば、男に生まれなかったためにその能力を余す事無く活かす事ができないという事。そして、入内どころか男にまるで興味が無く、折角のその美貌や美声を無駄にしている事。と言える。
そんな姉の行動基準は、基本的に楽しそうか、楽しくなさそうか。そして裏も含めて、あちらこちらに手を回してまで陰陽寮に調伏専門の部署を作ったのは、そういうのがあれば楽しそうだから、という理由に他ならない。
そして、身内が一人でも所属していれば、詳しい話をいつでも聞く事ができるだろうという期待から、実の弟である季風に陰陽師を目指させ、そして調伏専門部署に配属させた、という無茶っぷりである。
尚、調伏専門部署に配属する時分には八方に手を回したらしいが、季風が試験を受ける時や、正式に陰陽師になれるか否かの時には何もしていないらしい。
そして、季風はそんな姉に逆らう事ができず、今に至る。別に、特になりたい物ががあったわけでもないので、その辺りはそれほど気にしていないのが救いである。
余談だが、姉は世間では「らんの君」と呼ばれている。
らんは植物の蘭の事であろうと思うのが普通だろうが、その本性を知る者は「嵐の君ではないか」だとか、「乱の君であろう」だとか、言いたい放題である。だが、否定しきれないのが悲しいところだ。
ついでに言うと、「蘭の君」説を推す者の中には、蘭は蘭でも蘭陵王の事だろうと推測する者もいる。
これまた、否定しきれない。そして、姉本人がその説を聞いて面白がってしまっているのが始末に悪い。
そして今日もまた、季風は姉に、求められるままに仕事についての話を語る。
それは、姉にがしゃどくろ事件の話をしてから、たった二日後の出来事。桜の色に彩られた、美しい夜の話だった。