平安陰陽騒龍記








10










それでも、まだどうしようかと迷うような顔をして。そして、意を決した顔をして。弓弦は真っ直ぐに葵の顔を見た。目が合っても、もう葵の挙動は不審にはならない。

「……葵様の……お父君は、どのようなお方だったのですか?」

弓弦の問いに、葵はきょとんとした。

「父親? 俺の?」

「はい。……ご存じの通り、私には今記憶がございません。父親の記憶も、消えてしまっています。父というものがどのような存在なのか……それを、知りとうございます」

弓弦の目は、好奇心に満ちているように見える。そして、葵はしばらく考える様子を見せた。

「うーん……何て言えば良いのかな……。俺も、わからないんだよね。父親がどういう存在なのか」

「……え?」

弓弦が続く言葉に困っているうちに、葵は言葉を重ねた。

「俺もさ、覚えてないんだよ。俺の父親が、どんな人なのか」

「それは……物心つく前から、瓢谷様の弟子として預けられていたから……でございますか?」

葵は、ゆるやかに首を横に振った。その顔は、少し寂しそうだ。

「俺もさ、記憶が無いんだ。弓弦とおんなじ。……と言っても、記憶を無くしたのはもう十二年も前の事だけど」

「何故……」

訊くべきではなかった事を訊いてしまった罪悪感と、そうなってしまった経緯を知りたいという好奇心と、二つが綯い交ぜになり、混乱した声で弓弦は呟いた。

「俺も、わからないんだよね」

そう言って、葵は少しだけ遠くを見る目をする。

「十二年前……山の中でさ。俺、倒れてたらしいんだよね。そこを、たまたま通りかかった隆善師匠と惟幸師匠に助けられて……目が覚めたら、惟幸師匠の庵だった。……覚えてるって言うのも変かもしれないけど、その時はまだ、意識がおぼろげだった事は覚えてる。あとで師匠達に聞いたんだけど、あの時俺はものすごい熱を出していて、命が助かるかどうか、ギリギリのところだったらしいんだ」

そこで葵は一旦息を吐き、そしてまた軽く吸う。

「その熱のせいかな? 目が覚めたら、それまでの事は綺麗さっぱり忘れてた。何が起きたのかは勿論、家の事も、親の事も、自分の名前も。何もかも、全部」

「名前も? では、葵様のそのお名前は……」

「惟幸師匠がつけてくれたんだ。思い出すまで、名前が無いのは不便だろうって。これ以上禍(わざわい)に遭わないようにって、女の子みたいな名前をさ。……惟幸師匠がその時たまたま読んでた源氏物語の巻の名前からつけたらしいんだけど、この巻で話題の中心になってる女の人、呪い殺されちゃうらしいね」

それがわかった時には珍しく惟幸に平謝りをされた、と、葵は苦笑した。

「……葵様は、それで瓢谷様のお邸に……?」

うん、と葵は頷いた。

「こうなったら乗りかかった舟だ、って。俺が親に会えるか、俺が一人で生きていける術を身に付けるまでは面倒をみてやる、って。……そう言えば、あの時隆善師匠、最初は惟幸師匠に「お前が引き取れ」って言ってたなぁ。実の娘を預けてる手前、示しがつかない、って惟幸師匠は断ってたけど」

あの時の隆善の顔は未だに忘れられないと、葵は言う。決して楽しい思い出話ではないのに、葵の顔はどことなく楽しそうだ。

「葵様は、何故……そのように笑っていられるのですか?」

不安そうな、心配そうな。不安定な表情で、弓弦は葵に問いかけた。

「自分が何者なのか、誰が絶対に自分を守ってくれるのか。何もわからないまま、十二年もの時が過ぎて……。何故、不安にならないのですか? どうして、そのように笑っていられるのですか? どのようにしたら、そんなに笑って、私のような見ず知らずの者を助けようと思えるのですか? 何故、どうして、どうすれば……」

「何故って言われても……」

どこか泣きそうにも見える表情の弓弦に、葵は慌てて言葉を探した。懸命に考えれば考えるほど、焦る気持ちが邪魔をして上手い言葉が出てこない。

「……俺も、最初のうちは不安だったよ。どこを見ても知らない顔しかいないし。何をやっても誰かに怒られそうな気がして、何をやるにしても周りの顔色を窺って。実際、隆善師匠は言葉遣いとか荒っぽくて、怖かった。けどさ」

懐かしむような、顔をした。十二年も前の事だというのに、未だに昨日の事のように思い出せるのが不思議だ。

「何だかんだ言って、本当に危ない時、隆善師匠はちゃんと助けてくれた。不安に押しつぶされそうになった時には、惟幸師匠が気付いて、話を聞いてくれた。寂しいと思った時には、いつも紫苑姉さんが外へ遊びに連れ出してくれた。虎目や、栗麿や……色んな人達と出会って、振り回されて。いつの間にか不安を感じる暇が無くなってたよ」

そして葵は、弓弦の肩を両の腕でゆるりと包み込んだ。泣いている子どもを親が安心させるように。幼い頃、紫苑や惟幸にしてもらったように。

「あっ……葵様!?」

弓弦が動揺するが、それでも葵は弓弦を放そうとしない。ゆっくりと、優しい声音で葵は言った。

「今の俺が、不安を感じず笑っているように見えるなら……それは、周りのみんなのお陰だよ。みんなが支えてくれていた十二年の積み重ねがあったから、今の俺がある」

少しだけ、息を吸う。そして、決意新たに、口を開いた。

「弓弦……今、不安なんだよね。誰を見ても知らない顔で、自分が何者なのかもわからなくて。……俺、頑張るから。弓弦が一刻も早く、不安から解放されるように頑張る。弓弦が俺みたいに、周りを信頼できるように。笑っていられるように……!」

「葵様……」

そのまましばし、二人は沈黙した。聞こえてくるのは、互いの心臓と呼吸の音だけだ。時間が経つにつれそれは次第に穏やかになっていき、冷静になっていく耳には周囲の音が聞こえ始める。

「まぁ。京の往来ではしたない……」

「まだ暗くなってもいないのに」

「まったく。最近の若いモンはこれだから……」

ハッとして、葵は顔を上げ、周りを見渡した。いつの間にか、周囲に人が溜まっている。そして葵と目が合いそうになると、全員がささーっと、何事も無かったかのように流れ散っていく。中には、チラチラと後を振り向き様子を窺っている者もいたが。

「あ……」

自分が今まで何をしていたか。周囲から見てどうなっていたのか。それに気付いた葵は、まず顔が耳の先まで真っ赤になり。続いて、病人もかくやと言うほど真っ青になるまで血の気が引いた。

「……やばい。変な噂を立てられたりしたら、隆善師匠に殺されるかも……」

顔面蒼白のまま呟く葵の横では、弓弦が頬を染めて周囲の視線を気にしている。

「……あの、葵様。まずは……」

「うん、そうだね。どこかに移動しようか……」

冷静を通り越して真っ白になってしまった頭で、葵は何とか判断し、頷いた。そして、どこに行こうかと働かない頭で考える。

今の状態では、二人でどこへ行っても気恥しくなりそうだ。ならば、誰かと一緒にいた方が良いかもしれない。と、なると。

「……紫苑姉さんと虎目、師匠の代理で依頼を受けに行くって言ってたっけ。……そっちに行ってみようか?」

葵の提案に、弓弦は言葉も無く頷いた。とにかくまずはこの場から離れたいという気持ちは、葵と変わらぬようだ。

この時の二人の判断を、後に虎目はこう貶す。

「紫苑が一人で依頼を受けるという時点で、面倒事が起こる確率が倍率ドン。あの馬鹿が加われば更に倍。そこに巻き込まれ体質の葵やイレギュラーの弓弦が混ざれば、化学反応を起こすだろう事ぐらい火を見るよりも明らかだろうに……。にゃんで来ちまったのかにゃー……」





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