フェンネル謎解記録帳2
~待ち人アリス~
前篇
ビリッと、紙を破る音がした。次いで、シュッという紙を折る音。そして最後に、ガサガサという……紙の袋に、紙を入れるような、そんな音がした。
室内は、カーテンで外光を遮られ、薄暗い。窓際に小テーブルが置かれているのが、辛うじてわかった。
小テーブルの上には花瓶が載っている。生けられた花はなんだろうか。わかり難いが……シルエットから察するに、バラのようだ。色まではわからない。
薄暗い部屋の中央に立った、すらりとしたシルエットの人物が、その花瓶のバラを見て、はあ、と深いため息を吐いた。
# # #
「ふあぁぁあ……」
時間は午前十時五分。ところは、あまり規模は大きくない駅前にあるそこそこ規模の大きな花屋、フラワーショップ・フェンネル。
アルバイト従業員の間島和樹は、店内に客が無いのを良い事に、盛大な欠伸を隠さずに吐き出した。今日は日曜、大学は休み。なのに自分は、朝からバイトときたものだ。
「……眠い……」
目に涙を溜めながら、ぼそりと呟く。昨日の夜、うっかり夜更かしをしてしまったのがまずかった。
姪っ子のお遊戯会を撮影したビデオの編集を安請け合いしたのは良いが、別に急いでいるわけでなし。深夜まで根を詰めてやる事は無かったと反省する。幼稚園児用に脚色された話が妙に面白くて、ついつい続きを見てしまったのが敗因だ。ちなみに、演目は「不思議の国のアリス」であった。四歳児にこの演目は厳しくないか、と思わずにはいられなかったが、存外よくできていて驚いたものだ。
「……眠い……」
再び大あくびをして、呟く。その頭を、後からパシンと軽く叩く物があった。
「こら、和樹君。もう開店してるんだから、シャキッとしてよ。店員が眠そうだと、花までくたびれてるように見えちゃうじゃないか」
「あ、すみません……」
更なる欠伸を噛み殺しながら振り向き、和樹は頭を下げた。目の前にいるのは、店長の乾洋一。手には在庫チェックのためか、クリップボードがある。恐らく、先ほど和樹の頭を叩いたのはこれだ。
謝りながらもまだ眠そうな様子の和樹に、乾はため息をつく。
「言っただけじゃあ、目は覚めないかぁ。……いっそ、三宅さんが来てくれると良いんだけどね」
「? 何で三宅さんなんですか?」
突然、同じゼミの同期生の名が出て、和樹は眠そうな目をしたまま首を傾げた。そんな和樹に、乾は苦笑しながら言う。
「だって、ほら。あの子のビンタ、すごい威力じゃない。あれを喰らったら、流石に目が覚めるでしょ」
その発言に、和樹は少々顔をしかめた。確かに、三宅のビンタの威力はすごい。和樹も、過去に何度か喰らってしまっている。それはもう、すごかった。叩かれた箇所に、紅葉マークができてしまうほどに。
痛みを思い出して少しだけ目が覚めたのか、割と素早い動きで頬を抑える。その様子に、乾が苦笑した。
……と、その時。カランコロン、と、ドアベルが軽快な音を立てた。客が来たのだ。乾と和樹はドアの方を振り向き、即座に笑顔を作る。
「いらっしゃいま……」
言いながら、和樹は硬直した。目の前にいるのは、一人の女性。今まさに話題になっていた、三宅友美その人だ。
「あれ、三宅さん。いらっしゃい。今日はまた、ずいぶんと早いねぇ」
笑いをかみ殺しながら言い、乾はちらりと横目で和樹を見た。あまりのタイミングに、目が開いたまま固まってしまっている。とりあえず目は覚めたようだから良いか、と、乾は視線を三宅へと戻した。
三宅は和樹の様子を不審げに見てから、少しだけ遠慮がちに問うた。
「おはようございます。……あの、乾さん。今日って、忙しくなりそうですか?」
「え? いや、今日は花束の予約も入ってないし、お墓参りや入学・卒業の時期でもないから、そんなに忙しくはならないと思うけど。……何で?」
問われて、三宅はどこか申し訳なさそうな顔をした。
「じゃあ、もしご迷惑でなければ……ちょっと間島君をお借りしたいんですけど……」
「へ?」
「え?」
怪訝な顔をする二人に、三宅はハッと表情を変えると、首と手をブンブンと振った。
「あっ! 変な意味じゃないですよ! ただ、ちょっと相談に乗って欲しいというか、知恵を貸してほしくて! こないだみたいに!」
「知恵? あぁ……」
納得したのか、乾はポンと手を打った。以前和樹は、三宅と仲の良い知人が持ち込んだ相談――暗号を見事解いてみせた事がある。恐らく、その時の事を言っているのだろう。
「え? って事は、また……?」
首を傾げる乾に、三宅は頷いた。そして、ドアの外に視線を遣る。
「忙しかったら悪いと思って。……実は、もう店の外まで来てもらっちゃってるんですけど、入ってもらっても良いでしょうか……?」
どうやら、謎を抱えているのはまたしても三宅自身ではなく、三宅の知人らしい。乾は、にっこりと笑って「良いよ」と言った。
「お客さんが来た時にはちゃんと手伝ってもらわなきゃ困るけどね。この前みたいな話だったら、僕もちょっと興味があるし」
「え、ちょっと乾さん……俺に相談に乗るかどうかの確認は……?」
「いや、多分頼まれたら和樹君は断れないだろうし」
断言する乾に、和樹はがくりと項垂れた。それを和樹の肯定ととったのだろう。三宅はドアを開け、外に向かって「入って」と声をかけた。すると、待ちきれないという様子で、二人の男女が入店してくる。
女性は、和樹や三宅と同じぐらいの年頃だ。恐らく、大学生だろう。男性の方は、和樹の七つ年上の兄と同世代のように思える。二人はどこか面立ちが似ている。兄妹だろうか?
気になる点が、いくつかある。女性の方は不安そうな顔をしている。男性はどこか憔悴したような顔をしている上に、今から海外旅行にでも行くのかと問いたくなるような大荷物を持っていた。
「……えーっと……」
和樹の心中を汲んでか汲まないでか。三宅が二人をそれぞれ指差しながら紹介した。
「紹介するわね。こっちは村上美月ちゃん。バイト先の後輩なの。それで、こっちは美月ちゃんのお兄さんで、村上真一さん。……察しはつくだろうけど、今日相談に乗ってもらいたい事っていうのは、この真一さんなの」
村上兄妹が、揃って頭を下げた。仲は悪くなさそうだな、と、和樹はぼんやりと考える。
「それで……相談というのは?」
問うと、真一が「あの……」と口を開いた。
「時間と場所を、知りたいんです」
「……時間と場所?」
乾が首を傾げると、真一は頷いた。
「えっと……僕はおもちゃの問屋に勤めていまして……その取引先の一つに、あるおもちゃ屋があったんです」
言いながら、真一は「あっ」と小さく叫んだ。そして、慌てて懐を探ると、名刺入れを取り出した。そして、名刺を一枚ずつ、乾と和樹に手渡してくる。
「あ、これはご丁寧に……」
同じように慌てて名刺を受け取り、乾も名刺を探そうとエプロンのポケットをまさぐる。それを、真一は制止した。
「あっ、良いんです。その名刺も……ひょっとしたら、もう使わなくなるかもしれませんし……」
「? どういう事ですか?」
乾の問いに、真一は一度目を伏せた。そして、ぽつり、ぽつりと呟くように言う。
「その、おもちゃ屋にですね……有住そうび、という女性の店員がいたんです」
「ありすみ……そうびさん、ですか?」
和樹がその名をなぞると、真一は頷いた。
「変わった名前ですよね。友人達にはアリス、と呼ばれていたそうです」
「アリス……?」
「はい。その……そうびとは仕事を通じて仲良くなって、その……」
「お兄ちゃん、回りくどい言い方してないで。今はもう恋人同士の関係なんだって言っちゃえば良いじゃないの」
痺れを切らしたのか、美月が呆れ顔で言った。
「そうびさんはおもちゃ屋のカードゲームコーナーの担当で、お兄ちゃんの会社もカードゲームが特に得意なんです。それで、よく話すようになって。そのうちにお兄ちゃんがメロメロになっちゃって」
「美月!」
非難するように言う真一に、美月は「本当の事でしょ」とやや冷たく言った。何だろう……三宅と言い、美月と言い。彼女達が働く本屋には、基本的にキツイ人間しかいないのだろうか。
「あ、私は別に、お兄ちゃんとそうびさんが恋人同士になった事に反対はしてませんよ。そうびさん、綺麗だし優しいしお茶目だし、女性なのに背が高くって、ハスキーボイスでカッコ良いし。将来のお義姉さんとしては申し分無し。お義兄さんとしても申し分無し? むしろ、お兄ちゃんよりもそうびさんの方がお兄ちゃんなら良かったのに、とか……」
「そこまで言うか!? ……けど、そうなんだよなー。そうび、綺麗なだけじゃなくって、カッコ良いんだよなー。なのに可愛い物とかも好きで、そのギャップがまた良いんだけどさー」
「いや、その……そのそうびさんが大変素晴らしい女性で、兄妹揃って惚れ込んでるのはわかりました。それで、相談内容というのは、そうびさんに関わる事という事で良いんですよね?」
あらぬ方向へ流れていきそうになった話を引き戻そうと、和樹は口を挟んだ。村上兄妹は「あ」と言って照れ臭そうにする。そして、そのまま二人揃って暗い顔をした。
「そう……そうなんですよ……」
「実は……そうび、最近連絡が取れなくなてしまって……。店に確認してみたら、辞めたとか言うし。……実家に帰ったのか、アパートも引き払っていて……」
真一の話に、和樹と乾は「えっ」と声をあげた。
「それ……大丈夫なんですか!?」
「あんまり考えたくないけど……何か事件に巻き込まれて、実家にも帰っていない……なんて事は」
「あ、それは大丈夫みたいよ。そうびさんから手紙が来たみたいだし」
手をひらひらと振りながら、三宅が口を挟んだ。すると和樹達は揃って「手紙?」と言いながら真一の方を見る。真一は頷き、鞄から封筒を取り出した。薄桃色の綺麗な封筒だ。ちゃんとポストに投函された物らしく、切手と消印の存在が確認できる。
「一週間前に届いたんですが……消印はそうびが働いていたおもちゃ屋の近くで、字は確かにそうびの物でした」
「……拝見しても?」
和樹の問いに、真一は頷いた。そして、封筒を差し出してくる。和樹はそれを受け取ると封を開き、中の物を取り出した。折りたたまれた便箋が一枚。そして、トランプが二枚入っている。トランプは一枚がハートのクイーン、もう一枚はスペードの2だ。スペードのカードは、真ん中で破られてしまっている。
「……これは……?」
破れたカードに眉をひそめて、和樹は真一の顔を見る。真一は、力無く首を横に振った。
「……わかりません。それに、何の意味があるのか……。ただ、それよりも問題なのは、その便箋の方で……」
暗に中を見る事を促され、和樹は折りたたまれた便箋を開いた。綺麗な字で、何事かが綴られている。和樹は真一に視線を向け、互いに頷くとその内容に目を通した。
真ちゃん、突然いなくなってしまってごめんなさい。
けど、このまま一緒にいると、私はきっと、あなたの事を不幸にしてしまう。だから、あなたの前から姿を消そうと思いました。
なのに、離れてからも、真ちゃんの事を忘れる事はできなくて……。
だから私は、一つ、賭けをしようと思います。
私の誕生日、下記の時間、下記の場所で、私はあなたを待ちます。もしあなたが、何があっても私と一緒にいてくれると言うのなら……私はもう一生、あなたの傍から離れません。ですが、もしあなたが来なければ……私は、今度こそあなたの事を忘れようと思います。
……勝手な事を言う私を、あなたは許してくれるかしら?
美月ちゃんにも、せっかく仲良くなったのに、こんな事をしてしまってごめんなさいと、伝えてください。
それでは、私の誕生日、再びあなたに会える事を願って……。
上半分は、そうびから真一への言葉が綴られている。そして、下半分を見て、和樹は「むっ……」と唸った。
「何、和樹君。どうしたの?」
和樹の様子にただならぬものを覚えたのか、乾が便箋を覗き込んできた。そして同じように、「うっ……」と唸る。
便箋には、ただ場所と時間が記されているのではなかった。
月の盤上 短い針が
12の札の 時刻む
一巡りすれば日が昇り
二巡りすれば夜が更ける
江戸の藤月 誰ぞ彼
カキツバタ咲く鳥の巣の
海へと飛び立つ扉の前で
期待を胸に 君を待つ
「これは……暗号?」
乾が呟き、真一が「恐らく」と頷いた。
「一人で考えてみても、まったくわからなくて。美月にも相談してみたんですが、やっぱりわかりませんでした」
「それで、私がバイト中、友美さんにその話をして。そうしたら、このお店を紹介してくれたんです」
美月の言葉に、三宅が頷いた。
「間島君、前に暗号を解いてみせてくれた事があったし。それに……ほら。この暗号も、藤とかカキツバタとか。花の名前が入っているでしょ?」
「あぁ、それで……餅は餅屋、花は花屋、って?」
三宅は乾の言葉に頷き、そして視線を和樹へと向けた。
「それで……どう、間島君? 解けそう?」
「そうだなぁ……」
便箋を眺めながら唸る和樹に、真一がサッと顔を曇らせた。
「そんな……何とか頑張って解いてくださいよ! それが解けないと、そうびが待っているのがどこなのか、何時なのかが全然わからないんです! 行く事ができなければ、そうびと二度と会えなくなってしまう! それは嫌です! 僕はそうびと一緒にいたい! もしそうびがどこか遠くへ行くつもりなら、僕は絶対についていきます! それぐらい、そうびを愛しているんです! 二度と会えないなんて考えられない……お願いします!」
息継ぎもなしに一気にまくし立て、頭を下げる。その様子に少々引きながら、乾がこの妙な雰囲気を何とかしたいのか、話しかけた。
「えーっと……じゃあ、その大荷物はひょっとして……そうびさんが遠くへ行く場合はついていくための……?」
真一は頭を上げ、「はい」と言った。
「数日分の着替えと、行き先が海外だった場合に備えてパスポート。それから、通帳と印鑑と……」
その発言に、村上兄妹以外がギョッとした。
「え、ちょっと……貴重品をありったけ……?」
「道理で荷物が大きいわけだ……」
「真一さん……それついていったとして……仕事、どうするんですか?」
「そうびと会う事ができて、一緒に遠くへ行く事になったら……仕事を、辞めるつもりでいます。新天地から、電話して……」
「いや、それ社会人としてどうかと思うんですけど……」
乾がツッ込み、その横で和樹は首を傾げた。顔が、どことなく引き攣っている。
「えーっと……あの、あんまり聞きたくないんですけど……その大荷物を今持っている、という事は、ひょっとしなくても、その……そうびさんの誕生日というのは……」
「えぇ、今日です」
あっさりと頷く真一に、和樹はくはぁ……と深いため息をついた。つまり、今すぐにこの暗号を解かなければ、アウト。解けたとしても、場所が遠く、待ち合わせ時間に間に合いそうになければやっぱりアウト。そしてそれ以前に、現時点で既に待ち合わせ時間を過ぎていたらお話にならない。
何でもっと早く相談に来ないのか。……いや、まず解けるかどうかがわからないが。じとりと目を座らせながら、和樹は再び便箋と、二枚のトランプを眺める。
そして、数分か、十数分か。周りの者達がはらはらと見守る中、ついに「ん?」と表情を変えた。そして、真一に目を向ける。
「真一さん、確かカードゲームに強いおもちゃの問屋にお勤めで、そうびさんはおもちゃ屋のカードコーナー担当でしたよね?」
「は、はい……」
緊張気味に頷く真一に、和樹は「んー……」と唸ると、更に問う。
「カードゲームって言うと、やっぱりあれですか? デュエル開始! みたいな事するバトルカードと言うか、トレーディングカードみたいな物が置いてあるんでしょうか?」
「え? えぇ。そうびが働いていた店ではトランプや花札、かるたとか百人一首も置いてありましたが、やっぱり主力商品はトレーディングカードでしたね」
「そうですか……と、いう事は……」
ブツブツと呟きながら、和樹はバックヤードへと入ってしまう。
「え、ちょっと……和樹君!?」
慌てて乾が追いかけると、和樹はバックヤードのパソコンの前に座り、何やらマウスを操作している。どうやら、何か検索をしているようだ。
「……和樹君?」
乾の問い掛けに、和樹はぴたりとマウスを動かす手を止めた。そして、くるりと椅子ごと振り向くと、乾にニッと笑って見せた。
「何とかわかりそうですよ。それに、俺の考えが間違っていなければ……真一さんは、そうびさんとの待ち合わせ時間に遅れずに済みそうです」
「本当!?」
「えぇ」
頷くと、和樹はすっくと椅子から立ち上がる。その時、店の方からカランコロンという軽快なベルの音が聞こえた。どうやら、三宅達以外に客が来たようだ。
「あ、いけない! ……和樹君、発表するのは、ちょっと待っててよ。僕も、その暗号が何を示しているのか、知りたいんだから!」
そう言い置くと、乾は慌てて店の方へと駆けていく。その後ろ姿を苦笑しつつ眺めてから、和樹は渋い顔をした。
「ただ……俺の考えが本当に全部合ってたとしたら……。ちょっと、厄介な事にもなりそうだなぁ……」