葦原神祇譚
26
リン、と鈴が澄んだ音を響かせる。鈴の音は時には速く、時にはゆるりと、緩急をつけて鳴り続ける。楽しく笑いさざめくように速く、心の奥底から祈るようにゆっくりと。
その音に合わせて、メノは踊る。優雅に手を持ち上げ、力強く地を踏み、時には胸の前で手を組む。跳びはね、くるくると回り、裳裾や領巾を風にはためかせる。
その姿に、周りの者は一様に声を無くし、見惚れた。それに照れるでもなく、誇りに思うでもなく、メノは踊り続ける。楽しむように、願うように、誘い出すように、祈るように。仁優を呑み込んだ闇の前で、踊り続ける。
メノの眼前には、記憶の中の光景が拡がっていた。閉じられた天岩戸。それを不安そうに見詰める神々。その前で、敢えて明るく踊る天宇受売命。それに併せて、精一杯快活に笑う神々。
今はまるで、あの時のようだ。愛する者が囚われた闇。それを不安そうに、もしくは緊張した面持ちで見詰める瑛、礼、ウミ、ライ、オロシにマドカ。その前で踊るメノ。そしてあの時を同じように思い出し、少しでも盛り上げようと手拍子を打つ天、要、奈子、彦名。記憶は無くとも知識として知っているからだろう。夜末と神谷も手拍子を打っている。
やがて、闇の奥に薄らと光が見える。
天岩戸は開かれた。
瞬時に瑛が、ウミが、ライが立ち上がる。
まずはウミが、手にした桃の枝に息を吹きかけた。枝はあっという間に花を咲かせ、そして多くの花弁を舞い散らせる。多くの花弁に撫でられ、闇が徐々に収縮していく。
次に瑛が、銀の剣をすらりと抜いた。光の見え始めた辺りに向かって力強く薙ぐと、光が大きくなった。出口を拡げたのだろう。そこに瑛は手を突っ込み、仁優の腕を掴んで引っ張り出した。仁優が闇から姿を現し、勢い余ってそのまま地面に墜落する。顔面を強打して鼻血を流している仁優は、共に闇から飛び出してきた造化三神――と思われる光の塊――にからかいの言葉をかけられたらしく、情けない顔で血を拭っている。
最後に、ライがありったけの力を込めて雷を落とした。稲妻に焼かれ、そこにあった闇の塊は呆気なく霧散した。
そして闇は一欠片も残らず消え失せ、その場には神と人間だけが残った。
「……やった、のか……?」
神谷が、警戒するように呟いた。それに対し、天はこくりと頷いて見せる。
「あぁ。あの混沌や闇の気配は、完全に消えたよ。……終わったんだ、何もかも」
瞬間、一部から歓声が上がった。見れば、礼、オロシ、マドカに彦名といったお子様組だ。何だかんだ言って、やはり気が張り詰めていたのだろう。危険な目に遭い、不安な思いをしながら、よくここまで頑張ってきたよな、と仁優は思う。
「仁優様っ!」
メノが仁優に駆け寄り、腕に抱き付いてきた。そして、ハッとして身体を離すと、顔を赤くする。
「メノ。……ありがとな」
礼を言う仁優に、メノは「えっ」と顔を上げた。
「お前が踊ってくれたから……お前を励ます皆の手拍子や、お前の鈴の音が聞こえたから……俺は帰って来る事ができたんだ。本当に助かった」
「そんな……私はただ、仁優様に無事でお戻り頂きたかっただけで……」
照れながらも、メノはそっと仁優の手を両手で取った。黄泉族の、冷たい手だ。なのに、どことなく温かい。
「終わったんだよね。じゃあ、これからは皆で暮らせるんだよね? 母様と、父様と、天ちゃんとぼくと。皆で暮らしたり、遊びに行ったりできるんだよね?」
嬉しさを抑えきれないと言った様子で、礼がはしゃぐ。だが、天もウミも、そして瑛も。難しい顔をしている。
「……母様? 父様? 天ちゃんも……どうしたの?」
「……実はね、兄上……」
心苦しそうに、天が口を開いた。すると、辛い仕事を引き受けようとするかのように天之御中主神が声を発する。
《まだ……全ては終わっていない。そうだな? 伊弉諾、伊弉冉、天照》
「……」
名を呼ばれた三人は、誰一人声を発する事無く、暗い顔で項垂れた。
「……どういう、事だ?」
《どういう事も何も……お前も言っていたではないか、猿田彦。我らはこれから、話し合いをせねばならん。生まれるヒトの数、死ぬヒトの数を調整し、あるべき生死の流れを作らねばならないからな》
「そんなの、ここで……葦原中国でやれば……」
「何事に関しても、それに最適な場所という物があるんだよ。仁優」
落ち着いた声で、天が言う。だが、顔は暗いままだ。
「神が力を最大限に発揮できる場所は、特性によって様々だ。そして、生命を司る力は高天原、死を司る力は黄泉国が最も適しているんだよ」
《もっとも、伊弉諾が死んだ事により、生命を司る力はほぼ失われてしまったがな……伊弉冉が創り出した転生システムを高天原に移植し、我々がそれを上手く扱えるよう努力すれば……まぁ、何とかなるだろう》
「それに……神や死者というものは、必要以上に葦原中国に干渉してはいけないものです。干渉し過ぎると、何が起こるかわかりませんからね。記録に無い猛暑になり、多くの人が倒れるかもしれません。黄泉族の気に中てられて、心を壊してしまう人間もいるかもしれませんし……朝来さんや伝さんのように霊能力を持って産まれ、必要以上に苦労する人生を送る人も増える可能性があります」
だから、神である造化三神、天と要、黄泉族であるウミ、ライ、メノはそれぞれ高天原と黄泉国に――それも、一刻も早く――帰らなければいけないのだと。言外に要は言う。
仁優は、目を見開いてメノを見た。メノは、悲しそうに微笑み、頷いて見せる。
「そんな……」
呟くが、同時に「仕方が無い」という言葉が頭を過ぎる。そう……仕方が無いのだ。自分は生者で、メノは死者なのだから。寂しい気持ちが湧き出るのを抑えるように、仁優は頭を振った。そして、努めて明るく言う。
「……けどさ、瑛はいるんだし。今まで一人だったけど、これからは母親と一緒に暮らせるんだからさ。あんまり落ち込むなよ、礼。な?」
天達の説明に泣きそうな顔になっていた礼の頭を、くしゃくしゃと撫でる。だが、それすらも悲しそうな顔で見ながら、瑛は首を横に振った。
「いや……私も、礼と一緒にはいられないんだ」
「……え!?」
「母様……?」
目を見開く二人の頬を、瑛は両手で同時に撫でた。腕を掴まれた時には袖越しであった為にわからなかった、氷のような冷たさに、仁優はぞくりとする。
「……瑛?」
色を失い名を呼ぶ仁優に、瑛は静かに首を振った。そして、衣裳の一枚を脱いでみせる。下に着ていた白の着物は、血で赤黒く染まっていた。上の着物も、深緋で誤魔化されてはいたが、よく見ると血が沁み込んでいる。
「黄泉国で守川と合流する前に、抜かってな……。黄泉族化してしまった。だから今の私は……葦原中国に残る事はできない」
「そんな……」
礼が、ぺたりと地面に座り込んだ。仁優はかける言葉が見付からない。折角共に暮らせると思っていた家族が、誰一人一緒にいる事ができない。こんな残酷な話が、そうそうあるだろうか。
「全く……道理で瑛の様子がおかしいと思ったよ」
溜息をつき、天が一歩進み出た。そして、真っ直ぐに瑛の目を見据える。
「その……何て言うか。あの施設は、あのまま葦原中国に残しておく事にするよ。あそこはボクが特別に造った社だからね。あの中なら、神だろうが黄泉族だろうが人間だろうが、力が過干渉してしまう事は無い筈だよ。だから、礼に会いたくなったら……いつでもあそこを使うと良いよ。……母上」
天に母と呼ばれ、瑛は目を丸くした。だが、すぐにくすりと笑うと天の頭を優しく撫でる。
「……ありがたく、使わせてもらう。お前も、たまには顔を見せろ。お前も私の娘なんだから、遠慮する事は無い……天」
照れ臭そうに笑うと、天はしゃがみ込み、礼に視線を合わせた。
「そう言うワケで……別にこれが今生の別れってわけではないよ。だから……あまり哀しまないでくれないかな、兄上」
「……」
礼が、黙ったまま頷いた。本当は笑って、返事をしたいのかもしれない。けど、寂しさで泣きそうで、言葉が出ないのかもしれない。
それを察したのか、天は苦笑すると立ち上がり、くるりと踵を返した。
「行くよ、要」
颯爽と歩き出す天に、要が慌てて突き従う。
《我らも行こう。まずは、天照と納得がいくまで話し合う。伊弉諾、伊弉冉……また、後日》
そう言って、造化三神も姿を消した。
瑛とウミが、交互に礼を抱き締める。
「済まない、礼。またお前を一人ぼっちにしてしまって……」
瑛の謝罪に、礼がぶんぶんと首を振る。
「ううん……天ちゃんが言ってたから……。また会えるって。だから、ぼくはひとりぼっちじゃないよ」
「……次に会う時は、何か話をしてやろう。それとも、剣の稽古の方が良いか?」
「ウミ……今時の父親は、子どもに剣術指南はしない。やるならキャッチボールだ」
「瑛、それも古いと思うんだけど……」
仁優のツッコミに、礼がくすりと笑った。そして、ウミに言う。
「父様。ぼく、次会う時までにキャッチボールを練習するよ。それで、父様に教えてあげるからね!」
ウミが目を丸くし、そして微笑んだ。
「……あぁ。楽しみにしている」
そんなやり取りをする父子を横目に、瑛は夜末と神谷に視線を向けた。
「……お前達には、最後まで迷惑をかけっ放しだったな」
「そこまで迷惑だとは思っていないよ。お陰で、私はオロシと出会えたし、妖禍使いとして多少は腕を上げる事ができたようにも思うからね」
「前にも言ったが……お前達が俺に何の相談も無く暴走する方がよっぽど面倒で迷惑だ。……それで、最後にどんな面倒を置いていくつもりだ?」
神谷の問いに、瑛は目をぱちくりと瞬かせた。そして、苦笑をすると顔を引き締める。
「……朝来、伝。……礼の事を、頼む」
夜末と神谷は、目を見合わせた。そして、珍しい事に声を揃えて言う。
「その程度、面倒でも迷惑でも何でもない」
幼馴染に微笑む瑛の横で、仁優とメノは見詰めあっていた。
「……ごめんな。俺、最後まで前世での事、何も思い出せなくて……」
メノはにこりと微笑み、ゆるゆると首を横に振る。
「いいえ……記憶が無くても、猿田彦様は猿田彦様でした。ただ、お姿とお名前が変わっただけで……。今でも優しく、誰かの為に懸命になれる、素敵なお方。それだけで、充分でございます」
「そう言ってもらえると、何か助かるな……」
ヘヘッと照れ隠しに笑い、それを見てメノもくすりと笑う。そして、花のように朗らかな笑みを湛え、メノは言った。
「この先、何十年が経とうとも……黄泉国で、仁優様に再びお会いできる日をお待ちしています」
「? 何言ってんだよ。メノも、いつでも瑛達みたいに遊びに来れば……」
「いいえ……」
メノは、緩やかに首を振った。
「死者である私がいつまでも仁優様の傍にいたら、仁優様は生者の女性と結ばれる事ができませんでしょう? ですから、私はこれから先、葦原中国には参りません。……仁優様、いずれ黄泉国にいらっしゃった折には、私に奥様を紹介してくださいませ」
「メノ……」
「守川が今後、メノ以外の女性の心を射止める事ができるかどうかは甚だ疑問だがね。まぁ、射止められなければ射止められないで、黄泉国に降りてからメノと心置きなく睦み合えば良いさ」
夜末の横槍に、仁優は目を白黒とさせたり、顔を赤くさせたりと忙しい。その様子を、周りにいる者達が見て楽しそうに笑う。周りが楽しそうに笑うので、仁優もつられて、笑った。
「さて……いつまでもこうしているワケにもいかない。……そろそろ、逝くか」
瑛の声に、少しだけ寂しそうな響きが感じられた。察したのだろう。ウミとライ、メノは顔を引き締め、そして頷いて見せる。
瑛とウミが、二人で黄泉族の門を創り出した。まずは先導を務めるように、メノが足を踏み入れる。彼女は仁優達に向かって深々と一礼をすると、そのまま闇の奥へと消えていった。
次にウミが門に足を踏み入れ、瑛に向かって手を差し伸べる。瑛は、最後にもう一度礼を抱き締めると、その後は振り向かず……ウミの手を取り、二人揃って歩いていく。
最後に、殿を務めると言わんばかりにライが門の前に立った。そして、一同をぐるりと見渡すと頭を下げる。門に足を踏み入れ、一度こちらを振り向き。ちらりと礼に視線を遣った。そしてもう一度深々と頭を下げると、ウミ達を追い、闇の奥へと消えていく。
その後姿を見送りながら、仁優は思い出した。そう言えば、建御雷之男神は斬り殺された火之迦具土神の血から生まれたんだったな、と。