葦原神祇譚
3
八岐大蛇は八つある口をカッと大きく開けた。真っ赤な口中が、まるで燃えているように見える。その様子に、男の子がヒッ……と小さく悲鳴をあげた。
「だ、大丈夫だ! 古事記によれば、あいつは別に口から火とかレーザービームとか破壊光線とか吐いたりはしなかったはずだから!」
だとして、一体何が大丈夫なのか。頭を抱えたくなったが、そんな事をしている場合ではない。頭の代わりに男の子を小脇に抱え上げ、仁優は地を蹴った。無駄な足掻きかもしれない。だが、動かなければ逃げおおせる可能性はゼロだ。
「ちっくしょぉぉぉっ!」
自らを鼓舞するように、叫ぶ。そんな仁優をあざ笑うかのように、八つの口、八つの牙は仁優達に襲い掛かった。
筈だった。
「グ……!? ガ、ガァァァッ!?」
突如八岐大蛇が、地が啼いたのかと思わせるような唸り声をあげた。聞くだけで息が苦しくなってくるような声だ。次いで、どこからともなくつる草が伸びて大蛇の首という首を拘束する。
「ガッ……グ……ガ……!?」
決して細くはない首をつる草によってぐいぐいと締めあげられ、大蛇の声が次第にか細くなっていく。
「……何が、どうなってんだ……?」
わけがわからず、仁優は呆然とその様子を見ている。すると、更にわけのわからない事が起こった。
今度は、目の前――自分と八岐大蛇の間に、人が一人、飛び降りてきたのだ。いつのまに? どこから? どうやって?
混乱しながらも、仁優は目の前に降り立った人物を見ずにはいられない。
細身で、身長は百七十センチ台だろうか? 黒く短い髪に、白い肌。目付きが少々厳しいが、端正な顔立ちだ。黒のスラックスに、黒と白を基調にしたジャケット。更にその上に……コスプレだろうか? 黒い着物を羽織って帯まで締めている。明治から大正にかけての書生がシャツの上に着物を着ていたが、まさにあんな感じだ。ただし、着物の袖は三分くらいしか無く、無いに等しい。丈も、膝上ぐらいまでしか無い。全体的な格好だけ見れば、完全に何かのコスプレだ。
左耳を緑色の小さな石がついたシルバーチェーンのイヤーカフで飾り付けていて、それが身に付けている唯一の有彩色のようだ。
「何をしている? 早く逃げろ」
目の前の人物は、背後の八岐大蛇に気をかける事も無く仁優に言った。決して高くは無いが、男声とは言えない声だ。
そう……その人物は、女性だった。
「早く逃げろと言ったのが、聞こえなかったのか?」
落ち着いた声音で、もう一度その女性は言った。その声に弾かれたかのように、仁優が抱えていた男の子が脱兎の如く逃げ出す。その後姿を見詰めてから、女性は溜息をついた。
「あの子どもの方が、まだ判断力があるな。それとも、何だ? お前には自殺願望でもあるのか? そうだとしたら……やめておけ。あの世というものは、決して楽しいものではないぞ」
「え、いや……」
返答に困り、仁優は視線を泳がせた。確かに、早く逃げなければという気持ちはある。だが、足を縫い付けられたようにその場から動く事ができないでいるのも事実だ。
そんな仁優を呆れた顔で眺めているうちに、女性は少しだけ怪訝な顔をするようになった。
「……お前は……」
「あ! それよりも、後!」
言葉を遮り仁優が慌てて指差した女性の背後では、八岐大蛇が今まさに戒めとなっているつる草を力尽くで引きちぎろうとしている。戒めから放たれれば、大蛇は間違い無くこの女性に襲い掛かるだろう。数瞬後には女性の首から上が無くなっているというようなグロテスクな光景だって有り得てしまうわけだ。
だが、女性はまるで全てがわかっているかのように、仁優の指し示す方向をつまらなそうに見ただけだった。そして、視線を再び仁優へと戻すと、唐突に自らの髪の毛を数本引き抜いた。そして、ニヤリと不敵に笑うと仁優に言う。
「おい、猿。知っているか?」
「……だから、誰が猿……え?」
本屋で出会ったあの得体の知れない青年と同じ呼び方をされ、仁優は息を呑んだ。表情が凍りついた仁優の前で、女性は引き抜いた数本の髪の毛に息を吹きかける。すると、髪の毛は瞬く間に人の姿へと見た目を変えた。背丈は十歳ぐらいの子どもと同程度だが、顔付きは立派な大人のそれだ。女性の髪の色と同じ、黒い着物を纏っている。髪は、みずらと言うのだったか? 古代の埴輪のような形に結っていた。
口をパクパクとさせる仁優の眼前で、ついに八岐大蛇がつる草を引きちぎった。八つの首が、一斉に女性へ向かって襲い掛かる。
その瞬間、仁優の眼前に仁王立ちをしていた黒い人間達が一斉に動いた。彼らは小さな体躯を活かして大蛇の懐に潜り込むと、そのまま大蛇の首を蹴り上げた。中には、手刀を喰らわせている者もいる。
彼らの攻撃が決まった瞬間、八つの首は泡を吹き、たちまち昏倒してしまった。その様子を眺めながら、女性は少しだけ楽しそうに、先程途切れた言葉の続きを口にする。
「髪の毛の成分の多くは炭素でな……世界最高の硬度を誇るダイアモンドとほぼ同じだと言う。床屋のはさみは刃こぼれし易いとも言うな。つまり、人の毛はダイアモンドと同程度の強度を持っているとも言えるわけだ。それから生まれた新神達の拳や足が与える衝撃は、人のそれとは比べ物にならないぞ」
「アラタガミ……?」
呟く仁優の眼前で、八岐大蛇が完全に地に伏した。振り向く事も無く、女性はどこへともなく声をかける。
「神谷、夜末(やずえ)。どうせいるんだろう?」
すると、これまたどこからともなく、二人の男女が現れた。どちらも細身で、身長は百六十センチ台。黒いスーツを身に纏い、黒く短い髪を風に揺らしながら鋭い目付きで辺りの様子を伺っている。
一見すると、最初からこの場にいた女性も含めて三つ子なのではないかと思ってしまう。それほどまでに、雰囲気が似通っていた。
「大丈夫だ。兇神も妖禍も、今この場にはもういない。……そこの奴を除いてな」
女性が倒れ伏した大蛇を顎でしゃくって見せる。すると、新たに現れたうち男性の方が深い溜息をつく。
「まったく……さっさと滅してしまえば良いものを、いつまでも生かしておくからこうなるんだ。面倒臭い」
「そう言うな、神谷。今は、これが黄泉へ入ってしまう方が面倒だ」
苦笑しながら言う女性に、神谷と呼ばれた男性は更に深いため息をついた。
「……わかっている」
次いで、もう一人の女性――夜末に神谷は言った。
「面倒だが、各方面への連絡は引き受けた。後は頼むぞ」
「わかっている。……二度とこんなふざけたマネができないよう、徹底的に調教してやるさ……」
口元だけ笑っている夜末の背後には、炎が燃えている……ように、仁優には見えた。その表情にゾクリと寒気を感じ、仁優は話題を変えようと無理矢理三人の会話に割って入った。
「とっ……ところでさぁ、アンタ達、何者なんだ? あと、アラタガミとか、オソレガミとか、ヨウカとか……何なんだよ? これってさ、アレ? すっげー大掛かりな映画の撮影か何か?」
すると、三人は今の今まで存在を忘れていたとでも言いたげな顔で仁優を見た。そして、最初に現れた女性は事も無げに言う。
「あぁ、猿に説明をしないとな。……よし、猿。今から私達の拠点について来い」
「……は?」
思わず聞き返した仁優に、女性はそれ以上何も説明しようともせずに、ただこう言った。
「とりあえず、名乗っておこう。私の名は、藤堂瑛(えい)。お前に拒否権は無いから、文句を言わずについて来い」
有無を言わせぬ物言いに、仁優は思わず絶句した。