葦原神祇譚
2
話は、数十分前に遡る。
「はい、三十五円お返し致します。ありがとうございましたー」
本の入ったビニール袋を抱えていそいそと店を出ていく学生の後ろ姿を見送り、仁優はホッと息を吐いた。夕方特有の混雑がひと段落し、あとは店内の整理をするだけ。それが終われば、夜番のアルバイトと交代して自分は帰る事ができる。
「あ、守川さん」
店内の巡回をしていた後輩が、困ったような顔をして声をかけてくる。
「? どうした、古川?」
仁優が首を傾げると、古川は視線を店の奥へと移し、ヒソヒソと語りかけてくる。
「それが……奥の歴史コーナーに、かれこれ二時間ぐらいずっと立ち読みを続けているお客さんがいるんですよ。万引きとかではなさそうなんですけど、何か雰囲気が怖くって……」
「そうか。んじゃ、帰る前にちょっと見ておくよ。お前はレジの方で引き継ぎ頼む」
そう言うと、仁優は歴史コーナーへと足を向けた。乱れた本を整頓しつつ、さり気無く様子を伺ってみる。
確かに、いる。歳は二十代半ばといったところだろうか。身長は百八十有るか無いかのスラリとした体躯。白のシャツにブラウンのスラックス。背中の中ほどまである黒い髪を首の後で括っている。一見、知的な好青年といった風体の男性だ。
「けど……」
思わず仁優は呟いた。
その見るからに穏やかで真面目そうな青年から、何やらただならぬ気配を感じる。そう、仁優は思った。
青年は懐かしそうな顔で古事記を読んでいる。
「……何で古事記?」
ただよってくる気配と青年が読んでいる本がどうしても頭の中で結び付かず、仁優は首を傾げた。
その時だ。
パタン、と本を閉じ、青年が視線を上げた。そして、ゆるゆると首を動かすと、仁優の方を見る。
視線が、仁優と合った。
「……っ!?」
突如言いようの無い寒気に襲われ、仁優は思わず身をすくめた。そんな仁優を見ながら、青年はまたも懐かしそうな顔をする。そして、言った。
「その気配は……猿か。懐かしいな」
「? いや、俺は守川ですけど……」
わけがわからず場にそぐわない返事をすると、青年は苦笑をした。
「……そうか。お前は覚えていないのか……いや、そもそも私とお前が直接会った事は無かったか」
「……あの、お客様?」
「ここでお前とまみえたのも、何かの縁だ。一つ、良い事を教えてやろう」
言いながら、青年は歩き出す。そして、すれ違いざまに仁優の肩をポンと軽く叩き、囁いた。
「命が惜しくば、すぐにこの町を離れると良い。直に、ここは神々の戦の地と変わる」
「……は? 何言って……」
振り向いた時、既に青年の姿はそこには無かった。ただ単に棚の陰に隠れてしまったのか、本当に煙のように消え失せてしまったのかはわからない。……いや、常識的に考えれば前者なのだろうが。だが、あの青年であれば後者の可能性も有り得る気がした。
首を傾げながら仁優がバックヤードへ入ると、先に業務を終えていたらしい古川が心配そうな顔で待っていた。
「あ、守川さん……どうでした?」
「んー……変な客ではあったけど、特に不審な動きは無かったな。もう帰ったみてぇだし。それよりも、古川……」
「? 何ですか?」
問い返してくる古川に、仁優は困った顔をしながらも問うた。
「お前……神様って本当にいると思うか?」
今度は、古川が困った顔をした。そして数分の間、言葉を探す様子を見せた後に困った顔のままで言う。
「神様って……あの神様ですか? 神社とかお寺とか教会とかにいる?」
「各宗教関係者に怒られそうな認識だけど、まぁ……お前が今想像した通りの存在の事だ」
その言葉に、古川は不思議そうな……そしてやっぱり困った顔をした。
「本当にいるかと言われると……テスト前とクリスマスの時だけは信じたり縋ったりしますけど、普段は気にもした事がないですね」
「また各宗教関係者に怒られそうな発言を……まぁ、大多数の日本人はそうだよな。……神様なんて……」
歯切れの悪い仁優に、古川は益々困惑した表情を作る。そして、心配そうに仁優の顔を覗き込んだ。
「あの……ひょっとして、さっきのお客さん……そういう方面の方だった……とか? それでまさか、守川さん……何か説法とかされて、ちょっとその気になっちゃったりとかしてるんじゃ……」
「いや! そんなワケじゃねぇから! ……まぁ、そうだよな。うん、多分俺の気のせいだ。変な事訊いちまって悪いな、古川。今言った事は忘れてくれ」
そう言うと仁優はタイムカードを押し、何やら納得がいかないと言いたげな古川に背を向けて店から出た。時間は十八時を少し回ったところ。季節がら、空はまだいくらか明るい。
夕飯の支度をしているのだろう。どこからか、カレーの匂いが漂ってきた。すると、それに刺激されたのか、腹が豪快な爆音を立てる。苦笑して、仁優はくるりと方向転換をした。少々遠回りになるが、帰宅する前にコンビニで小腹を満たしておこうという計画だ。唐揚げか……今の時期なら、ソフトクリームも良いかもしれない。
これから胃に収める予定の食べ物達に思いを馳せていると、今にも香ばしい匂いが漂ってきそうだ。足取りも軽く仁優が歩いていると、いつしか本当に香ばしい匂いが鼻腔をくすぐり始めた。
「……いや、違う。これは……」
香ばしい匂いではない。これは、焦げ臭いというのではないだろうか? 慌てて、周囲を見渡してみる。すると、大通りを少し行った先で黒い煙が立ち上っているのが見えた。続いて、その場に火の手があがる。
「火事か……!?」
緊張した面持ちで、仁優は呟いた。様子を見に行こうか、さっさと安全な場所まで逃げるか……少しの間だけ迷う。
そして、その迷っていた短い間が彼の運命を変えた。
火の燃え盛っている方角から、悲鳴と共に人々が逃げてくる。一人や二人ではない。道を埋め尽くすほどの人の波……民族大移動を走って行ったらこんな感じになるのだろうか?
とにかく、凄い人の数、鬼気迫る表情達、必死さが伝わってくる走り方……。人々は迷い立ち尽くしていた仁優の前を一気に駆け抜けていく。人の波は切れる事を知らず、それどころかどんどん増えていく。
「一体、何が起こってんだよ……!?」
目を白黒させながら、仁優は逃げ惑う人々の後方へと視線を向けた。するとそこには、赤黒く巨大な影が迫ってきていた……。