僕と私の魔王生活





16





 ひと月近くの時が経った。

 あれから、治療と魔族化を兼ねて、数日おきにメトゥスから優音に血を分け与え続けている。

 大きめの注射器を使って抜いては、コップに移し、それを優音が飲む。最初のうちはあまりの生臭さ、鉄臭さに顔を顰め、時には吐きそうになっていたが、今となっては慣れたもの。コップを手渡されたら、それを水でも飲むかのようにすいすい喉に流し込んでいく。

 問題は、優音よりもメトゥスの方だ。

 注射器が大きいからか、魔族の世界の仕様なのか。この注射器、やたらと針が太い。それを指して血を抜く度に、プルプルと小動物のように震えているし、涙目になっている。

 そして、血を飲む際に優音が少しでも顔を顰めると、「僕のせいで……ごめんなさい……」などと言って泣き出す。

 本当に、彼はあの時、あれほどの影の巨人を生み出して勇者達を追い払った魔王と同一魔王なのだろうか、と思いながらも、その時は苦笑しながら、その頬に流れた涙を舐めてやる。

 他人の涙を舐めるという行為は、色々な意味でどうなんだろうと思わなくもないのだが……涙でも魔族化の源とできると思うと、勿体無く感じてしまうので、ついやってしまう。そしてこれは、性的な印象よりも、母や上の兄弟が小さな子どもの顔を拭ってやる感覚に近い気がする。

 流石に魔王相手にこの感覚はどうなのかとも思うのだが、当の魔王は照れながらもなんだかくすぐったそうに笑っているので、一番どうしようもないのはこの魔王である。

 ……いや、どうしようも無いのは彼の性格にまるで合致しなかった、彼の生育環境か。最近は、愛情や明るい環境に飢えて育ったのであろう様子を隠そうともしなくなってきた。簡単に言うと、優音やクロなど、言っている事はどうあれ馬鹿にしてこない者に対して、少々甘えたになってきているのである。一緒にいて欲しい、共に食事をして欲しい、というような要望を、臆面も無く言うようになってきた。

 真面目に全てを背負って潰れるよりは良いかという事で、今のところは容認されているのだが、将来的にはどうなる事やら。

 そんなこんなで、血液と涙の摂取を始めて、一ヶ月。遂に規定量を摂取し終えたと、優音は確信した。

 これまでと比べて、体に力が漲っているように思う。特に鍛えたわけでもないのに、腕力が上がっているように感じる。

 そして何より、角だ。

 これまでは無かった角が、最後の血液を摂取し終えた瞬間から生え始めた。メトゥスのように、羊のような角。丸まっていて、太くて、大きい。

 角も生えたし、筋肉の量も変わった。そのため、服もこれまで着ていた人間のスーツではなく、魔族の服を用意してもらった。

 それを着て、魔族化した姿を初めてちゃんと見せた時。メトゥスは嬉しそうな顔をするかと思いきや、目を丸くした。

「……え?」

「何か、変?」

 問うと、「えぇっと……」と困惑したような声が返ってくる。

「あの、何と言うか……角、大きくないですか? 角が生えている魔族がいないわけではないんですけど、それすら割とレアケース、なんですよね。それが生えてきた上に、ここまで大きくて立派な角が生えたとなると……」

「たしかに……。これだけの角があるのは、魔王ぐらいなもんだよなぁ、普通」

 クロも困惑している。だが、これに関して、優音は答えを持っている。そしてこれが、一ヶ月前に「メトゥスがショックを受けるかもしれないが、もう成り行きに任せるしかないだろう」と判断した事案だ。

「あのね、メトゥス……それにクロも。落ち着いて聞いて欲しいんだけど……。前にね、ニンブスが言ってたのよ」

「……ニンブスが?」

 その名が出た瞬間に、メトゥスの顔に警戒心が満ちた。本当に、ニンブスはこれまでどれだけメトゥスをからかってきたのだろうか。

「流石にその時は、申し訳なさそうな顔をしていたんだけど……二十七年前に、神様が取り違えをしたらしいのよ」

「……取り違え?」

 首を傾げたメトゥスに、優音は「そう」と頷いた。

「魂の取り違え。よりにもよって、魔王として生まれる予定の胎児に人間の魂を、人間の胎児に魔王になる筈の魂を入れてしまったんですって」

 その言葉に、メトゥスは「え……」と呟く。優音の言葉が意味するところは、一つしかない。

「それって、まさか……」

 そう、と優音は頷いた。

「本来なら、あなたの体には私の魂が入っているはずだった。そしてメトゥス、あなたは……中橋優音として、人間の世界で生まれ育つはずだった。……そういう事になるわね」

 二人とも、住んでいる環境が合わないわけだ。魔族の魂を持っている優音には人間の世界は息苦しかった。人間の魂を持っているメトゥスには、魔王の責務は重過ぎた。だから、こちらの世界に来た途端、優音は気が楽になり、気ままに振舞う事ができるようになったのだと言える。

 互いが気になるわけだ。本来自分が入るはずだった体が目の前にあるのだから。

 メトゥスが傷付いた優音を見た途端に魔王として覚醒したのも、本来の魂が近くにあり、その魂が生命の危機を覚えたために体の方が勝手に覚醒したと言えるのではないだろうか。

 そして、優音が魔族化したら魔王の如き立派な角が生えたのは……魔王の魂を持つ肉体に、魔王の血液や涙が入ったのだから、こうなる事は必然であろう。

「えっと、つまり……?」

 唖然とした顔のメトゥスに、優音は「つまりね……」と言葉を継ぐ。

「今、この魔族の世界には、例外的に魔王が二人いる状態になっている、という事」

 魂は人間であるものの生まれた時から魔王の肉体を持ち、長らく魔王をやってきたメトゥスと。魔王の魂を持ち、今しがた魔王の肉体を得たばかりの優音と。半端な魔王が二人いる状況なわけだ。

「え、えぇー……」

 メトゥスは、大いに困惑している。気持ちは、わかる。ニンブスに話を聞かされた時は、優音もかなり困惑した。

「とにかく、そんなわけだから……」

 そう言って、優音はメトゥスの肩をぽん、と掴んだ。顔が、何やら嬉しそうだ。

「これからは、私も魔王として人間界への侵攻について考えるから。一人で抱え込まないで、迷う事があったら相談してちょうだい」

「え、ちょっ……ユーネはそれで良いんですか? 仮にも、自分が最近まで住んでいた世界ですよね? 自分が主体になって人間界への侵攻計画を考えるとか……」

 慌てて問うメトゥスに、優音は「あのね……」と呟いた。

「思ったのよ。世界が違っていたとは言え、仮にも魔王の魂を持つ人間が死にたくなるまで追い詰められる……しかも、死にたくなるほど追い詰められるのが一般的になってる世界なんて、一度徹底的に滅ぼしてリセットした方が良いんじゃないかって……」

「考え方が完全に魔王じゃないですか!」

「だって、魂が魔王なんだもの」

 その反論に、メトゥスはぐうの音も出ない。言葉に困っている彼に、優音は言った。

「それに……あっちから来た勇者に、メトゥスが痛めつけられたお礼もしなくちゃいけないわよね?」

「え、僕ですか?」

 面食らうメトゥスに、優音は頷く。

「本来は縁も何も無かったかもしれないけど、取り違えられた事で縁が生まれてるんじゃないかという気がするのよね。歳も、生まれた時期も同じだし。……そう、私からすれば、心優しい双子の弟がいじめられたようなものだわ」

「いや、たしかに文字通り血を分けたきょうだいみたいにはなってますけど! ……と言うか、僕が弟なんですか?」

「兄って感じじゃねぇからなぁ、メトゥスは……」

 何とか絞り出した感の強いクロの言葉に、メトゥスは再び「えぇー……」と呟く。

「いえ、もう兄妹とか姉弟とかの順番はどうでも良いとしてですよ? いきなり魔王が二人に増えた事について、臣下達にどう説明すれば良いんですか?」

 先日の勇者侵攻事件で多くの臣下が傷付き倒れたが、不幸中の幸い、死者はほとんどいなかった。臣下の殆どが入れ替わり新人ばかりになったのであればともかく、昔からいる臣下がほとんど残っているのだ。誤魔化しは、通用しない。

「正直に全部話せば良いんじゃないの? 隠し続けると、逆に後が怖いわよ」

「そうかもしれませんけど……」

 言い淀むメトゥスに、クロが「面倒臭ぇなぁ」と言う。

「軍の衛生管理とか住民の生活に関する内政面は今まで通りメトゥスがやって、人間の世界に侵攻する軍事面をユーネが担当すりゃあ良いじゃねぇか。侵攻に関しては、どう見てもユーネの方が相性良さそうだしな。お前は一人でやらなきゃいけねぇ仕事が減るし、いつになったら侵攻するんだと陰で言われなくても良くなるし、万々歳じゃねぇか」

「それを言われると……」

 同意せざるを得ない。メトゥスがそう言うと、優音……否、ユーネは笑って「決まりね」と言った。

「しばらくは、二人で色々相談しながらやっていきましょう。そのうち私も剣の使い方や魔法を覚えて、またメトゥスが誰かに言いがかりをつけられているようなら、その場でぶっ飛ばせるようになるから」

「……魂と肉体が一致した途端にイキイキとし過ぎじゃないですか、ユーネ?」

 呆れた様子のメトゥスに、ユーネは「そう?」と言う。

「そう、かもしれないわね。けどね、メトゥス……次は、あなたの番だから」

「……はい?」

 思わず聞き返したメトゥスに、ユーネは楽しそうに言う。

「あなたの肉体を本来の人間にする事はできないけど、少なくともこれで、苦手な侵攻計画には携わらなくても良くなるわ。それに、出来る限り、ご飯は一緒に食べられるようにする」

 どう? と問えば、メトゥスの頬は明らかに緩んでいる。そして、それを悟らせないようにしようと、必死に頬を押さえている。

「心に余裕ができて、メトゥスが楽しく生きられるようになったら……その時は、クロと一緒に言ってやるわ。『最近、イキイキし過ぎじゃないの?』って」

「えぇー……」

 三度目となる「えぇー……」は、これまでの困惑に満ちたそれとは打って変わって、楽しげな響きを含んでいた。それが、メトゥス自身にもわかった。

 振り回される予感しかしないが、それでもきっと、今までの生活よりはずっと、楽しい生活になる。

 そんな予感を覚えながら、メトゥスは顔に苦笑を浮かべ、これからの二人の魔王生活に想いを馳せたのだった。





(了)











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