平安陰陽騒龍記~父娘之巻~
8
「葵が人の生活に融け込めなくなる事は、我らとしても望まぬところだ。言われずとも、今後余程の事が無い限り、むやみやたらと大っぴらに力を使うような事はすまい」
「そうしてくれると、助かる。ついでに、使わざるを得ない状況になったとしても、できるだけ最初は勢輔に出てもらいたいところだな」
隆善の言葉に、荒刀海彦は頷いた。勢輔であれば、力を行使しても葵の見た目は髪と目の色以外それほど変わらない。少なくとも、腕が龍の物となり、瑠璃色の鱗まで生えてくる荒刀海彦よりは人々に与える違和感は少なくて済むだろう。
「穂跳彦が出てもまずいが、奴が力を使うのは必ず緊急事態が発生している時だ。仕方があるまい」
「たしかにな。末広比売は……今のところ、心配は無ぇか」
「あぁ。戦時には、いつも大人しく事が済むのを待っている。余計な事をして、葵を窮地に追い込むような事はすまい」
荒刀海彦の口角が微妙に上がる。その顔に、隆善が「おい」と言いながらにやりと笑った。
「孫を自慢する爺みてぇな顔になってんぞ」
言われて、荒刀海彦は「む……」と己の頬を摘まんだ。そして、特に修正する事の無いまま言う。
「孫か。……それも良い。我が娘もより良く成長を遂げている。……良い娘と孫を持つ事ができ、どうやら私は今になって運が巡ってきたようだ」
「おーおー、新たに親馬鹿が生まれたか。惟幸と葵が起きたら、三人で親馬鹿懇親会でもやったらどうだ?」
その言葉が、呪となったのだろうか?
「……むー……?」
眠たげな唸り声をあげて、惟幸がむくりと起き上がった。その声で目が覚めたのか、葵も少し遅れて起き上がる。二人揃って、眠たげに眼をこすった。
「よぉ、目が覚めたか?」
「……うん……。ねぇ、たかよし?」
まだ目を完全に開き切る事はできない様子で、惟幸がぼんやりと声を発した。何かと問えば、惟幸は緩慢に視線を巡らせている。葵も同様だ。
「何か……紫苑に何かあったような気がするんだけど、報せとか来てない?」
「俺も……弓弦とすえの声が聞こえたような……」
二人の言葉に、隆善は眉を寄せた。能力だけなら高位の術師である惟幸と、神霊に憑かれ続けて勘が発達しつつある葵の言葉だ。無視はできない。
「……虎目、紫苑達が出ていく時、何か視えたか?」
隆善が問えば、虎目は申し訳なさそうな顔で小さくなっている。葵に抱き付かれたままでもがいていたため、先を見る余裕は無かったようだ。
そして、「今からでも……」と呟いて彼が未来を視ようとした、その時だ。
ドタタタタタタ! と、勢いよく走る音が聞こえてきた。あまりに大きなその音に、全員が思わず首を巡らせる。
瓢谷邸は結界が張ってあり、生半可な術師や鬼では入り込む事などできるものではない。そして、態度がでかく実力を備えている陰陽師である隆善の邸に無断で入り込もうと考える肝の据わった徒人もそうそういない。結果、勝手に邸に入れる者となると、限られてくる。
「この気配は……」
覚えのある気配だ。そして、こういう場合真っ先に皆が思い浮かべるであろう人物――惟幸は、既にこの場にいる。……と、なると。
「瓢谷ーっ! 大変大変! 大変でおじゃるよーっ!」
勢いよく天津栗麿が突撃してきた。そして間髪入れずに、隆善がその顔に大きな手で掌底を喰らわせる。めしゃっという音が響き、栗麿は「うごふっ!」といううめき声をあげてその場に倒れた。
「バタバタぎゃーぎゃーと五月蠅ぇぞ! っつか、誰の許可を得て勝手に入ってきてんだ、この馬鹿栗!」
すると、栗麿は鼻を押さえながらも勢いよく顔を上げた。
「そ、そそそそれどころじゃないでおじゃるっ! 紫苑達が、大変なんでおじゃるよっ!」
「あ?」
「は?」
「へ?」
「む?」
「にゃ?」
その場に居る全員の顔が、瞬時に歪んだ。特に、惟幸と荒刀海彦の顔が怖い。その様子に栗麿は一瞬「ひっ!」と怯え、それから見慣れぬ顔の荒刀海彦に首を傾げた。
「ふぉ? 誰でおじゃるか、この古むさ苦しい恰好の御仁は?」
「顕現させた荒刀海彦だ。それよりも、紫苑達がどうしたって?」
苛々しながら隆善が問うと、栗麿はハッとした表情になり、両拳をぶんぶんと上下させ始めた。可愛くない。
「そう、そうでおじゃる! 麿はさっき、買い物をしに東市に行ったんでおじゃるが、そこで紫苑と弓弦と、二歳くらいの女童が柄の悪い男達に絡まれて、しかも連れていかれてしまったんでおじゃるっ!」
「はぁっ!?」
その叫び声は、誰の物だったのであろうか。誰の声なのかを特定する前に、隆善と虎目が栗麿に詰め寄った。
「……それを、てめぇは何もせずただぼーっと見てたのか? あ?」
「それでも男にゃのか? 馬鹿で意気地にゃしとか、どうしようも無さ過ぎじゃにゃーか?」
「あっ……相手は何人もいて、しかもどいつもこいつも武器を持っていたんでおじゃるよっ!? しかも、その小さな女童を担ぎ上げて、人質にしてたでおじゃる! 紫苑も弓弦も手出しできないような相手に、麿が何をできるって言うんでおじゃるかっ!?」
珍しく、正論である。流石に二の句が継げなかったのか、隆善と虎目は揃って息を吐いた。……が、今日はそれでは収まらない。
「それで……栗麿? 弓弦達はどこへ連れていかれたか、わかる?」
若干いつもよりも低い声で、葵が問うた。声音の変化には気付かず、栗麿は思い出すように視線を泳がせた。
「たしか……右京の方へと歩いていったように見えたでおじゃる。白昼堂々の人攫いとは言え、流石に武士と遭遇する確率の高い門を昼間に潜る気は無いでおじゃろうから……明るいうちはひと気の少ない右京のどこかに潜んで、夜になったら京の外に逃げ出すつもりではおじゃらぬか?」
「そう……ありがと」
「馬鹿にしては良い推察と言えよう。京の半分まで探す範囲を絞れたならば、上出来だ」
「そうだね。……明藤、暮亀、宵鶴。捜索を頼むよ?」
葵と荒刀海彦、惟幸が口々に言いながら立ち上がる。惟幸の言葉が終わる前に、彼が使役する三人の式神、明藤と暮亀、宵鶴が姿を現し、会釈をするとまた姿を消した。そして誰からともなく「行こう」と言いだし、三人は渡殿から庭へと足を踏み出す。
「へ? あ、葵……? 何か、珍しく目付きが怖いでおじゃるよ? 他の二人も……ちょ、心配なのはわかるでおじゃるが、ちょっと落ち着いて……?」
「やめとけ、馬鹿」
「止めたところで、おみゃーが真っ先に血を見るだけだにゃ」
隆善と虎目が、珍しく穏やかな声を栗麿にかける。それがまた想定外だったのか、栗麿の顔は得も言われぬ恐怖で歪んだ。
「な、何なんでおじゃるか、今日は? 葵の目が据わっているでおじゃるし、瓢谷と化け猫の声がとがってないなんて……何が起きようとしているんでおじゃる!?」
混乱する栗麿を余所に、葵達は今にも駆け出しそうな速さで歩を進め、あっという間に邸の敷地内から姿を消してしまう。
その後ろ姿を見送りながら、隆善が誰に向かってでもなくぽつりと呟いた。
「……まぁ、何だ。あいつらが戻ってくるまで、酒でも飲んで待つか」
その声がいつに無く硬かったのは、きっと気のせいではない。