平安の夢の迷い姫











17











『葵!? ……そう言えば、こっちに向かってたんだっけ。……すっかり忘れてた……』

「おまっ……何やってんだ! そんなみっともねぇ恰好で……」

葵の水干や袴は、太刀で切り裂かれたようにぼろぼろになってしまっている。これでは、元を知らなければ水干を着ているという事すらわからない。怪我は無いようだが、とにかく見た目が酷い。

「しっ……師匠! これにはそのっ……わけがあって! そう、鎌鼬が……」

「いや、ちょっと待て。そこから動くな、葵」

「え?」

慌てて立ち上がろうとした葵を、隆善は手で制止した。目を丸くした葵に、隆善と、惟幸の形代、ついでに宵鶴が、葵の下を指差して見せる。葵は、そろりと下を見た。

さとりを、下敷きにしている。

「うわっ!? かっ……加夜姫様! すみません、俺……!」

「葵、そいつは加夜じゃねぇ。加夜の姿をした妖さとりだ。そのまま押さえておけ」

隆善に落ち着いた声で言われ、葵も平静を取り戻した。己が来た方角を気にしながらも、真剣な表情でこくりと頷く。

「惟幸」

『うん、やっと溜飲を下げる事ができそうだね』

にやりと笑う隆善に、惟幸も妙にうきうきとした声音で頷いた。宵鶴も、心なしか顔が微笑んでいる。

その様子に、何か物騒な物を感じたのだろう。葵の顔が引き攣った。

「あ……あの、師匠? それに、惟幸様に宵鶴も……。これから、何が始まるんですか? まさか……」

「葵、絶対に逃げるなよ」

『当たるかどうかの瀬戸際で、上手く避けてね』

『いざ、参る!』

隆善が数珠を構え、惟幸の形代が腕を突き出し、宵鶴が太刀を構える。葵の顔色が青くなり、白くなり、終いには土色になった。

「ナウマクサンマンダボダナン、オン、マリシエイソワカ! オン、アミリトドハンバウムハッタ!」

『臨める兵、闘う者、皆陣破れて前に在り!』

『はぁっ!』

悪しき物を圧し潰すような空気が辺りに満ち、強烈な風が吹き荒れ、その風に乗って宵鶴が一息に距離を詰めて太刀を振り下ろす。

「うっ……うわわわわっ!」

悲鳴をあげながら、葵は寸でのところで背後に跳び退った。後に残されたさとりのみに、全ての術、刃が命中する。

「きゃあぁぁぁぁぁぁっ!」

さとりが叫ぶ加夜の声に、隆善は顔を顰めた。そして、じゃらりと数珠を振り下ろしながら、倒れ伏すさとりの元へと歩み寄る。

余程の衝撃だったのだろうか。今はもう何にも押さえつけられていないにも関わらず、さとりは動かない。逃げようとしない。

近寄ってくる隆善を、さとりは苦しげに見詰めた。

「何故……何故なの、隆善様? 何故……」

「何故、加夜の姿をしたお前を攻める事ができたのか、か?」

さとりが弱々しく頷くと、隆善は、はっ、と鼻で笑った。

「それこそ、お前の力で読んでみろよ。俺が素直に言うわけねぇのは、重々承知だろうが」

言われて、今までにない神妙な面持ちで、さとりは隆善の顔を見た。そして、「嗚呼……」と呟く。

「俺にとっての加夜は、加夜一人しかいねぇ。どれだけ姿を似せていても、結局お前は加夜じゃねぇんだよ。一度こそ躊躇っちまったが、加夜の姿で調子に乗ったお前にもう一度情けをかけてやる必要なんか無ぇ。……そう、お考えになっていらっしゃるのね?」

どこか寂しげなさとりの言葉に、隆善はふん、と鼻を鳴らしながらそっぽを向いた。そして、そっぽを向いたままさとりに問う。

「最後に、教えろ。何故お前は、加夜の姿をしている? 何故加夜は、自分の姿でお前を描いたんだ?」

その問いに、さとりは少しだけ目を見開いた。そして、しばらく隆善の顔を見詰めていたかと思うと、くすくすと笑う。

「あらあら……本気で、わかっていらっしゃらないのね」

瀕死の体でくすくすと笑い続けるさとりに、隆善は舌打ちをした。今まで以上に鋭く、さとりを睨む。

「あぁ、わからねぇよ。だから、とっとと教えろ」

すると、さとりは笑いを収めた。真っ直ぐに隆善を見詰め、そしてにこりと微笑む。

「嫌よ。教えてなんてあげないわ。ご自分でお考えになって」

それだけ言うと、さとりは目を閉じた。姿が、次第に薄らいでいく。そして最後には、影も形も無くなった。

「……最後まで調子に乗りやがって……」

忌々しげに隆善がこぼしてから、葵が慌て切った声で「師匠!」と呼ぶまでにはほとんど時はかからなかった。

隆善がはっと葵に視線を向けた瞬間、傍らの石が音を立てて両断される。

「なっ……!?」

絶句する隆善の横に、葵が駆け寄り並び立った。顔が引き攣り、あまり良くない汗をかいているように見える。

「……やっぱり、撒けてなかった……」

「おい……これはどういう事だ、葵?」

隆善に睨まれ、葵は肩をすくめた。

「あの……絵を回収していたら、鎌鼬の描かれた絵がありまして……。それが、気付いた時にはもう現と化していて……」

『あぁ、それであんなに急いで走っていたんだ?』

惟幸の言葉に、葵はこくこくともの凄い勢いで何度も頷いた。

「そうなんですよ! 相手は風だから、刀は効かないし! 捕まえる事もできないし! 術を使って攻撃しようにも、たまに見える顔はすぐに消えちゃって目標が定まりませんし!」

葵が息もつかずに訴える間にも、辺りの石は両断され、時には築地の一部がぼこりと崩れ、葵の水干の袂が千切れ飛ぶ。

「あっ!」

悲痛な叫び声を発して、葵が千切れ飛んだ袂を掴んだ。懐に仕舞い込んだところを見ると、帰ってから修繕するつもりらしい。葵の水干は、修繕できるのか甚だ疑問に思えるほどに、ぼろぼろになってしまっているのだが……。

『たかよし……流石にそろそろ、新しい着物を用意してあげなよ』

「そうだな……次に良い布が手に入ったら、優先的にお前の着物にしてやる。だから今は着物なんざ気にせずにやれ、葵」

「次に良い布が……って、いつになるんですか、それっ!」

涙混じりの声で叫びつつも、葵は風の刃が飛んできた方角を睨み付けた。一瞬だけ、鼬の顔が見える。

『臨める兵、闘う者、皆陣破れて前に在り!』

見えた途端に惟幸が九字を叫ぶが、風が吹き荒れる頃には既に姿を消している。

『速い……』

「たしかに……こいつはお前一人じゃ、骨が折れるな。葵」

「済みません、師匠……手を煩わせてしまって……」

申し訳なさそうに項垂れる葵の頭を、隆善は「まぁ、良いさ」と言いながらくしゃりと撫でた。思いがけない、慣れない師匠の行動に、葵は目を瞬いている。

「半ば、俺の蒔いた種だしな。今回ばかりは、悪いと思わなくもねぇんだ。この場をとっとと収めて、急ぎ加夜の邸に戻る。良いな?」

葵も、惟幸の形代も、黙ったまま頷いた。鎌鼬は、相変わらず手当たり次第に辺りの物を風の刃で切り裂いている。

互いの視界を補うように、師弟は背中合わせで立ち向かった。











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