平安の夢の迷い姫











16











「あ?」

顔を引き攣らせて隆善が声を発した瞬間に、またもくすくすと笑い声が聞こえてくる。

「加夜は愛しい。加夜の姿と声で馬鹿げた事を仕掛けてくるさとりは腹立たしい。……そう、お考えになっていらっしゃるのね?」

瞬間、隆善は目を剥いた。

「てめっ……!」

『……あぁ、なるほど』

「普段は素直に言わないけど、やっぱり加夜姫様の事は愛しいんだ。だったら、ちゃんと口に出して言ってあげれば良いのに。……そう、お考えになっていらっしゃるのね?」

「……おい、惟幸」

さとりの発する惟幸の言葉に、隆善は肩の形代を睨み付けた。形代はと言えば、憮然とした気を発しながら腕を組んでいる。

『……本当に厄介だね、あの妖……』

「ちなみに、僕は三日に一度はりつに可愛い、愛しいと伝えているよ。……そう、お考えになっていらっしゃるのね?」

「……面白い事を聞かせてもらった」

『僕は全然面白くない』

『惟幸様、たかよし様。お戯れはその辺りになさって頂きたい』

真顔の宵鶴に窘められ、隆善と惟幸の形代は揃って「むぅ……」と唸った。惟幸の形代が、『はぁ……』と言葉にならない声を発する。紙でできた形代なのに息を吐いているように見えるのは、山中の本体が実際にため息をついているからか。

『今なら、加夜姫様のご苦労が少しだけわかる気がするよ。考えるつもりが無くても、それを連想させる言葉を聞いてしまえば考えざるを得ない。そして、考えた事によってあらぬ展開を引き起こしてしまう。……ほんの短い間、からかわれただけの僕達でさえこんなにうんざりするんだ。もっと大変な事になってしまう、しかもそれを二十年以上味わい続けている加夜姫様の心持ちといったら、いかばかりか……』

「まったくだ。……おい、惟幸。これからどうする?」

『どうするって、言われても……』

「とにかく、何とかしてさとりを調伏する他ないよね。お邸の加夜姫様達が危ないし。……そう、お考えになっていらっしゃるのね?」

さとりの言葉に、隆善が目を見開いた。かと思えば、顔が今までに無いほど険しくなる。

「加夜が危ねぇ……だと? おい惟幸、どういう事だ?」

隆善の問いに、肩の形代は初めて逡巡する様子を見せた。次いで、くしゃりと音が立ち、顔の辺りに皺が寄る。顔を顰めたのだろうか。

「……まずいな。加夜姫様の邸に現れた百鬼夜行の数が多過ぎる。しかも、こんなに凶暴になるなんて……。僕の形代と明藤だけじゃ対処しきれないかもしれない。けど、たかよしに今これを言うべきか? 言ったところで、さとりをどうにかしなけりゃ、たかよしは動けない。今加夜姫様の邸の事を伝えるのは、焦りを生んでたかよしを危地に追い込むだけなんじゃ……。そう、お考えになっていらっしゃるのね? 貴方様も、焦っていらっしゃるのね、惟幸様?」

『……』

くすくすと、本当に楽しそうにさとりは笑う。隠し事が一切できない状況で、発する事のできる言葉も失い、隆善と惟幸は黙り込んだ。唯一、宵鶴が無言のまま太刀を振りかざし築地に隠れるさとりに斬りかかったが、殺気も太刀筋も全て読まれ、やはり躱されてしまう。躱したさとりが、再び築地の陰から姿を現した。

惟幸の形代が、かさりと動いた。その途端、またもさとりが言葉を発す。

「とりあえず……葵には悪いけど、暮亀に援護に行ってもらおう。気配からして、葵は今のところ戦ってはいないみたいだし……。そう、お考えになっていらっしゃるのね?」

『……いい加減、くどいよ? ……暮亀!』

『かしこまりましてございます、惟幸様。では、葵様。私はこれにて』

不快そうな惟幸の呼び掛けに、暮亀の声だけが聞こえた。

『これで、少しは時が稼げると良いんだけど』

少し疲れたような声で言う惟幸に、さとりが「駄目よ」と笑った。

「隆善様のお気持ちを、隆善様の口からちゃんとお聞きするまでは帰してあげないわ。けど、隆善様。ふざけんな、本物の加夜ならともかく、何でさとりなんざに言わなきゃならねぇってお考えになっていらっしゃるわね? 駄目、駄目。それじゃあ、お邸には戻らせてあげられない。だから、いくら時を稼いでも意味が無いわよ、惟幸様」

「馬鹿にすんなよ、さとり。お前を調伏すれば済む話だ。太刀筋を読まれて躱される? 躱しきれないほど素早く、耐え切れないほど強力な術をぶつけりゃ済む話じゃねぇか」

鼻息荒く言い放つ隆善に、さとりは「あらあら」と微笑んだ。細かな仕草が、本当に加夜そのものだ。

「無茶な事を仰るものじゃないわ、隆善様。駄目よ、隆善様達には、私を調伏する事はできないわ」

「んな事、やってみなきゃわからねぇだろうが!」

叫ぶや否や、隆善は懐から数珠を引き出し、印を結んだ。

「ナウマクサンマンダ……」

「やめて、隆善様。攻撃なさらないで!」

真言を唱えかけた隆善の目と鼻の先に、さとりが素早く迫った。隆善は思わず体をのけ反らせ、真言も途切れてしまう。

『臨める兵、闘う者、皆陣破れて前に在り!』

咄嗟に惟幸が攻めの九字を唱えるも、いつもより出が遅く、威力も弱い。こちらもあっさりと、さとりに躱されてしまった。躱したところを宵鶴が太刀で狙うも、やはりこちらも当たらない。

余裕を感じさせる表情で、さとりは相変わらずくすくすと笑っている。

「だから、駄目だって言ったでしょう? 隆善様は、この顔にお願いされたら、攻める事なんてできないわ。前に惟幸様が仰っていたもの。隆善様は、頼られたら全力で応えようとするお方だって。私の――加夜姫の事を大切にしているって」

隆善が、惟幸の形代をじろりと睨む。形代から小さく、舌打ちの音が聞こえた。

「惟幸様も、形代の姿でいらっしゃるから、思うように術を使う事ができないのでしょう? 体の大きさがいつもと違うから、感覚が掴みにくい。やり過ぎてしまったらどうしよう……と、お考えになっていらっしゃるものね?」

『……』

形代は黙して、何も語らない。だが、心の中では思うところがあるらしい。さとりが、楽しそうに微笑んだ。

「お二人とも、絶望を感じていらっしゃるのでしょう? このままでは、加夜を助けに行く事ができない。京中で刻一刻と現になっている百鬼夜行達を調伏しに行く事もできない。このままでは京が妖だらけになってしまう。加夜が危ない。なのに、自分達にはこの場を脱する力が無い。そう、お考えになっているのでしょう?」

「……」

『……』

言い返す言葉も無く、隆善達はただ、さとりを睨んだ。その時だ。

「うわぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

突如、やや間の抜けた叫び声が遠くから聞こえてきた。次いで、慌ただしく小路を駆ける音。

何事かと一同が首を巡らせる間も無く、焦った声が飛んできた。

「どいてっ! どいてぇぇぇっ!」

警告の声も空しく、どしゃあっ! という人と人とがぶつかり、地面に転げる音がした。月明かりしか無い夜闇の中でもわかるほどに、派手な土煙がもうもうと立ち上がる。

隆善達が呆気にとられている間に、次第に土煙は引いていく。そして、視界が良くなってきた時、そこに見えたのは、地に倒れ伏す葵の姿だった。










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