平安の夢の迷い姫











13











『なるほど、良い手かもしれませぬ。ご案じ召されますな。葵様の知識は、正しゅうございますぞ』

「……ありがとう」

言うや否や、葵は懐に挟んであった灯火の符を取り出し、あらぬ方へと投げ捨てた。葵の姿が闇に掻き消され、土蜘蛛の視線が一瞬符に向かう気配がする。

しかし、その光もすぐに消えた。符の効果が切れたのだ。辺りは一面の暗闇となり、何ものも見る事ができなくなる。

ただ、がさごそという土蜘蛛が葵を探して動き回る音だけが聞こえた。

……いや、土蜘蛛の音だけではない。どこからか、こそこそと何かを唱える、囁くような声が聞こえる。

「疾く照らせ。急急如律令」

声が唱え終わるか終らぬかのうちに、ことりと、床を叩く音が聞こえた。土蜘蛛がぴくりと反応を示し、音がした方へと顔を向ける。

二枚目の灯火の符に明かりが灯った。土蜘蛛は、明かりへ向かって勢いよく糸を吐きかける。

だが、吐いた糸はいつまで経っても、何にも引っ掛からない。土蜘蛛は、苛立った様子で更に大量の糸を吐いた。糸はどんどん山を築いていき、せっかく灯った明かりが次第に弱くなっていく。それでも、土蜘蛛は灯りに向かって糸を吐き続けた。

「妖怪土蜘蛛も、やっぱり蜘蛛の仲間なんだね。明かりがあれば、そこに獲物がいると認識して、集中的に攻撃するんだ」

突如、土蜘蛛の上方から声が聞こえた。それに反応して土蜘蛛が振り仰ぐと、その瞬間、土蜘蛛の両眼に衝撃が走る。

ぐぉぉぉぉぉぉんっ!

両眼を傷付けられた土蜘蛛が、糸を吐くのも止めてもんどりうつ。その隙に葵は床に着地し、築かれた糸の山を力任せに薙ぎ払う。埋もれていた灯火の符が姿を現し、辺りは再び明るくなった。

「お前が俺だと思い込んだ音は、唐菓子を重しに包んだ灯火の符だよ。俺は暗い場所から、お前の隙を伺ってたんだ」

勿論、灯火の符が効果を現した瞬間に葵が近くにいれば、影が生まれて居場所がばれてしまう。唐菓子入りの符を放り投げた瞬間に野駆の術で一気に距離を取る必要があった。己でなければできない方法だろうと、葵は思う。

『葵様、今なら奴は隙だらけですぞ。すぐにとどめを刺しなさいませ』

「うん!」

懐から新たな符を一枚。ふっと息を吹きかけて、短刀の刀身に巻くように貼り付ける。

「疾く伸びよ! 急急如律令!」

叫びながら、野駆の術で走り、勢いをつけて宙に跳ぶ。くるりと宙で回り天井に足が着くまでの間に、短刀の刃は太刀よりも長く、葵の背丈ほどまで伸びてしまった。

その切っ先を土蜘蛛に向け、頭部目掛けて葵は思い切り天井を蹴る。勢いのついた刃は易々と土蜘蛛の頭を貫き、床板へと突き刺さった。

ぐぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!

絶叫が響き、土蜘蛛はしばし悶えた後に、どう、と床へ倒れ伏した。するとその姿は次第に薄れ、終いには儚く消えてしまう。後には、床に突きたった刀に縋り付く葵と、傍らで見守っていた暮亀が残された。

葵が符を剥がし取ると、刀身はあっという間に元の長さへと戻ってしまう。短刀のつゆを払い、懐紙で拭ってから鞘に納め。そこで初めて、葵はほう、と安堵の息を吐いた。

「……何とか、なったね……」

『お見事でございました。たかよし様も、此度は褒めてくれましょう』

「それは……どうだろう……?」

苦笑しながら、葵はきょろきょろと辺りを見渡した。まずは土蜘蛛の描かれている絵を回収する。横に大きく、朱墨のような色で済、と記されていた。

「済……?」

『どうやら、絵が現になってしまうのは一回限りのようでございますな。たしかに、加夜姫様のように絵空事を考える事がお好きな方は、同じ題目でもう一度考えるという事が苦手であるように思います。一度現と化した絵が調伏されればそれっきりというのは、道理かと』

暮亀の言葉に頷きながらも、葵は「けど……」と首を傾げた。

「前に化け鼠の絵を見た時は、こんな文字、出てこなかったと思うんだけど……」

『……となると、此度新たに浮き出るようになったという事ですな。……加夜姫様のお力が、次第に成長しつつあるという事でございましょうか……』

「……師匠、この先大丈夫なのかな……?」

渋い物を食べたような顔をして葵が唸っていると、暮亀がほっほっほと笑う。

『葵様、余裕でございますなぁ。もしや、既に契りを結んだ女人がおありでございますかな?』

「なっ……何言ってるのさ! いないよ、そんな人!」

耳まで真っ赤になりながら、葵はばたばたと両手を振った。その手の話題に慣れていない様子である。

「そっ……そんな事よりもさ、絵! 土蜘蛛に横取りされた絵も、早く回収しないと!」

声を裏返らせながら、葵は床に落ちていたもう一枚の絵に手を伸ばす。拾い上げて、絵を見て。そして、顔を強張らせた。

『葵様、どうなさいました? まさか、閨房の様子でも描かれておりましたかな?』

「……暮亀、これ……」

声を震わせながら、葵は暮亀に絵を差し出した。それを見て、暮亀も顔を険しくする。

『これは……』

もう一枚の絵にも、朱墨のような色で済、と記されていた。

「これ……どういう事だと思う? この邸に飛んでくる前に、どこかで現になったって事? それで、師匠か、陰陽寮の誰かに調伏された……?」

『その可能性も無くはありませんが、楽観視しない方が良いでしょう。そもそも、このように大きく朱で書かれた文字、いくら夜闇の中と言えど、そう簡単に見落とすとも思えませぬ。葵様、この絵を見付けた時、回収しようと跳ばれた時、土蜘蛛の傍に落ちているのを認めた時。そのどれかで、この文字が書かれているのを見られましたか?』

葵は、首を振った。

「見なかったと思う。……勿論、絶対じゃないけど。けど、そうなると……」

言い掛けて、葵ははっと息を呑んだ。風の渦巻く音がする。……いや、風を切る音がする。

『葵様、お下がりくだされ!』

暮亀に言われるまでもなく、葵は咄嗟に後へ身を引いた。とたん、ひゅん、という風を切り裂く音がし、室内に烈風が巻き起こる。

「うわっ!?」

思わず袖で顔を覆う。……と、布を短刀で一気に切り裂いたような音がして、水干の袖が半分ほど裂けてしまった。

「え!?」

驚いている間にも風はどんどん吹き付け、水干の袖が、袴が、切り裂かれていく。物がたくさん収まっている懐は何とか守ったが、その分余計に袖が切れてしまう。

『この風に、この着物の切れ方……』

暮亀が、風の吹いてきた方角をきっと睨み付けた。式神である故か、葵ほど風の影響を受けていない。

暮亀の視線の先に、鼠のような獣の顔が、一瞬浮かんで消えた。暮亀の顔が、一層険しくなる。

『今のは……鼠。……否……鼬でございますな』

「鼬? じゃあ、やっぱりこの風……」

鎌鼬。風に音を掻き消されたが、葵の唇はたしかにそのように動いた。先ほど葵が手にした絵にも、やはり風のような線に囲まれた鼠の顔が描かれている。

人や物を切り裂く風の妖、鎌鼬。風が相手では、術も刀も使えない。目標が定まらないし、そもそも刀はすり抜けてしまう。せめて、先ほど一瞬だけ見えた鼬の顔が姿を見せてくれれば良いのだが。

「……俺、これとあともう一枚しか持ってないのに……」

無残に切り刻まれた水干を恨めし気に眺めるが、そうしたところで元の姿には戻らない。

『そんな事よりも、葵様』

「そんな事って……」

『いえ、本当にそんな事でございますぞ。このままでは危のうございます。一度、邸の外へ出られた方が良いかと』

「……え?」

言われて、葵は辺りを見渡した。鎌鼬の強烈な風が、邸の柱をがりがりと削り取っている。このままでは柱が折れ、邸が崩壊するのも時の問題だ。いくら常日頃から「早く取り壊してくれないかなぁ」などと考えていても、己が中にいるうちに崩れ落ちられても困る。加えて、灯火の符の光がまたも弱々しくなってきている。効果の切れる時が、近い。

風が、またもや強烈に葵に襲い掛かった。葵は「うわっ!」と叫びながら階に駆け寄り、転げ落ちるように外に出る。地面に体を強かに打ち付けたところで、またも風が襲ってきた。

「どうしよう、暮亀! 今のところ、まだ怪我するほどの攻撃は仕掛けてこないけど、このままだと俺、着物が布の切れ端になって京を歩けなくなっちゃうよ!」

『たかよし様に褒められるどころか、京を騒がすなと半殺しにされそうな話でございますな。……致し方ありませぬ。ここは一旦退きましょう。遠き唐土の書にも、三十六策、走るが是れ上計なり、との記述があるという話にございます。退く事は決して、恥ではございませぬぞ!』

無論、葵に逃げる事への抵抗は無い。むしろ、この状況ならば積極的に逃げたいところだ。暮亀の助言が、背を押してくれるようでありがたい。

「……けど、どこへ? 鎌鼬が追ってくるとしたら、下手なところへは逃げ込めないよ!?」

どこかの邸が鎌鼬に切られて崩れでもしたら、それこそ大惨事だ。

『この場合、一箇所しか考えられぬでしょう。たかよし様です。今から私が、惟幸様の形代の気配を探します故……惟幸様と共にいるであろう、たかよし様と共に何とかするしかございません!』

「……そうだね。……怒られるだろうなぁ……」

肩を落とす葵の近くで、雑草がすっぱりと切り取られた。ぎょっとして振り向けば、また一瞬だけ鼬の顔が視界を過ぎる。しかし、すぐに消えてしまって術で攻撃するに至らない。

「……早く行こう。このままだと、本当にまずいかも……!」

立ち上がった傍で、また草が切り払われる。葵はごくりと唾を呑み、慌てた様子で何事かを囁くように呟いた。野駆の術だ。

また草が切り払われたのを合図にしたかのように、葵は走り出す。傍でまた草が切れる。切れる。切れる、切れる、切れる。

間違いない。鎌鼬は、葵を追ってきている。また草が切れた。ついでに、袴の裾も少しだけ。

「うっ……うわわわわぁぁぁぁぁっ!」

間抜けな声を発しながら、葵は駆ける。門を出る。門の一部が削り取られる、鈍い音がした。気になるが、振り向けない、振り向かない。振り向けばその分、速さが落ちる。速さが落ちれば鎌鼬に追い付かれ易くなり、着物を切り刻まれてしまう。葵の着物は既にずたぼろだ。これ以上切られるわけにはいかない。

『ここまで来ると、いっそ殺してくれといったところでございましょうか。……いやはや、加夜姫様も、酷な物をお考えになる。……いや、そもそも加夜姫様があんな物を思い付いてしまったのは、誰かが鎌鼬の知識を加夜姫様に与えてしまったからでございますな。教えた可能性があるのは、やはりたかよし様でございましょうか……』

「その可能性があり過ぎて笑えないよ! 師匠の馬鹿ーっ!」

証拠も無いまま隆善を責める言葉を発してしまう程度に、葵の余裕は失われている。そのすぐ後で、路傍の石がびしりと音を立てて砕けた。どうやら、石をも切れる切れ味らしい。

悲鳴をあげながら、葵は走る。その姿を追いながら、暮亀がふと思案顔になった。

『……加夜姫様の手元には、風に飛ばされなかった絵が残っていた筈……。妙な物が描かれていないと良いのでございますが……』

暮亀の呟きは、必死に逃げ続ける葵には聞こえない。ただひたすら、夜の京を全力で走り続けた。












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