平安の夢の迷い姫











12











『! 葵様! 足下に!』

「えっ!?」

気付いた時には、もう遅かった。幾筋もの白い糸が蛇のように蠢き、葵の足を絡め捕る。左足を引っ張られ、均衡を崩した葵の体は、どうと床に倒れ込む。

「つっ……!」

一瞬呻く間にも、白い糸は暴れ回り、葵の体に更に絡まり、葵を奥へと引きずり込もうとする。

『葵様、余計に絡まりますぞ! それ以上は動いてはなりませぬ!』

「そんな事言われたって!」

叫ぶ間にも、葵の体はどんどん奥へと引きずられていく。引きずられた部分だけ埃が拭われ、床の板が剥き出しになった。

引きずられていく葵に、暮亀は駆けて追い縋る。老翁とは言え式神である暮亀が駆けねば追い付けぬほど、葵を引きずる糸の力は強く、速い。

西対屋から渡殿、渡殿から寝殿まで引きずられ。寝殿から外へ降りるための階の前で、ようやく糸の動きは止まった。

正面には、往時に主が坐していたのであろう畳や几帳が、朽ち果てた姿でそのままに置かれている。畳の横に見える塗籠は、いつだったか付喪神の巣窟になってしまっていた。気の良い付喪神が多く、この邸に関わった内で唯一の愉快な記憶だ。

その、畳や塗籠よりも、更に奥。几帳で隠されている、北対屋があるであろうそこから、嫌な気配がどろどろと伝わってくる。糸も、そこから伸びているようだ。

がさりごそりと、音が聞こえてくる。その音は、次第に大きくなり、葵達に近付いてくる。

暮亀が葵の帯に挟み込んだ短刀を抜き取り、急ぎ葵に絡み付いた糸を切り離した。葵は灯火の符を短刀の代わりに帯に挟み込むと、暮亀から短刀を受け取り、気になる糸を全て切り離していく。

その間にも、音はどんどん近付いてくる。

がさり、ごそり。

がさり、ごそり。

がさりごそり。

がさがさごそごそ。

がさがさがさがさがさごそがさがさがさがさがさがさがさがさがさがさごそがさがさがさがさごそがさがさがさがさがさがさがさごそがさがさがさがさがさがさがさがさがさがさがさごそがさがさがさがさがさがさがさがさがさがさごそがさがさがさがさがさがさがさがさがさごそがさがさがさがさがさがさがさがさごそ。

ばりばりという音がして、几帳が踏み倒される。舞い上がる埃に一瞬視界が隠され、そしてそれはすぐに埃の幕を切り裂いて現れる。

巨大な蜘蛛だ。だが、蜘蛛と判断できる要素は、その八本の足しか無い。

鬼を思わせる顔をしている。虎のような、黄金色と黒の縞になっている胴体を持っている。

その姿は、葵達、鬼や妖に関わる者達の中では、知らぬ者の無いほど有名なものだった。

「あれって、まさか……土蜘蛛!?」

葵の顔が青褪める。横では暮亀が、苦虫を噛み潰したような顔をした。

『あの禍々しい姿に、この糸……間違いはございませんな。あれはたしかに、妖怪土蜘蛛と思われまする。……しかし、土蜘蛛は本来山に住まう妖……。何故このような場所に……』

「……ひょっとして、なんだけどさ……」

恐る恐る、葵は糸の塊を指差した。先ほどまで己を絡め捕っていた、土蜘蛛の吐き出した恐るべき糸だ。

糸の先には、土蜘蛛。その足元に、紙が二枚、落ちている。見覚えのある紙だ。恐らく、一枚は先ほど、葵が横から掻っ攫われた加夜の絵。そして、少々破れてしまっているもう一枚も恐らくは……。

『……加夜姫様、〝瓢谷隆善、土蜘蛛退治之図〟でも思い描かれましたのかな? なんともはや……』

「この邸には、絵が二枚飛んできていたんだね。……もしかしたら、他にもあるのかもしれないけどさ。それで、俺達がこの邸に着くまでの間に、土蜘蛛が現になってしまった……」

『己と同じく、加夜姫様に描かれた絵を仲間と思い、葵様から助けたつもりなのか。それとも、単に葵様をおびき寄せるために、あの絵を横取りしたのか。……判じ難いですな』

「どっちでも良いよ」

緊張感を隠しきれない声で言いながら、葵は短刀を土蜘蛛に向けて構えた。

「とにかく、まずはこの土蜘蛛を調伏しないと。暮亀、土蜘蛛に何か……弱点とかは無いの?」

『弱点、ですか。ふぅむ……』

軽く唸り、暮亀は顎鬚を馬手でねじりながら考えた。過去の事象を思い起こしたのか、細い目が更に細くなる。

『過去に、源頼光殿が土蜘蛛に遭遇し、これを討ち取っておりますな。かの有名な頼光四天王が一人、渡辺綱殿と共に、刀で滅多斬りになされたとか』

「……暮亀。それ、弱点って言わない……」

情けない声で、葵は非難の言葉を発した。葵の手にあるのは、刃渡りが一尺にも満たない短刀一振り。成長途中な上に武人として鍛えているわけではない体に、筋肉はあまりついていない。とてもじゃないが、偉大なる先人の討伐方法を真似る事はできない。

「……となると、ここはやっぱり、術と工夫で何とかするしかないね」

言いながら、葵は帯に挟み込んだ灯火の符にちらと視線を遣った。若干だが、使い始めた頃よりも灯りが弱くなっている。この分だと、効果を失うまでの時は残り僅かだ。

先に攻めるが勝ちだと言わんばかりに、土蜘蛛が糸を吐きかける。葵は数珠を巻きつけた左の腕を、じゃらりと音をさせながら宙に上げ。咄嗟に短刀を放り上げた。右腕も上げて印を切る。

「臨める兵、闘う者、皆陣列ねて前に在り!」

邸の中だというのに強烈な風が吹き荒れ、結界のように葵を土蜘蛛の糸から守る。土蜘蛛が糸を吐き切ったところで風は止み、葵は落ちてきた短刀を馬手で掴み直すと、勢いを殺されて落ちてくる糸の塊を切り裂いた。ばらばらと音を立てて、糸が床に落ちる。

油断する事無く短刀を構え直して土蜘蛛を睨み付け、葵は緊張から臓腑に溜まり込んだ息を吐いた。短刀に絡み付いたままの糸が、ほんの少しだけある。灯火の符の光を受けてほの白く輝くそれは、鉄でできているかのようだ。

『流石は、妖怪土蜘蛛。敵ながら、目を奪われる糸にございますな』

「……それなんだけどさ、暮亀」

目は土蜘蛛に向けられたまま、葵は声を発した。どこか、不思議そうな響きを帯びている。

「土蜘蛛って、人を喰らう妖だよね? それも、自分から目を付けた獲物のところへ近寄って、絡め捕って食べてしまうっていう……結構積極的な妖だったと思うんだけど……」

『左様でございますな。先の源頼光殿も、人の姿に変じた土蜘蛛が己から仕掛けてきたと聞き及んでおります』

頷く暮亀に、葵は「けど……」と言葉を続けた。

「この土蜘蛛、そこまで積極的に仕掛けてこないよね? 最初のうちこそ、絵を横取りして俺をおびき寄せたり、糸で絡め捕ってここまで引きずり込んだりしたけど……姿を見せてからの動きが、妙に愚鈍な気がする」

一息に襲い掛かって来るでも無し。糸も切られたらまたすぐに新しく吐けば良いものを、動きを止めてしまっている。まるで、これ以上戦う事を躊躇っているかのようだ。

暮亀は髭をねじり、ふむ、と唸った。

『先日、惟幸様が仰っておりました。加夜姫様の心が穏やかである限り、加夜姫様の力が生み出したもの達は加夜姫様も、他の誰も、傷付けたりはしない、と。それに、たかよし様も、加夜姫様が生み出す夢の産物は、人を傷付けないと仰っていたようですな』

葵は納得したように、微かに首肯した。

「……だから、あの土蜘蛛もあまり攻撃してこない? 加夜姫様の心が、穏やかだから?」

『そのように考えるのが、今のところは妥当でございましょうな。ですが、それならば早いところ絵の回収を進めなければなりますまい。絵の回収が遅れれば遅れるほど、加夜姫様の御心は不安に揺れ動く事となりましょう。さすれば、穏やかさを失った加夜姫様の心を受けて、現と化したもの達が凶暴性を帯びるやもしれませぬ』

「うん。……かと言って、簡単に調伏させてもくれなさそうだよね。傷付けはしなくても、攻撃はしてくるし……」

『そこは、葵様の修業の成果の見せどころでございましょう?』

こくりと頷き、葵は懐の中へ手を差し込んだ。ごそごそとまさぐっているうちに、何事もさせじと言うように土蜘蛛が動き出す。

葵が、短刀を鞘に納めて帯へ挟み込んだ。手は懐に差し込んだまま、小さな声で暮亀を呼ぶ。

『何でございましょう?』

落ち着いた顔のまま、暮亀は耳を葵に向かってそばだてる。顔は土蜘蛛に向けたまま、葵は「あのさ……」と囁いた。

「一応、確認。土蜘蛛に限らなくても良いんだけど、蜘蛛ってさ……」

言いながら、懐の中身をちらりと暮亀に見せる。言わんとする事が通じたのだろう。暮亀は、ふむ、と頷いた。










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