平安陰陽騒龍記 第三章
21
『ぬかった! 少し考えれば……いや、考えずともわかる事だろうに!』
大路を駆ける葵――今は穂跳彦の内で、荒刀海彦が辺りをはばからずに荒れ狂っている。……と言っても、葵と末広比売、勢輔は鬼女の呼びかけによって忘我状態。その様子を見ているのは、穂跳彦と鼠だけだ。
『穂跳彦、もっと速く走れないのか!? このままでは追い付けん!』
「走れなくはないけど、これ以上速度を増せば葵の命に係わるかもしれないからさ。追い付けないけど、姿は見失わずにいる。これが、今の葵の体で出せる最高速度だよ。……言っとくけど、刀海のおっさんに替わる事はしないからね。その様子だと、うっかり葵の体調考慮せずに爆走かましそうだし」
穂跳彦の回答に、荒刀海彦は「くそっ!」と毒づいた。その剣幕に、鼠がおろおろと慌てふためく。
『ちょっ……荒刀海彦の兄さん、落ち着いてくだせぇ!』
『これが落ち着いていられるか! 我が娘が、目の前でかどわかされたのだぞ!』
『いやでも、元々そういう作戦だったじゃねぇですか! それとも、何ですか? 荒刀海彦の兄さんは、弓弦嬢ちゃんは呼びかけに応じないだろうと、そう考えてらしたって事ですかい?』
鼠の言葉に、荒刀海彦がぐっと言葉を詰まらせる。どうやら、半ば図星のようだ。荒刀海彦への対処は鼠に任せて、穂跳彦はただ駆ける。
葵の体調を考えると、やはり女木邸で待機していた方が良い。だが、それでは何かあった時、葵も荒刀海彦も納得しないだろう。だから、弓弦の後を追って、そばから離れる事だけはないようにしておきたい。
『……あぁ、心の奥底ではそう思っていた。我が娘は、強い娘だ。鬼女の呼びかけに惑わされたりはしないだろう、と……』
だが、現実は違った。
弓弦は鬼女の呼びかけに応じるように忘我状態で歩き始めてしまい、そして今、それを穂跳彦達が追っている。
『思えば、私が命を落とし竜宮に帰らなくなった時、娘はまだ生まれたばかり……。私がいなくなった事で、あれの母親にも苦労をかけた事だろう。あの気丈な娘であれば、母親が忙しく寂しい想いをしていたとしても、悟られぬよう堪えていたであろう事に……私は何故気付かなかった!』
『そりゃ、弓弦嬢ちゃんが気付かれないようにしていたからでございやしょう? それに、お話しを伺う限り、こっちに来てからは葵の旦那や他の皆々様とご一緒で、時には父親である荒刀海彦の兄さんとも言葉を交わす事ができる。少なくとも、こちらでは寂しくなんかなかったんじゃございやせんか?』
だが、皆の推測では、鬼女の呼び掛けには母親の愛情に飢えている者がかかりやすい。葵と同じく、弓弦も寂しい想いはせずに済んでいたが、母親の愛情だけは不足気味だったのかもしれない。
『それでも気付いてやるのが、親の務めではないのか!』
『完璧な親なんてこの世に一握りしか存在しやせんよ! 完璧であろうとして、ご自分を責めちゃ駄目でさぁ! 気付かなかったのが不覚なら、今から取り戻せば良いじゃありやせんか! 不幸中の幸い、弓弦嬢ちゃんは忘我状態になっちまっただけで、怪我をしたり死んじまったりしたわけじゃありやせん! 鬼女をなんとかして、葵の旦那達共々弓弦嬢ちゃんを元に戻して! それから今まで構ってやれなかった分を取り戻せば良いじゃありやせんか!』
鼠の言葉に、荒刀海彦は黙り込む。それを横目に、穂跳彦は極力音が出ないよう気を付けつつ、ひゅうと口笛を吹いた。
「刀海のおっさんが弓弦を思いっ切り構う、ねぇ……。それって当然、葵の体でやるんだよなぁ……?」
にやにやしながら言う穂跳彦に、並走していた虎目は呆れた顔をする。
「そう言う穂跳彦も、葵の顔でにやついて、葵のイメージを大分ぶっ壊してるけどにゃー……」
「まぁまぁ、固い事言いなさんなって」
軽く返しながら、穂跳彦はちらりと後ろに目を遣った。
葵の体は満身創痍状態だが、兎の神霊である穂跳彦が表に出ているため、通常の葵とほぼそん色ない速さで走る事ができている。ただし、この後更なる疲労と筋肉痛は免れまい。
その横を並走する虎目も、猫だからか夜道に強い。また、本気を出しているのか四足で走っている。
少し遅れてついてくるのが、紫苑と惟幸、そして盛朝。紫苑はそれなりに運動神経が良いはずだが、流石に夜道を走るのは少々骨が折れるらしい。山歩きで足腰を鍛えている上に夜道も慣れている筈の惟幸と盛朝が穂跳彦に後れを取っているのは、二十も離れた年の差故だろうか……。
そして、隆善と栗麿に至っては、姿が見えすらしない。……と言うか、そもそもこの二人は女木邸を出ていない。
出掛けに穂跳彦に投げかけられた隆善の言葉曰く、昼間から霊的な作業を行ったり、鬼女が出入りしていたりで、今あの邸は非常に鬼が出入りしやすい状態となっている。それを防止するために残るとの事だ。
そして、栗麿がいると何をやらかすかわからないから、葵達と共に行かすわけにはいかない、と首根っこを掴んで引き留めていた。
加えて、隆善は何かあった時の中継地点となる者がいる必要がある、と考えている。何かとは具体的に何か、と問われると答えにくいようだが、とにかく相手の力は未だはっきりと解明できたわけではない。有事に備えて、拠点となる者がいた方が良いのはたしかだろう。
「……本当は、隆善も追ってきたくて仕方無いだろうにねぇ」
何だかんだで、彼も葵の事を可愛がっているし。共に暮らし始めて、弓弦にも情が湧き始めているだろうから。
穂跳彦がそう言うと、虎目が「にゃー……」と唸った。
「それ……絶対に隆善の前で言うんじゃにゃーぞ……」
呆れた顔で呟いてから、虎目はきょろきょろと視線を動かし、辺りの様子を見る。
「……この前と、向かってる先が違うにゃ……」
「うん……こないだはあの邸から北西に向かったけど、今夜は南東に向かってる。……って事は……」
「向かう先は、鳥辺野……かな?」
追い付いてきた惟幸が、険しい顔で呟いた。女木の邸から見て南東……京を出て東に向かうと、そこには鳥辺野がある。先日の化野と同じく、葬送地として人々に利用されている土地だ。
鬼女を構成しているのは、神馬とはいえ一度は死んでいる馬の魂魄と、同じく死んでしまった女神の荒魂。それが葬送地を拠点とするのは、ごく自然な事であるように思われた。
「鳥辺野か……。たしかに、その可能性は高いかもな」
頷き、穂跳彦はどこかほっとした顔をする。行き先の予測が立っただけでも、大分気持ちが楽だ。例え弓弦を見失ってしまっても、そこに行けばまた見付ける事ができるのだから。それに、体力の配分も考えやすい。
少なくとも、どこへ行くのか、どれだけ走れば良いのかもわからないまま、夜道を走り続けるよりはずっと良い。
恐らく、荒刀海彦と鼠も少しだけ安心できたのだろう。体内に張りつめていた空気が、少しだけ緩んだのを穂跳彦は感じた。わかりやすく言うなら、体内でもやもやと燻っていた物が少しだけ晴れた心境か。己以外の魂魄を持たない者なら、きっとそう表現しただろう。
「化野にしろ鳥辺野にしろ、多くの死者が眠る葬送地だ。彷徨う魂魄も、それや死骸を狙う鬼妖もたくさんいるはず。心を平静に保つんだよ」
惟幸の言葉は、誰に向けられたものか。皆が頷き、己を戒め、気を引き締める。真の主不在の葵の体内でも、荒刀海彦と鼠が顔を険しくしながら頷いた。
眼前でぎりぎり視界に捉えられている弓弦は、相変わらず京の東へ向かって走って行く。いつの間にか京のそこかしこから現れた子ども達もだ。
彼女らを見失わないように――しかし決して焦ったりしないよう心がけながら、一同は走る。
やがて彼らは京を抜けて鴨川を越え、湿った臭いが鼻を突き始める。その臭いを嗅いだ盛朝が、月明かりだけが頼りとなる場でもわかるほどに顔を険しくした。
「暗くてよく見えないが……この空気と、走った距離から考えて、恐らくここは、六波羅あたりだろうな。……鳥辺野まで、あと少しだ」
鳥辺野が、近い。盛朝のその推測は、恐らく当たっているだろう。
湿った空気の中に、時折黴と錆が混ざったような臭いが紛れ込んでいる。鳥辺野で鳥葬にされた亡骸の臭いかもしれない。
夜だというのに、ぎゃあぎゃあと鳥の鳴き声が聞こえる。晒された死骸を貪っているうちに、鬼妖と化し夜でも活動する烏でも生まれたか。
ここは既に、時と場所、共に鬼の領域。生きた人間が足を踏み入れる場ではない。
だが、そうも言っていられない。紫苑と惟幸は数珠と呪符を取り出し、盛朝は太刀の柄に手を掛ける。いつでも戦闘に移る事ができる三人と、それに守られるように三人の後ろに下がった葵――穂跳彦と虎目。
皆は頷きあうと、鳥辺野の中心地を目指して一気に駆け出す。
生臭い風が、ゆるりと彼らの袖を揺らした。