平安陰陽騒龍記












20














井戸の中から、強烈な水柱が立ち上がる。そこから散らされた飛沫は、その場にいる者達に敵味方関係無く降り注いだ。そして、飛沫を浴びた蛇達は次々に力を無くし、動きが鈍くなっていく。

「何、コレ。どうなってるの? ……って言うか、葵は!? 葵はどうなっちゃったの、ねぇ!?」

「落ち着くにゃ! 今は、急いたところでどうにゃるわけでもにゃし……まずは現状の確認! それしかにゃいにゃ!」

虎目に言われ、紫苑は頷いた。そして飛沫が降り続ける中空を見上げ、井戸の位置を確認すると、そこへ向かって駆け出した。蛇達が動かなくなったため、道を阻むものは無い。

「弓弦ちゃん、葵は!?」

先から井戸端にいた弓弦に向かって、出来得る限り冷静に、紫苑は問う。すると弓弦は、険しい表情で「わかりません……」と呟いた。

「飛沫と、強力な神気に阻まれて……井戸の中を明確に見る事ができないのです。ですが……」

「ですが?」

少しだけ、困った顔をして。そして、戸惑う様子を見せながら弓弦は水柱を見上げた。

「この水柱から溢れる、強烈な神気に……何やら覚えがございます。この気は、もしや……まさか……」

弓弦の言葉が終わらぬうちに、水柱が破裂した。先ほどまでは霧雨のように降り注いでいた飛沫が、滝のように変貌して辺りを濡らす。

そして、水柱が消えた中空には、一つの影があった。

それは、人の形をした影だった。水干をまとった、十五かそこらの少年に見える大きさの、人の影。そこまでの情報を与えられたら、その場にいる者達が連想するものは一つしか思い当たらなかった。

「葵!?」

「無事だったにゃ!?」

「葵様……!」

その声に、ゆっくりながらも影は声を発した。

「……あ……ゆ、づる……? しおん、ねえさん……とらのめ……?」

その声は、確かに葵の物で。宙に浮いているという異常事態ながら、葵の無事を確認できた事に紫苑と虎目はホッと息を吐いた。

だが、弓弦の顔は険しいままだ。

「……葵様……?」

恐る恐ると言った体で、弓弦が声をかける。その声に、異常を感じ、更に己が宙に浮いたままという事に気付いたのか。

「え? ……え!? 何だよ、これ……」

唖然として辺りを見渡し、そしてジタジタともがいた。その動きや声音からは、先まであった気だるさや苦しさが消えている。その代わり、焦燥感はあるようだが。

ジタジタともがいたからか、それともその時節だったのか。葵の身体は次第にゆっくりと降下し始めた。

地面が近付いてきた事で安心したのか、葵は次第に心が落ち着き始める。冷静になって怪我が無いか自らの身体を見渡した。

また、葵が降下してきた事で、地上にいる弓弦達は葵の姿をはっきりと認識できるようになりつつある。二人と一匹は、葵に怪我が無いか……目を凝らして、葵の姿を見詰めた。

そして、両者が同時に眼を見開いた。

鱗が、全身にびっしりと生えている。

弓弦の腕に生えている物と、同じ。瑠璃のように青くて、綺麗な鱗。ただし、弓弦の鱗よりも少しだけ深く暗い色をしているようにも思える。それが、腕に、足に、顔に。露出している肌全てに生えている。恐らく、背にも生えているのだろう。

目は、弓弦ほどぎょろりとはしていない。だが、それでもいつもより目付きが悪くなっている。色も、黒から金へと変じている。

爪や歯も、伸びて鋭くなっているように思う。肉食獣とまではいかないが、これで引っ掻かれたり噛みつかれたりしたら、軽傷では済まないだろう。

「何、これ……どうなってんの!?」

声は葵の物だ。顔も、よく見ればちゃんと葵だし、遠くから見ればその姿は葵にしか見えない。

なのに、今弓弦達の前にいる葵は葵のようには見えなくて。

「ふぅむ……気配は、確かに葵だにゃ。けど、葵だけじゃにゃい……」

「うん。別の何かの気配も感じるね。……葵の中に、何か、いる……!」

緊迫した面持ちで言葉を交わす紫苑と虎目の横で、弓弦は呆然と葵の姿を見詰めている。……いや、見詰めているのは姿ではなく、更にその内にある物であるようにも見える。

「葵様の中で息衝いているこの気配……先の水柱から溢れ出てきた強烈な神気と同質のこれは……やはり……!」

その時、井戸の陰で何かが動いた。

蛇だ。陰に隠れる事で井戸水の飛沫を浴びずに済んだのか、他の蛇達と違い今まで通りに動けている。

その存在に、弓弦達はまだ気付かない。蛇の視線が、弓弦の首元を捉えた。蛇はチロチロと赤い舌を出し、そして大きく口を開けた。

「! 弓弦!」

真っ先に気付いたのは、まだ少し浮いた状態で弓弦達を見下ろしていた葵だった。一匹の蛇が弓弦に向かって飛び掛かる姿を視界に捉え、思わず叫ぶ。

「!」

葵の声で、弓弦も気付き振り向いた。だが、反応が遅い。右手を振り上げるが、わずかながらに間に合いそうにない。

葵は必死に右手を伸ばす。体が傾き、足よりも頭が地面に近くなった。だが、それでも手は弓弦を救えそうにない。

(駄目だ……駄目だ! このままじゃ、弓弦が……!)

そこから先は、何をどうしたのか、葵は覚えていない。ただわかる事は、気付けば口が勝手に開いていた。そして。

「喝!!」

ただ、ひたすらに大きな声で叫んでいた。稲妻が落ちたのではないかと勘繰りたくなるほどに、大きな声だった。

紫苑と虎目は思わず耳を塞ぎ、弓弦はビクリと体を強張らせた。ビリビリとした気が大気を渡り、波となって押し寄せる。

声の波動で、弓弦に襲い掛かろうとしていた蛇は吹っ飛ぶ。他の蛇達も、地に縫いつけられたようにぺしゃりと這いつくばった。

「すごっ……葵、今何やったの!?」

「何って……」

首を傾げながら、葵は地面に降り立った。先ほど体勢を崩したせいで、地に足がついた瞬間に転びそうになったが、何とか堪えた。

葵がきちんとした体勢で立ち、三人と一匹がやっと落ち着いて話せるようになったところで、葵達は早速話を切り出した。相手は勿論、弓弦である。

「弓弦……訊いても良いかな? あの井戸は、何なのか。……弓弦は、何者なのか」

「どっちも気ににゃるけどにゃ。オイラとしては、まずあの井戸の事を教えてもらいたいにゃ」

「そうだね。どうして葵がこんな姿になったのかも気になるし……ボクもまず、井戸について聞かせて欲しいな」

そう。葵の姿は、未だに鱗がびっしりと生えたままだ。普通の井戸なら、落ちただけでこんな事にはならない。弓弦も、井戸に突っ込んだ腕に鱗が生えている。

そして、蛇達が大人しくなるほどの神気を含んだ水。どう考えても、この井戸には、何かがある。

弓弦は目を閉じ、少しだけ考えると頷いて目を開けた。開けた目は、黒い色に戻っている。見れば、袖から覗く白い手や腕からも、鱗が消えていっている。

「そうですね……こうなってしまった以上は、事情をお話しするしかないでしょう。実は……」

そう、弓弦が話し始めようとした時だ。

「ふぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」







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