平安陰陽騒龍記

















草を掻き分け、急なこう配を息せき切って駆け上がる。そうして葵達が辿り着いた小山の頂では、先ほどのあの黒い影が、連れ去った少女を眼前に横たえ、じっと佇んでいた。

グルル……と喉を鳴らすその姿は、狼のようで。黄昏時の夕闇に染まり、異様な威圧感を醸し出している。今にも襲いかかって来そうなその気迫に、虎目が思わず後ずさった。

「にゃにゃ……あの馬鹿が作った式神にしては、結構にゃレベルじゃにゃーか……」

「そうだね……けど、あの子は今のところ無事みたいだ。傷一つ無いのは、不幸中の幸いかな?」

虎目が、ふむ……と難しそうに唸った。解せぬ、という顔だ。

「にゃんか、おかしいにゃ。あの式神、さっき葵には一目見た途端に襲い掛かってきたにゃ。にゃのに、にゃんであの娘には襲い掛かろうとしにゃいのか……。それに、あんにゃ草むらや木の群れの中を連れ回されて、かすり傷一つ無(にゃ)いのも……」

「そんな事、考えるのは後で良いよ! とにかく、早くあの子を助けないと!」

叱咤するように、葵は虎目を見た。その一瞬の隙をつき、先手必勝と言わんばかりに黒い影――式神は地を蹴り、葵に襲い掛かってくる。

「! 臨(のぞ)める兵(つわもの)、闘う者、皆(みな)、陣列(つら)ねて前に在(あ)り!」

殺気を感じた葵は素早く九字を唱え、目の前で印を切った。すると、大きな口を開けて今にも葵に齧り付かんとしていた式神と、葵の間に目に見えぬ壁のような物が発生したように感じられた。パン、という張りつめた音が聞こえたような気もする。

式神はそれに攻撃を防がれると、くるりと宙で体勢を整え、着地する。

「すご……狼みたいな見た目なのに、動きは猫みたいだ……」

「……あの馬鹿。式神の媒介に何を使ったのか……今度会ったら、ゲロを吐くまで問い詰めてやる」

物騒な事を呟きながら、虎目は視線を辺りへ配る。葵に気を取られているためか、式神は件の少女から距離を取っている。葵も、それに気付いたらしい。

「虎目! 俺がこいつの気を引き付けてる間に、あの子をお願い!」

「わかったにゃ!」

頷き、虎目は少女の元へと走る。そして、少女を見る。

歳は、十二かそこらだろうか。目が覚めるほど鮮やかな青の袿をまとっている。意識を失っているらしく、ピクリとも動く様子が無い。

虎目は、少女の顔をジッと凝視した。だがやがて、細められていた目が次第に丸くなっていく。

「どういう事だにゃ……。この娘は……」

何事かを言おうとしたところで、葵が勢い良く突っ込んできた。どうやら、式神の攻撃を避けたまま体勢を崩してしまったらしい。

「……葵。気を引きつける役目の奴が、こっちに来てどうするにゃ……」

「ごめん! あいつ、見た目以上に速くて……」

言い訳しいしい謝るも、葵の視線は虎目達には向けられていない。それもそのはずだ。すぐ目の前に、式神が迫ってきている。

葵や虎目に、少女を一人抱えて走れるほどの力は無い。少女が目を覚まさない限り、撤退は不可能だ。ならば、攻撃を防ぎつつ、反撃の機会を待つしかない。

式神が葵達に踊りかかった。葵は、慌てず九字の印を切る。

「臨める兵、闘う者、皆、陣列ねて前に在り!」

見えない壁が現れて、式神の攻撃を防ぐ。だが、一度同じ術で防がれた事で学習してしまったのか。式神は防がれても、間髪入れずに何度も何度も踊りかかってくる。

「……っ!」

術を重ねがけするように、葵は何度も九字の刀印を切る。だが、それでも式神は諦めず、何度も何度も襲い掛かってくる。しかも、術によって生み出された式神は疲れを感じるという事が無い。このままでは、印を切り続ける葵の方が先に精魂果ててしまう。せめて、後で横たわる少女が、意識を取り戻してくれれば……。

「……ん……」

葵と虎目の思いが天に通じたのか。少女が、少しだけ息苦しそうに身じろいだ。やがて少女の目蓋は上がり、吸い込まれそうなほどに澄んだ黒い瞳が現れる。

「気が付いた!? ……おい、大丈夫かにゃ!? 動けるようにゃら、早いトコここから……」

虎目の呼び掛けには応えず、少女はぼおっとした顔付きで上体を起こし、辺りを見渡した。

目の前には喋る猫がいて、すぐ近くでは見知らぬ少年が狼のような黒い影と対峙していて。普通の女性なら、悲鳴をあげて再び意識を失ってしまいそうな場面だ。

だが、少女は悲鳴をあげなかった。

相変わらずぼおっとしているが、それでも少しだけ意識が引き締まった顔をして。少女はすくりと立ち上がった。そして、真剣な表情で九字の印を切り続ける葵と、それに向かって何度も襲い掛かってくる式神をジッと見詰めた。

その視線に、式神が一瞬、ビクリと身体を強張らせた。その一瞬の隙を、葵は見逃さない。

「今!」

鋭く叫ぶと刀印を切っていた手に数珠を握り、それに対して祈るように神妙な表情で叫ぶ。

「ナウマク、サンマンダ、ボダナン、オン、マリシエイ、ソワカ! オン、アミリトドハンバ、ウムハッタ!」

真言が唱え切られたその瞬間、見えない何かが、式神に襲い掛かるのが葵にはわかった。式神は低い唸り声をあげ続け、やがて消滅する。後には、憑代に使ったらしき獣の毛が幾筋か。それも、風に流されていずこかへと消えていった。

葵はホッとすると、そこで初めて、少女が意識を取り戻し自らの足で立っている事に気が付いた。

「……あ。その……大丈夫? 怖くなかった? 怪我は?」

「葵、一気に訊いても、相手が混乱するだけにゃ」

虎目に言われ、葵はバツが悪そうに頭を掻いた。その様子に、特に表情を変える事も無く。少女は言う。

「……怪我は無いようですし、意識を失っておりましたので、恐怖を感じた覚えもございません。……ですが……」

「……ですが?」

綺麗な声だが、どことなく抑揚が無いように感じる。不思議に感じながら、葵と虎目は少女の次の言葉を待った。

少女は、少しだけ考えて。そして、言葉を見付けたのか、「あぁ……」とでも言うように、やはり表情を変えぬまま。

「ここはどこなのか……そもそも、私は誰なのか……。まるでわからないのですが、これは大丈夫と言ってしまっても良いのでしょうか?」

「え……」

少女の言葉に、葵は唖然とした。これはひょっとしなくても、いわゆる。

「記憶、喪失……?」

葵が呟くのと同時に、虎目がふはぁ……と、深い深い深ぁい溜息をついた。

「連れ回されている間に、頭をぶつけたのかにゃ? けど、頭に怪我をしている様子も無いし。……どちらにしても、あの馬鹿が要らん事をしたせいだって事には変わり無いか。はぁ……本当に、あの馬鹿が式神を作ると、ロクにゃ事ににゃらにゃいにゃ……」

「……どうしよう、虎目。記憶が無いんじゃ、家に送り届ける事もできないし……」

「どの道、もう大分暗くにゃってるからにゃー。オイラ的には、一旦惟幸のところに行く事を勧めるにゃ」

虎目に言われて、葵は「あ、そうか」と手を打った。

「惟幸師匠なら、何とかする方法とかも知ってるかもしれないしね。ここからなら、そんなに遠くないし……」

そして葵は、改めて少女の顔を見た。まだ少し幼さは残っているが、綺麗な顔をした少女だ。意識を取り戻して時間が経ってきているせいか、ぼおっとした表情は少しずつなりを潜め、代わりに凛々しさが宿り始めている。

葵の視線に気付いたらしい少女は、視線をまっすぐ、葵に向けてくる。澄んだ瞳で見詰められて少し照れながら、葵は口を開いた。

「えーっと……自己紹介が遅れてごめん。俺の名前は、葵。こっちは虎目。それで……君さえ良ければ、一度一緒に、俺の師匠の家に行こうと思うんだけど……。良いかな? その人なら、君の記憶を元に戻す方法も知ってるかもしれないしさ」

「構いません。……葵様と共に、参ります」

少女は頷き、流れるような動きで葵の横に立った。その立ち姿にしばしうっとりと見惚れ、それからハッとして葵はゆっくりと歩き出す。

「じ、じゃあ、真っ暗になる前に行こうか。……あ、そこ、足元が不安定だから気を付けて」

そう言って葵は手を差し出し、少女は無駄の無い所作でその手を取る。手と手が触れ合った瞬間、葵の顔が夕焼けよりも赤く染まった。

「あー、青いにゃー。真っ赤だけど、青いにゃー」

「な……ちょ、茶化さないでよ、虎目!」

耳まで真っ赤になりながら、葵は少女の手を引き歩く。その様を思う存分ニヤニヤ眺めてから、虎目は、す、と表情を引き締めた。

「あの娘……全く未来が見えにゃかったにゃ。……未来が無いワケじゃにゃい。けど、何か大きにゃ力が働いて、オイラの未来千里眼を妨害しているようにゃ……。それに、あの娘に見られた時の、式神の反応……。一体、何者にゃんにゃ……?」

「虎目ー? 置いてくよー?」

葵の呼ぶ声に、虎目は一旦思考を停止した。今考えたところで、埒が明かない。ならば、今は道を急ぐべきであろう。これから会う人物であれば、何か思い至るかもしれないのだから。






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