亡国の姫と老剣士










カラン、コロン、カラン……と、扉にくくり付けられたベルが楽しげな音を立てました。その音に、店員と一部の客が振り返ります。

「はい、らっしゃい!」

威勢と愛想の良い声に招かれたように、新たな二人の客は店の中に足を踏み入れました。一人は薄紅色のローブを羽織った少女。もう一人は、明け方の空のような色のマントを羽織った青年と言えなくも無い少年です。少年は酷く落ち着かない様子で、ガチガチと震えています。目は焦点が合わず、顔も青ざめています。明らかに様子がおかしい少年に、客たちは関わり合いにならぬよう、すいっ、と目を逸らしました。それに引き替え、連れの少女はのんびりとしたものです。少女は少年の手を引っ張って店の中央まで踏み入ると、うん、と背伸びをしてきょろきょろと辺りを見渡し始めました。

古さと襤褸さだけは最高レベルの評価を下せそうな酒場の中には、酒と煙草のにおいと、客たちの笑い声、話声が充満しています。少女はその中を、時には大人達を掻き分け、時には客たちにつまみを一口ずつせびりながら歩き回ります。勿論、少年の手を引っ張ったまま、です。そして、酒場の大分奥までたどり着き、何度目になるかわからない背伸びをした時、少女は大きな声で叫びました。

「あーっ! フィル爺ちゃん、やっと見付けたがね!」

叫びながら少女――パルは、最後の人ごみをかき分けて店の最奥へと踏み込みました。連行されるように少年――ティグも続きます。その姿を見て、奥のテーブルでちびりちびりとグラスを乾していた老人――フィルは何も言わず、視線だけで正面の空席を指しました。パルは素直に席につき、ティグもパルとフィルに促されるままに座りました。

フィルは、何も言いませんでした。パルも、ティグも口を開こうとはしません。その場に、重い沈黙がたれ込めました。

「……あの……」

最初に口を開いたのは、ティグでした。彼はおずおずと視線を上げると、申し訳なさそうにフィルに声をかけようとしました。ですが、何と言えば良いのかわかりません。考えあぐねて言葉を続ける事ができずにいると、フィルは片手をあげてティグの言葉を制止しました。そして、店員を呼び止めると言います。

「すまんが、この若いの二人に温かいはちみつ酒を持って来てはくれんか? 何をしてきたのやら、随分と冷え込んでいるようじゃからな」

フィルの注文に、店員は「はい、ただいま!」と歯切れよく返事をし、厨房へと駆けていきました。そして、ほとんど待たぬ間にほかほかと湯気の立つ、黄色い液体の注がれたグラスが二つパルとティグの前に並びました。黙ってそれを見詰めるティグに、フィルは言います。

「温かいはちみつ酒は、心と体の鎮静作用がある。まずはそれを飲んで身体を温め、心を落ち着けろ。話はそれからで構わん」

「……はい」

言われるがままに、ティグはグラスを手に取りました。液体の持つ熱気が、グラスを通してじんわりと手を温めてくれます。自分の手はいつの間にこんなに冷えてしまったのだろうと内心驚きながら、ティグはグラスの中身を一口だけ飲みました。温かいはちみつ酒が通った場所から順に、身体が温まっていくのがわかります。一口、また一口と飲んで、グラスが半分ほど空になったところで、ティグは、ほ、と息をつきました。ヘイグと対峙して以来、初めて安心できたような気がします。

ティグはグラスを置き、改まってフィルの顔を見ました。フィルは、「いつでも話すと良い」と言うように頷いています。それに背を押されたかのように、ティグは声を発しました。か細い、絞り出したような声です。酒場の喧騒の中では真正面に座っているフィルにすら届くかどうかわからぬ声で、ティグはぽつぽつと呟くように言いました。

「ヘイグを……倒せません、でした……。フィルさん達の言ったとおり、ヘイグは不死身で……どうしようもなく、強くって……」

ティグの言葉を、フィルは瞳を閉じ、黙って聞きました。そして、時折相槌を打つように頷きます。その様子に、ティグは言葉が出なくなりました。フィルの忠告を無視してヘイグを倒そうなどと考えた事が悔やまれてなりません。言葉の代わりに、目から涙が出てきます。

「僕は騎士として、姫様をお助けしたかった……。けど、ヘイグの前では僕は赤子同然で……そんな僕を見て、ヘイグは笑っていました。フィルさんにあれだけ言われたのに、僕は姫様を早くお助けしたいあまりに暴走して……。その結果があれで……それが悔しくて、悔しくて……っ!」

泣きじゃくりながらティグが言うと、フィルはぐいっとグラスの底に残った酒を飲みほして言いました。

「勇み足など、若いうちはよくある事じゃ。悔やむ事は無い。まぁ、老人の忠告を完全に無視したのは反省すべき点かもしれんがな」

静かに笑いながら、フィルは空になったグラスを覗きこみました。そして、昔を振り返るように言います。

「私も昔は、君のように暴走したものじゃ。周りが止めても止めきれず、蛮勇を頼みに突っ走り、幾度も危ない橋を渡ったものじゃよ」

「フィルさんが……?」

信じられない、という顔でティグが呟きました。その隣では、もうその話は聞き飽きているのかパルが空になった自分のグラスを弄んでいます。その様子をちらりと横目で見ながら、フィルは頷きました。

「誰しも、若い頃はあるものじゃ。若いうちは物事を知らんし、自分の力や可能性を強く信じておる。それが若者の強みではあるが、それ故に若者は暴走し易い」

「はあ……」

わかったようなわからないような曖昧な返事をティグがすると、フィルは再び静かに笑いました。

「今はわからんでも、そのうち嫌でもわかるようになるわい。残念な事にの」

言いながら、フィルはグラスを置きました。コン、という音がしました。そして、それが合図であったかのように表情を引き締めると、フィルは声のトーンを落としてティグに問いました。

「時に……ヘイグと戦い、その不老不死性を認めたという事は……君も見たのじゃろう? ヘイグの化け物じみた魔法の力を」

フィルの問いに、ティグは頷きました。今でもその不気味さ、恐ろしさは鮮明に思い出す事ができます。

「僕は確かにヘイグの左肩を切り裂いたのに……ヘイグが右手で傷口を撫でたと思ったら、一瞬で傷が消えてしまったんです。何か、植物が芽吹くみたいな幻が見えたような気がしましたけど……。それに、二度目に斬ろうとした時はヘイグの身体が鉄みたいに硬くなって、全く剣が通じませんでした」

ティグの言葉に、フィルは頷きました。そして、問いを続けます。

「ヘイグは、何かを召喚したりもしなかったかね? ……そう、自然の力を纏った動物のような……」

「しました! 纏ったというか……炎そのものみたいな鳥でした。僕はそれに殺されそうになって、間一髪のところでパルに助けられて……」

そう言ったところで、ティグはハッ、とパルを見ました。そう言えば、まだ助けてもらったお礼を言っていません。パルは、「やっと思い出したがね」と言わんばかりに誇らしげに胸を張っています。

「あ、その……あの時は助かったよ、パル。……ありがとう」

慌てて礼を言うティグに、パルは胸をドン、と叩きます。その顔は、満面の笑顔です。

「なに、お安い御用だがね。けど、またいつこんな事があるかわからんに、ティグ兄ちゃんも自分のお役立ちアイテムを買っておきゃー。今ならお安くお得にしとくがね」

「商売は話が終わった後にしておけ、パルペット」

あっという間にテーブルの上にアイテムを広げて商売を始めたパルに、フィルが釘を刺します。パルは、「わかったがね……」と言いながら渋々アイテム類を片付けました。出すのも仕舞うのも早いパルの手際に、ティグは思わず感心してしまいます。それらの遣り取りを無かった事にするかのように、フィルは話を続けます。

「君が見たのは、炎の鳥か。私の時は……水の亀だったな」

「ありゃー。またえらく可愛い奴に負けとらっせるんね、フィル爺ちゃん」

茶々を入れるようにパルが言うと、フィルはパルの頭をぺしんと軽く叩きました。その顔は、渋いものでも食べたような顔をしています。

「あれのどこが可愛いものか。身の丈は私の三倍はあり、一本一本の足が樹齢千年の大木のようじゃった。その足が地を踏む度に大水が発生し、私達は溺れ死にかけたんじゃぞ」

思い出しながら、フィルははぁ、とため息をつきました。その様子を見ながら、ティグはふ、と考えます。

「え。ちょっと、待って下さいよ……? 何か普通に話の流れとして聞いてましたけど……その言い方だと、フィルさんがまるでヘイグと戦った事があるような……。って事は、やっぱりフィルさんは……?」

本当に、今更のような気がします。フィルは今まで一度も「ヘイグと戦った事がある」とは言いませんでした。ですが、その割にはヘイグの強さをよく理解していたり、ヘイグの魔法がどのような物かをよく知っています。それは、ヘイグと戦った事のある者にしかわからない情報なのではないのでしょうか?

ティグの問いに、フィルは暫く目を閉じて黙っていました。ですが、やがて目を開くと、深々と頷きました。

「いかにも。私はメイシア姫様のお傍に仕え、メイシア姫様をお守りする護衛騎士団に所属しておった。勿論、ヘイグとも戦っておる……二度ほどな」

「……二度も、あのヘイグと……」

ティグは、驚いて目を見開きました。自分は一度戦っただけで相当の恐怖を感じました。そのヘイグと二度も戦ったというのは、驚嘆に値します。

「ああ。一度目は、ヘイグがツィーシー騎国に攻め入って来た時。そして二度目は、姫様の呪いを解こうと、今回の君のようにヘイグを倒しに行った時だ。そして結果は見ての通り……二度とも、敗れた。君のように、あっけなく、な……」

フィルは、そう言って自嘲気味に笑いました。しかし、その言葉が腑に落ちないティグは、更なる問いをフィルに浴びせました。

「けど、二度とも負けたのなら、一体何故……」

「何故私が、今も生きているのか……か?」

ティグの問いに先回りしたように、フィルが問いました。その問いに、ティグは黙って頷きます。ヘイグの残虐性はこの目ではっきりと見ました。そのヘイグと二度戦って二度敗れたフィルが、生き残っているのが不思議で仕方がありません。

そのティグの疑問に、フィルはこう答えました。

「ヘイグはな……長くいたぶれそうな相手は生かしておくようにしているのじゃよ」

その答えに、ティグは何となく納得しました。ティグと対峙した時、ヘイグは確かに言っていました。

「お前をいたぶるのは少々飽いたな。今回は見逃してやるから、早々に立ち去れ。気が挫けなければ、また来るが良い。その時には、お前の魂まで焼き尽くし、殺し尽してやろう」

つまり、ヘイグは自らを倒しに来た者をわざと自分の前に通し、圧倒的な力の差を見せつけては相手の希望を挫くのを楽しみにしているのです。そして、敗れた相手をそのまま見逃して、待っているのです。相手が再び気勢を持ち直し、自分の元へやってくるのを待ち続け、再び希望を挫くのを心待ちにしているのです。

「……残酷過ぎる、そんなの……」

ティグは、今までヘイグに敗れてきた騎士達の姿を思い描き、呟きました。騎士達の無念はどれほどのものであった事でしょう。

国を滅ぼされ、姫様を守り切る事ができず、姫様を助けたくとも自分達はどんどん老いさらばえていきます。それなのに、憎きヘイグは不老不死の術により老い衰える事がないのです。更に圧倒的な力を見せ付けられ、且つ敗れた後に見逃され、おめおめと生き延びるのは……誇り高き騎士達にとって、屈辱以外の何物でもありません。

ティグも新米とは言え騎士です。屈辱を味わう先代の騎士達の気持が、痛いほどわかりました。ティグの中で先ほどまでの恐怖が薄れ、次第に怒りが湧いてきます。

「そんな目に遭わされて……フィルさんは、平気なんですか……!?」

怒りのあまり拳をぎゅっと握りしめ、ティグはフィルに問いました。すると、フィルは静かに言います。

「平気なわけがなかろう。だからこそ、今ここにいる」

「……え?」

怪訝な顔をしたティグに、フィルは声をひそめて言います。表情は険しくなり、眉間には皺が寄っています。そのただならぬ様子にティグは、思わず辺りを見渡しました。特に怪しい人物は見当たりません。……とすれば、これはきっと誰にでも聞かれたらまずい話なのだろうとあたりをつけ、ティグは耳をフィルに寄せました。横ではパルが、既に聞き及んでいる話なのか聞く気も無く店員に話しかけています。

「お姉さん、ナーゴヤ村の銘酒デラウミャはあるかね? 何、知らん筈があるわけにゃーがね。コップ一杯でヒグマも昏倒する強さは有名なハズだがね」

十五歳かそこらの少女の口から出る言葉に、辺りの客はざわめき立ちました。皆がパルに注目し、ティグ達に注意を払う者はいません。それを幸いと言わんばかりに、フィルは話し始めました。

「どれだけ強い魔法使いであろうとも、必ずや弱点はある筈……。私はそう信じて、ずっと探し続けてきた。ヘイグの弱点をな。ただ絶望し、尾っぽを巻いて逃げておったわけではないわ」

「ヘイグの……弱点!?」

思わぬ言葉に、ティグは身を乗り出しました。その頭を押さえて再び椅子に座らせながら、フィルは言葉を続けます。

「うむ。君も戦ったのならわかるだろうが、ヘイグは多くの不思議な魔法を使う。どんなに酷い傷でも一瞬で治ったり、身体が鉄に変わったり……水の亀や炎の鳥を呼び出すのもそうじゃな」

フィルの言葉にその光景を思い出し、ティグはごくりと唾を飲み込みました。死ぬかもしれないと思ったあの間際の事を思い出すだけで、肌が粟立つようです。そんなティグに、フィルは視線だけで残りのはちみつ酒を飲むように促しました。ぬるくなったはちみつ酒が喉を流れ、少しだけティグはホッとしました。それを確認してから、フィルは話を続けます。

「あの魔法について、私はヘイグに敗れてから今までずっと調べてきた。その結果わかった事じゃが、あれはどうやら、魔獣の力を借りている可能性が高い」

「魔獣!?」

突如湧いて出た単語に、ティグは問い返しました。それに、フィルが頷きます。

「そうじゃ。傷の治癒や身体の鋼鉄化は魔獣の力を借り、炎の鳥や水の亀は魔獣そのものを召喚していると、私は見ている」

その仮説に、ティグは得心しました。魔獣……実物を見た事があるわけではないし詳しい事は勿論知りませんが、物語や教本に出てくる話を聞くだけでも相当強いものであるというイメージがあります。それらがヘイグに力を貸しているのだとしたら、ヘイグのあの強さにも納得できます。そう考えて頷いたティグに、フィルはスッと左手を見せました。その手は指を折り曲げ、四という数字を表しています。

「ヘイグに力を貸しておる魔獣は、全部で四匹」

言いながらフィルは、右手の人差し指で左手の立っている四本指を一本ずつ指していきました。

「四匹の魔獣は、マジュ魔国を……いや、ヘイグを守るように、分かれ住んでおる。東に一匹、西に一匹。南と北にも一匹ずつじゃ」

「マジュ魔国の東西南北に一匹ずつの魔獣……あれ? この町って、マジュ魔国の真東、ですよね……?」

頭の中に地図を描きながら、ティグは「ん?」と首を傾げて言いました。その言葉に、フィルは腕組みをしながら頷きます。

「その通り。この町は、まさにその四匹の魔獣のうち、一匹が住まう川の側。マジュ魔国の真東じゃ」

この近くに魔獣が住んでいるという言葉に、ティグは目を丸くしました。一見しただけでもこの町は穏やかで明るい雰囲気に包まれています。とても、ヘイグに力を貸す魔獣が側にいるとは考えられません。

「魔獣と言っても、奴らはその存在がほぼ神に近い高クラスの魔獣じゃ。力と同様に知力も高く、高潔な精神を持っておる。そんな魔獣じゃから、人間には興味が無い。ヘイグはよほど上手くやったのじゃろうが……基本的にこちらから手を出さなければ、奴らが人間の世界に干渉する事はないじゃろう」

だからこの町は平和なのじゃ、とフィルは言葉を結びました。そんなフィルに、暫く口元に手を当てて考えていたティグは、ふと何かに思い至ったような顔をしました。そして、少しだけ表情を険しくしてフィルに問いました。

「……って、事は……。フィルさん、貴方はまさかその魔獣を倒すつもり、とかじゃない、ですよね……?」

段々声が小さく消えゆくティグに、フィルは大きく頷きました。そして、事もなげに言ってのけます。

「うむ。私は、ヘイグに手を貸す魔獣達を一匹残らず討ち果たすつもりじゃ。さすればヘイグの化け物じみた強さは無くなり、私達でも対等に渡り合えるようになろう」

それだけ言うと、フィルは椅子に座り直し、姿勢を正してティグに言いました。

「じゃが、私は見ての通りの老体じゃ。一人で魔獣四匹を討つのは少々しんどい。君さえ良ければ、手助けをしてほしいところなのじゃが……どうじゃろう?」

フィルの言葉に、ティグは少しだけ考えた後、「やります!」とはっきり答えました。

「それが、姫様をお助けする一番確実な方法、なんですよね? だったら、喜んで手伝います!」

そう言ってから、ティグは「けど……」と少しだけ迷った顔をしました。フィルが怪訝な顔をすると、ティグは自信が無さそうに問いました。

「けど、そんな大切な手伝いが、僕なんかで良いんですか? 僕は、フィルさんの忠告を無視して、暴走して、挙句にあんな醜態を晒すような人間なんですよ……?」

先刻までの自らの情けない姿を思い出し、ティグはしゅん、と項垂れて言いました。すると、フィルはかぶりを振って言います。

「いや。恐らくこれは、君でなくては務まらないじゃろう。何せ、当時の姫様の護衛騎士はその殆どが既に死亡しておるし、他は生き残っていても戦意喪失しておる者ばかりじゃ。今、本気で姫様をお救いしたいと思い、尚且つ存分に戦える者は……君を置いて他にはあるまい」

その言葉に、ティグは少しだけ勇気と自信が湧いてきました。思わず、フィルに頭を下げます。

「ありがとう、ございます。精一杯戦います……!」

ティグの言葉に、フィルは黙って頷きました。心なしか、眼元が綻んでいるように見えます。

フィルは、本気で姫様を救いたいと思っていて、存分に戦える者はティグしかいないと言いました。その言葉について、ティグは少しだけ考えてみます。

そして、フィルは寂しかったのではないかな、と思いました。戦う気力のある仲間はなく、きっとフィルはずっと一人で姫様を救う準備をしてきたのでしょう。その間には、きっと困難もたくさんあったのだろうと思います。そんな時に志を同じくする仲間がいれば、精神的に大きな支えになったでしょう。ですが、フィルには仲間がいません。どんな困難も、その老体に鞭打って一人で乗り越えなければならなかった筈です。今は何故かパルが一緒にいますが、彼女は本気で姫様を救おうとしているわけではないように思えます。

そんな彼が初めて出会えた、同じように姫様を救おうとする者……それがティグなのでしょう。そのティグが共に戦うと言った事が、フィルは本当に嬉しかったのかもしれません。

彼の過ごした長い孤独の時間を想像し、ティグは再び頭を下げました。そして、ぽつりと言いました。

「フィルさんは……凄いですね」

その言葉に、フィルは細い目を丸くしました。

「私が凄い? ……何かの間違いじゃろう」

「そんな事ないです! フィルさんは……凄いですよ。もし僕がフィルさんなら、ヘイグに二回負けた時点で諦めていたと思います。何せ、一回負けただけであのざまでしたからね」

そう言って、ティグは苦笑しました。それから、また言葉を続けます。

「けどフィルさんは、諦めないでヘイグの弱点を……姫様をお助けする方法を探し続けた。そして、本当に見付けたんです。……普通は、そこまではできません。ヘイグのあの力は本当に、圧倒的でしたから……」

ティグに言われて、フィルは沈黙しました。じっと考え込み、言葉を探しているようにも見えます。フィルはそんな彼から言葉が出てくるのを待ちました。そうして、暫く待ち、息を吸って吐く作業を十五回はこなした頃にフィルはようやく口を開きました。

「そうじゃな……。普通なら、あのヘイグを相手に三度目の戦いを挑もうなどと考えたりはせん。私は、それでも姫様をお救いしたいと思っておった。だからこそ、ここまで来る事ができたと言うべきか……」

フィルの言葉に、ティグはホッとしたように微笑みました。そして、安堵ついでに少しだけ口を滑らせます。

「フィルさんは……きっと、姫様の信頼も篤い立派な騎士だったんでしょうね」

すると、フィルは途端に顔を暗くしました。そして、再びかぶりを振って言います。

「お傍にいながら姫様を守る事もできず、誰が立派な騎士なものか。私は騎士などではない……。ただの、老いぼれた剣士じゃよ……」

「あ……」

ティグは、すぐさま自分の失言に気付きました。この老剣士は、姫様を守る事ができなかった事を悔いていました。その彼に立派な騎士と言うのは、取りようによってはこれ以上ないほどの皮肉であったかもしれません。

「すみません、僕……そんなつもりでは……」

慌てて詫びるティグに、フィルは苦笑しました。そして、気にするなと言うように首をゆるやかに振ってから、言いました。

「悪気が無い事はわかっておる。それよりも、共に魔獣と……ヘイグと戦うと決めたからには、行動は早い方が良い。明日の朝にでも、魔獣を倒しに出発するぞ」

そう言って、フィルは席から立ち上がりました。それにつられて、ティグも立ち上がります。すると、フィルは何かを思い出したような顔をすると、申し訳なさそうな顔をしながらティグに言いました。

「早速じゃが……一つ頼まれてはくれんかのう?」

「はい! 僕にできる事なら、何でも!」

威勢良くティグが返事をすると、フィルは少しだけ顔を綻ばせて頷きました。そして、その顔をすぐさま渋面に変えると、近くの席を指差しながらため息をつき、言いました。

「すまんが、アレを回収してきてはくれんか? 何なら、二、三発殴っても構わん」

そう言ってフィルが指差した先には、談笑しつつ他の客たちの酒やつまみを一口ずつ味見しているパルの姿がありました。パルがつまみをほおばり、酒を一口飲んで上機嫌に「うみゃーがね!」と言う度に、客たちの間でどっ、と笑い声がおきています。

ティグは思わず、深いため息をつきました。





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