亡国の姫と老剣士










ギギギ……と軋んだ音がして、鉄の扉はゆっくりと開きました。扉にかけた両の手が、鉄に冷やされてかじかむような気がします。

宮殿の奥に発見したこの部屋がヘイグの居所――玉座の間であると、ティグは直感で確信しました。辺りに衛兵がいないかを確認しましたが、相変わらず人間は誰一人としていません。それだけに、扉が開くにつれてティグは段々と不安になっていきます。ひょっとしたら、ヘイグは自分の侵入を既に察知しているのかもしれません。そして、ありったけの兵や魔法使いを自らの部屋に集めているのかもしれません。扉が開ききった瞬間、それらが一斉にティグに襲い掛かってくる可能性があります。

しかし、恐れていては何事も進展しません。ティグは覚悟を決めて剣を抜くと、半ば開き切った扉に体当たりをし、勢い良く部屋の中に飛び込みました。

部屋の中に転がり込み、すぐさま体を起こします。辺りを見渡すと、そこにはやはり誰もいません。多くの兵や魔法使いが待ち受けているという事はありませんでした。

部屋の中は、真っ暗です。開け放った扉から、廊下の蝋燭の光が少しだけ入ってくる事を除けば、光源が全くありません。空気が澱んでいます。恐らく、窓も無い部屋なのでしょう。

とても寒い部屋でした。響く足音や感触から、その部屋が廊下と同じく石造りである事がわかります。しかし、寒さの原因はそれだけではないような気がします。寒さのあまり、ティグは纏ったマントを少しだけ寄せました。

その時です。

「ほう……これはまた、威勢の良い騎士様が飛び込んできたものだな」

「!?」

突如前方から降ってきた威圧感のある声に、ティグは身構えました。部屋のあちらこちらからボッという、火が燃える音が聞こえました。次いで、部屋の中が急激に明るくなっていきます。見れば、部屋の壁際では沢山の巨大な蝋燭が緑色や赤色の光を発しながら燃え盛っています。相変わらず、人の姿や気配はありません。それなのに一斉に蝋燭に火がついたという事は、考えるまでもなくこれは魔法によるものなのでしょう。

この宮殿の、こんな部屋で、魔法を使える者。しかも、この威圧感。出揃った条件を考えるに、声の主と考えられる人物は一人しか思い当りません。

「お前が……ヘイグ……!」

ティグが声を発するのと同時に、部屋の先方にして最奥にあたる場所に光があたりました。玉座なのであろうそこには、一人の男。赤黒い衣を纏い、頭には赤がね色の王冠を戴いています。いえ、良く見ると王冠は赤がね色ではありません。元々は金色だった王冠に、真っ赤な何かが付着しているようです。衣の方も同様です。黒い生地に、赤い何かが付着しています。それを見た時、ティグは直感的にわかりました。あの赤い物は、血です。それも、ヘイグの血ではありません。恐らくは、返り血でしょう。ツィーシー騎国を初めとして、今までにヘイグに滅ぼされてきた国や村の人々の血が、ヘイグの衣服に染み込んでいる……ティグは、そう感じました。

そこでティグは思い出しました。以前、親から聞かされた話。ツィーシー騎国が滅びた、その瞬間の話。ツィーシー騎国が滅んだ時、ヘイグはツィーシー騎国王の首から王冠を奪い、血に塗れたそれを戴いたと言います。つまり、今目の前に立つヘイグが戴いているそれは、その王冠は……。

「ツィーシー騎国王の、王冠……」

ティグの呟きに、ヘイグは「ほう……」という顔をしました。あご髭をいじりながら、楽しそうに呟きます。

「なるほど……お前は元ツィーシー騎国領の者か」

そして、楽しそうに笑うと言いました。

「久しいな……元ツィーシー騎国領の者が来たのは何年ぶりになるか。あまりにご無沙汰なので、てっきり諦めたものだとばかり思っていたのだが……」

茶化すようなその言葉に、ティグは眉を吊り上げました。そして、剣を構えながら叫びます。

「黙れ! 他の誰が諦めようと、僕は絶対に諦めない! 絶対にお前を倒して、姫様をお救いしてみせる!」

それだけ叫ぶと、ティグはそのままヘイグに斬りかかろうと走り出しました。

「ツィーシー騎国王のその王冠……ツィーシー騎国王家に……姫様に返してもらうぞ、ヘイグ!!」

叫びと共に、剣を振り下ろします。ヘイグはそれを、不敵に笑って避けようともしません。ティグの剣が、ヘイグの左肩を切り裂きました。

「やっ……た……のか?」

肉を切り裂いた感触に、ティグは荒い息をしながら呟きました。確かに、剣はヘイグの肩を切り裂いています。破れた衣服の間から、赤く染まった肉と、白い骨が見えています。

しかし、この不安は何でしょう。確かに致命傷を与えたはずなのに、全然効いていないような気がします。そもそも、ティグの剣をヘイグが避けようともしなかった事が不審に思えて仕方がありません。

「くっくっく……」

ヘイグが、不気味な笑い声を洩らしました。酷い傷を負ったというのに、何故笑っていられるのでしょう。あまりの不気味さに、ティグは思わず剣を振り下ろした状態のまま一歩退きました。すると、その剣をヘイグは素手で掴みます。

「中々良い太刀筋だ。本気で私を殺そうとする、その殺気が心地よい……」

言いながら、ヘイグは肩に刺さった剣をぐい、と乱暴に抜き取りました。その力に、ティグがよろけます。

「だが、残念だったな……。その程度の攻撃では、今の私を真に傷付ける事は叶わぬよ。若き騎士殿」

そう言って、ヘイグは剣ごとティグを押しやりました。ティグが尻もちを付くのとほぼ同時に、右手で左肩を撫でます。すると、ヘイグの左肩に一瞬、若葉が芽吹いていく幻がティグには見えました。幻が消えると、ヘイグの肩の傷は既に跡形も無く消え去り、本当に傷を負わせたのかもわからない状態になっています。衣が裂けていなければ、ますますそう思ったことでしょう。

ティグが呆然とその様を見ていると、ヘイグは自らの左肩を見て言いました。

「いかん、いかん。これでは見栄えがわるいな。王たる者、威厳を保つ為には常に見た目にも気を使わねば」

そう言って、ヘイグは再び右手で左肩を撫でました。すると衣は元通り、綻び一つない状態になりました。最早、ティグに傷付けられた証はどこにもありません。

「そんな……」

ティグが絶望したように呟くと、ヘイグはにやりと笑って言いました。

「ああ、良い表情だ。その絶望した表情を見る為のようなものだ。私が宮殿内に衛兵を配置しないのはな」

言葉を紡ぎながら、ヘイグはティグに一歩歩み寄りました。恐怖のあまり、ティグの身体は後ろに仰け反ります。その様子に満足そうに頷きながら、ヘイグはぐい、と顔をティグの顔に近付けました。顔が、残虐そうに歪んでいます。

「そう、その顔だ。恐怖と、絶望と、悲嘆が混ざり合ったその表情こそ、私の心を最も楽しませてくれる。以前やってきた元ツィーシー騎国領の騎士達も、皆その表情で私を楽しませてくれたものだ」

「以前……?」

声を振り絞ってティグが呟くと、ヘイグは頷きました。

「そう。メイシア元王女を救おうとやって来た、元王女の護衛騎士団だ。彼らもまた、君と同じように元王女を救う為、私を倒そうとした。だが、結果は見ての通り。君と同じだったよ」

ティグの表情に気を良くしたヘイグは、実に愉快そうに言いました。

「その後、彼らは誰一人として再戦を挑みには来なかった。折角私が生かしてチャンスを与えてやったというのに、だ。ある者は絶望し、ある者は臆病風に吹かれて……。その後死んでいなければ、今でも彼らは苦しみ続けている事だろう。元王女を救えなかった自分を恨み嘆き、どうしようもない現実に絶望しながらな!」

ヘイグの気持がどんどん高揚していくのが、ティグにはわかりました。それと同時に、自分の中の気持がどんどんぐちゃぐちゃになっていくのもわかります。

王女を、救いたいとティグは思います。ですが、目の前にいるこの敵は傷を受けても平然としており、その傷もあっという間に再生してしまうのです。そんな化け物のような相手と戦う術は、ティグにはありません。

救いたい。なのに、救えない。その現実がティグに重くのしかかります。悔しさと、絶望と、恐怖と。それだけしか今の自分の中には無いように思えました。

「そんなのは……嫌だ……!」

不意に、そんな言葉がティグの口を衝いて出ました。その言葉に、ヘイグは妙なものを見るようにティグを見ます。

その視線が、またティグを小馬鹿にしているように見えました。ティグの中に、悔しさが満ちていきます。

「う……うわぁぁぁぁぁっ!」

雄叫びをあげながら、ティグはがむしゃらに剣を振り上げました。剣は宙に弧を描き、ヘイグの首筋へと向かっていきます。しかし、ヘイグは相も変わらず顔色一つ変えません。ティグの視界の隅で、ヘイグの右手の指が微かに動いたような気がしました。

ギィン、という、金属のぶつかり合う音がしました。ティグの瞳が、驚きで見開かれます。

「な、んで……!?」

掠れた声で、ティグが呟きました。剣は、ヘイグの首を切り落とす事はありませんでした。剣は確かにヘイグの首に当たったのに、です。横やりが入ったわけでも、ヘイグが剣を再び掴んだわけでもありません。

切れなかったのです。剣はヘイグの首に当たったところでぴたりと止まり、それ以上彼の首に食い込む事はありませんでした。力を込めても、寸とも切れる事はありません。加えて、剣がヘイグに当たった時のあの音。まるで、ヘイグの身体が金属になってしまったかのようです。

「何、驚く事はない。身体の一部を鉄に変えただけだ」

事もなげに、ヘイグは言いました。まるで心を見透かされたようなその説明に、ティグは再び恐怖します。

「別に不思議なことではなかろう。私は魔法使いだ。傷を癒し、身体を別の物質に変える事くらいわけはない」

そう言って、ヘイグは再びティグの剣を掴みました。今度は、金属同士が触れ合うカチリ、という音がしました。

ヘイグは剣をティグの手からもぎ取ると、暫く剣をその手の中で弄んで見せました。そして、ティグが呆然とその様子を眺めている様を見ると、詰まらなそうに剣を投げました。剣が床に落ち、カランカランという音が部屋中に響きます。その音で我に返ったティグは、慌てて剣を拾います。そして、再び剣を構えて立ち上がりました。ですが、その顔は酷く蒼ざめ、手足は震えています。息は短く速くなり、顔には冷や汗とも脂汗ともつかぬ汗が浮いています。その様子に、ヘイグはため息をつきました。心底詰まらなそうな顔をしています。

「お前をいたぶるのは少々飽いたな。今回は見逃してやるから、早々に立ち去れ。気が挫けなければ、また来るが良い。その時には、お前の魂まで焼き尽くし、殺し尽してやろう」

ティグに背を向け、部屋の最奥に戻っていきながら彼がティグに投げかけたその言葉に、ティグはビクリとしました。ですが、その場から動こうとはしません。今、この場でヘイグの言葉の通りに逃げ出せば、騎士としての尊厳を失ってしまう……そんな気がします。それだけではありません。大見得を切って来た以上、このままではフィルに会わせる顔もありません。ティグは瞳に涙を滲ませながら、剣を構え続けました。

その様に苛々したように、ヘイグは言います。

「見逃してやると言っているのがわからんのか、小僧! 私は既にお前と戦う事に飽いている。早々に去ね!」

ヘイグの言葉に、ティグはふるふると無言で首を横に振りました。そして、震える声で言います。

「嫌だ……僕は絶対に、お前を倒すんだ……。お前を倒して……姫様をお救いするんだっ!」

その言葉に、ヘイグは怒りと苛立ちを綯い交ぜにした声で怒鳴りました。

「ならば良い! 次を待たず、今すぐ焼き尽くしてくれる!」

その言葉が終わるか終らないかのうちに、ヘイグは右腕を高く掲げました。その頭上に、鳥のような形をした炎の塊が出現します。ヘイグが右手を振ると、炎の鳥は甲高い声で一鳴きし、広い石造りの部屋の中をぐるりと一回り飛んで見せました。そして、元の場所に戻ると大きく翼を広げて見せます。

ティグは一瞬、その姿に目を奪われました。赤い翼は煌々と燃え、処構わず光と熱を振りまいています。その姿は、美しいと形容するに足るものでした。

その美しい炎の鳥が再び鳴いた声で、ティグはハッとしました。ヘイグが、三度右手を動かすのが見えました。そして、それとほぼ同時に炎の鳥が再び飛び始めたのも。

炎の鳥は、今度は部屋の中を飛び回るような動きは見せませんでした。それは真っ直ぐに、ティグに向かって飛んできます。

殺される。ティグは、はっきりとそう思いました。剣を握り直し、再びヘイグに斬りかかろうにも、もう遅過ぎます。ティグがヘイグにたどり着く前に、炎の鳥の嘴はティグの胸を貫くでしょう。そして、その貫かれた場所からティグの身体が一気に燃えていくのが、容易に想像できてしまいます。

ティグは、思わず目を瞑りました。その時です。

「ティグ兄ちゃん! こっちだがね! 早く来やー!」

緊迫した……けど、やっぱりどことなくのんびりとした声が聞こえてきました。パルです。何処からともなく聞こえてきたパルの声に、ティグは辺りを見渡しました。

「どこ見とんの! こっちだがね! 下、下!」

言われて下を見てみれば、すぐ後ろの床にぽっかりと穴が開いています。大胆な事に、パルは抜け穴をヘイグの居室に開通させてしまった様です。しかし、今はそんな事を考えている場合ではありません。ティグは慌てて穴の中に飛び込みました。次の瞬間には穴は閉じられ、炎の鳥は空しくその上を通過していきます。攻撃対象を失った炎の鳥は、辺りをうろうろと飛翔しています。その様子に、ヘイグはクツクツと実に楽しそうに笑いを噛み殺しました。

「あの娘は……! ……なるほどな。少しは楽しませてくれるではないか。ツィーシー騎国の騎士どもが……」

言いながら、ヘイグは衣を翻らせつつ両手を大きく振りました。瞬時に炎の鳥は姿を消し、蝋燭の炎はかき消えます。

そして、玉座の間は再び、完全なる闇に閉ざされました。





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