葦原神祇譚





10






「間一髪だったわね。あと少し遅かったら、今頃朝来は黄泉族の仲間入りだったわよ」

医務室での処置がひと段落し、夜末の容体が落ち着くと、医務室付きの女性――石動奈子はホッと安堵の息を吐きながら言った。その言葉に戦慄しつつも安堵を覚え、仁優は改めて医務室の中をぐるりと見渡した。そう言えば、今まで訓練中の怪我は全て救急箱で済ませていた為、医務室に入るのは初めてだ。

壁は薄青がかった白色で、少々寒々しいが落ち着く色合だ。床が緑色なのは、血が垂れてもショッキングに見えないようにするためだろうか。棚や机、椅子といった調度品は白で統一されていて、清潔感が強調されている。

その白い椅子に腰かけてカルテらしき物に記入をしている人物がいる。それも、まだ十歳ぐらいの子どもだ。

「まぁ、これが一般的な病院だったら、まだ予断を許さないところなんだけどネ。奈子姐さんの医務室に生きたまま入れたなら、もう安心だヨ。症状が改善する事はあっても、悪化する事はなくなるからネ」

何せ、永遠の命を保証する石長比売(イワナガヒメ)の力が及んだ医務室なんだから。と、この少年――薬師(やくし)彦名(ひこな)は独特の発音で楽しげに言った。そう言う彼も、古事記に登場する医療の天神、少彦名神(スクナヒコナノカミ)の生まれ変わりであると仁優は聞いている。医療の神に、永遠の命を意味する姫神。よくよく考えなくても、医療的にはこれ以上無いコンビであるように思われる。

「言っちゃ悪いけど、キミ達が黄泉で死んでいてくれて良かったよ。生まれ変わったキミ達が治療に専念してくれるお陰で、こちらは今のところ死人を出さずに済んでいるからね」

そう言い、天は一度だけちらりと、瑛を見た。瑛は押し黙ったまま、奈子によって腕に包帯を巻かれている。横の椅子で治療の順番を待っているオロシは、未だにぐすぐすと泣いている。

治療が終わると同時に瑛は立ち上がり、奈子に礼だけ言うと医務室を出て行ってしまった。その後姿を眺めてから、仁優はおもむろに口を開いた。

「……なぁ」

静かな医務室の中で、その声は予想以上に大きく響いた。一同の視線を集め、少々気後れしながらも仁優は問うた。

「あの、ウミ――闇産能天滅能尊って奴……あいつは一体、何なんだろうな? 俺、一応古事記は通して読んだ事があるんだけどさ、そんな神様の名前、見た事無ぇし。それに、何か瑛と前に何かあったっぽいし……」

「……瑛から、瑛の前世は聞けたかい?」

少し考えてから、天が問うた。仁優は首を横に振る。

「なら、教えるわけにはいかないな。瑛を嫌っているボクが言っても説得力が無いかもしれないけど、瑛の前世はボク達の間ではかなり微妙な立場なんだ。キミが巻き込まれる形で葦原師団に入ってから、まだ二週間。絶対的信頼を寄せる事ができるほどの関係は築けていないだろう? なら、まだ知らない方が良い。じゃないと、キミもボクのように理不尽に瑛を嫌うようになってしまうかもしれない」

「……ウミも?」

天は、頷いた。

「前世が天神である奈子、彦名。瑛の前世を既に知っている伝と朝来。それに、勿論人の姿を借りているだけで現役の神であるボクと要はあいつの正体が何なのか知っている。……瑛の前世と、密接な関係があった神だ。そして、あいつの正体がわかれば、芋蔓式に瑛の前世もわかってしまう」

「……だから、あいつの正体も俺には教えられない?」

「正直なところ、転生した瑛姐さんと一緒に戦う事になるなんて、僕達も予想してなかったんだよネ。だから、どう扱えば良いのか決めかねてるってワケ」

彦名が肩を竦めながら、オロシの傷口に消毒液を振り掛けた。沁みたのだろう。オロシは一瞬泣きやんでヒッと悲鳴をあげた。そして、またすぐにぐずぐずと泣き始める。

「扱いを決めかねてるだけじゃないわ。ここにいる全員が、未だに瑛が本当に私達の味方なのかどうかすら見極められないでいる状態よ。何しろ、単独行動ばっかりする上に中々心を開いてくれないから。疑いたくはないけど、いつ黄泉側に裏切るかわからないって思っちゃうのもまた事実なのよね……」

溜息をつきながら、奈子は薬瓶を棚に片付け始めた。全員の治療が大方終了したようだ。

そのタイミングを見計らったかのように、医務室の扉が開いた。そして、神谷と、彦名と同じぐらいの歳に見える少女が入ってくる。その姿を確認して、天は椅子から腰を浮かした。

「お客が来たようだし、ボクと要は失礼するよ。奈子、彦名。朝来の容体も落ち着いたようだし、キミ達も一度休憩すると良いよ」

奈子と彦名は頷いた。それを合図に要も立ち上がり、四人揃って医務室から出て行ってしまう。あとには仁優とオロシ、夜末、神谷、そして神谷の連れてきた少女の五人が残された。

「……えーっと、神谷、その子は……?」

仁優が問い、神谷が何か答えようと口を開き掛けたその瞬間、少女が顔を歪ませた。

「朝来様っ!」

叫び、夜末の眠るベッドに駆け寄り、そしてわんわんと泣き始めてしまう。

「……えーっと、神谷、あの子は? 説明してもらえねぇと、俺、神谷が幼女誘拐でもやらかした? とか面倒な事考えそうなんだけど……」

「わざわざ更なる面倒事を示さなくても、これぐらいは説明してやる! 面倒な反応をするな、面倒臭い!」

親切なのかつっけんどんなのか判別しかねる言葉を一気に捲し立てると、神谷は溜息をついた。

「アレは……オロシと同じだ。朝来が使役する妖禍。名は、マドカという」

「妖禍? けど、あの子……どう見ても人間……」

「オロシと違って、あいつは朝来に使役されている時間が長い。人間に化けるのにも慣れている。……おい、マドカ。朝来は大丈夫だ。それよりも、あまり泣くな。目覚めた朝来に、俺がお前を泣かせたなどと面倒な誤解をされたらどうしてくれるんだ」

神谷の言葉に、マドカはハッとした。そして、グッと堪える仕草をすると、涙を湛えたままベッドの傍らに大人しく腰かけた。その様子を見て、オロシも啜り泣くのをやめて静かになる。

「……あの二人以外にも、朝来は多くの妖禍を使役している。そのほとんどが、あの二人のように臆病で泣き虫だ。……使役される妖禍には、術者の性格がうつるのかもしれないな」

「……は?」

思わず、仁優は聞き返した。臆病で、泣き虫?

「俺達は同じ地で生まれ育ったと言ったろう? つまりは、幼馴染だ。昔の事や性格もよく知っている。朝来は昔から、臆病で泣き虫な奴だった。雷が鳴れば怯え、庭の雀が死ねば大泣きしてしまうほどにな」

「それが、何で……」

「妖禍を使役するようになった事に対する責任感だろうな。術者が怯えて泣いてばかりでは、使役されている妖禍は不安になり、時には危険に晒される。だから朝来は、虚勢を張るようになった。あいつの人を小馬鹿にするような話し方など、昔を知っている俺や瑛から見れば、滑稽なだけだがな」

苦笑して、神谷は前髪を掻き上げた。いつもはダルそうにしている目が、今は憂いを帯びている。何だかんだ言って、幼馴染が心配なのかもしれない。

「……夜末、葦原師団にいるのは修行のためって言ってたっけ。……けど、そんなに臆病で泣き虫なら、何で修行なんか? 隠れていれば、夜末も、使役してる妖禍達も、危ねぇ目に遭わずに済むのに……」

「……俺達のような霊的な能力がある者は、認められれば地祇になれる可能性がある……という話はしたな?」

神谷の問いに、仁優は頷いた。

「朝来の目的は、それだ。オロシとマドカしか妖禍を見ていないお前にはわからない話かもしれないが……妖禍と言うのは、ただそれだけで忌み嫌われる存在だ。下手に一人で出歩けば、どこぞの神や霊媒師に退治されかねん」

イメージは湧き難いが、何となくはわかる、仁優は、再び頷いた。

「……お前は、ここに来る前は本屋で働いていたと言ったな? 書を好み、物語を多く読んだ事があるのなら何となくはわかってくれるのかもしれんが……俺達のような霊能力者というのは、世間一般では奇異の目で見られ、避けられ易い。社会の中で孤立し易く、友人も少ない。……勿論、性格も一因となってはいるが」

霊的能力があり人が近寄らないから非社交的な性格となってしまうのか、非社交的な性格だから人が近寄らないのか。卵が先か鶏が先かというような話だ。

「そんな俺達……特に朝来からすれば、自らが使役する妖禍達は掛け替えの無い仲間であり、友人であり、宝ですらある。みすみす退治されるわけにはいかないんだ。だから、朝来は地祇になる事を望んだ」

「……地祇になれば、妖禍達を守れる?」

「朝来が地祇になれば、朝来に使役されている妖禍達は朝来の眷族となる。妖禍が一転して神の僕だ。そうなればもう……朝来は妖禍達を退治される心配をしなくても済むようになる」

そう言うと、神谷は大仕事を終えたと言わんばかりに溜息をつき、ベッドに眠る朝来に視線を投げた。

「そういう理由だ。朝来は、妖禍達の為に戦っている。俺は、朝来と瑛に巻き込まれた形だな。全く、面倒臭い……」

「よく言うよ。神谷だって、人の事は言えないだろう?」

夜末の声が聞こえ、神谷がぎくりと固まった。見れば、ベッドの夜末は身体を横たえたまま目を開いている。

「夜末!」

「朝来様! ……良かった……」

「済みません! 済みません、朝来様! 僕が際限無く暴れたせいで、こんな……」

仁優が駆け寄り、マドカとオロシが再び泣きだした。その二人の頭を優しく撫でる夜末に、神谷はホッとした表情を見せる。

「……朝来……」

そして、ハッと顔を強張らせた。

「お前……どこから聞いていた?」

「マドカが来た頃から、意識はあったよ。けど、目や口を開くのが中々大儀でね。まぁ、一度開いてしまえば案外すぐに大儀じゃなくなるものだよ」

それは、ここが奈子と彦名の医務室だからだと思う。普通なら、こんなに早く回復はしないだろう。流石は神の力だとしか言いようが無い。

「……で、人の事が言えないとはどういう事なのか、だけどね。守川」

横たわったまま、夜末はニヤリと笑った。どうやら、これから話す事は自らの戦闘動機を勝手に話した神谷への意趣返しであるようだ。

「神谷には、恋人がいるんだよ。それも、優しくて可愛くて活発で利発な、神谷には勿体無さ過ぎるようなお嬢さんさ」

「朝来!」

いつに無く恐ろしい形相をして叫ぶ神谷にも動じず、マドカとオロシの目が輝いた。どうやら、二人揃ってそのテの話が大好きなようだ。……という事は、この二人を調教した術者である夜末もか。

「黄泉族が侵攻してくれば、いずれは神谷の恋人にも危険が降りかかる。実際、既に一般人が何人か被害に遭っているわけだしな。神谷は、その恋人がいなくなってしまっては自らの人生は本当に面倒事しかなくて苦痛なものになってしまうと確信しているほどに、そのお嬢さんに惚れ込んでいるのさ。だから、本来なら面倒臭くて関わりたくもないような葦原師団に身を置いているというわけだよ」

「朝来、お前……!」

「本当の事だろう、伝?」

苗字ではなく名を呼ばれ、神谷はぐっと言葉を詰まらせた。その顔を見て笑いながら、夜末は「幼馴染に隠し事ができると思うなよ」と駄目押しの言葉を投げかける。がっくりと肩を落として溜息をつく神谷を見て勝利を確信したのか、夜末は余裕のある顔でゆっくりと言った。

「……と言う事で、神谷にも戦う理由というのはちゃんとあるんだよ。巻き込まれたなんて、とんでもない。大体、この男が本気で面倒だと思ったら、私と瑛が巻き込もうとしたぐらいじゃ動きはしないよ」

「神谷と夜末は、大切な人を守るために……」

一瞬、仁優の脳裏にメノの姿が浮かんだ。現在は敵となってしまった、前世の仁優の妻、天宇受売命。何故今、彼女の事を思い出すのか。自分は、彼女の事をどう思っているのか?

考えているうちによくわからなくなり、仁優は軽く首を振った。そして、思考を切り替えようと問う。

「……じゃあさ、天とか、瑛とか……他の奴らは? やっぱり、あるのかな。戦う理由って奴……」

神谷と夜末は、顔を見合わせた。そして、少しだけ考える様子を見せる。

「天は……葦原中国の人間を守るのは、天照たる自分の責務だと言っていたが……」

「その言葉に、嘘は無いと思うよ。ただ、私達の知らない理由が、まだあると思う」

そこで一旦言葉を切り、少しだけ間を空けて夜末は更に言った。

「倉知は伊勢崎を補佐するためだろうね。天照大神や、他の神々に知恵を貸すのは八意思兼神(やごころおもいかねのかみ)と、昔から相場が決まっている」

「あ、奈子様と彦名様は、神様としての責任感と、少しでも犠牲者を減らしたいという願いから葦原師団に参加されていると伺いました!」

夜末が目覚めた事で元気になったマドカが、明るく言った。

「……じゃあ、瑛は?」

その問いに、その場にいる全員が困ったように顔を見合わせた。そして、オロシがおずおずと言う。

「あの、仁優様……先ほど天様に、瑛様の正体を知らないのなら、知らないままの方が良いと言われていたじゃないですか……」

「あ……」

そうか。瑛が自ら前世の話をするまでは、戦う理由も闇の中なのか。妙に得心し、仁優は黙り込んだ。

皆、それぞれの事情があってこの葦原師団にいて、それぞれの理由があって戦っている。……じゃあ、自分は?

瑛に連れて来られ、なし崩し的に葦原師団に仲間入りした自分は、何のために戦おうとしている? そして、連れてきた張本人である筈の瑛は、何も語ってはくれない。

疑問と不安で頭がぐるぐるし始めた仁優は、すい、と視線を動かし、窓の外へと目を遣った。葦原師団の本拠地となっている、見た目は神社であるこの建物。その裏手側にあたる場所にある、小さいが闇の深そうな森が、視界に入ってきた。





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