穢れ融き落とす湯屋
「こんばんは。お泊りのお客様ですね? ご案内致します。どうぞ、こちらへ」
# # #
生きていると、どれだけ正しく生きていようとも、澱のような物が体の中に溜まっていくと。夜の繁華街を歩きながら、藤島冬一郎はそう思う。
家でも、会社でも、友人達との集まりでも。世の中は、どこに苛立ちの元が潜んでいるかわかったものではない。
母の、「友達は今仕事何やってるの?」という言葉が、妙に癇に障る。都合の良い時だけ連絡してくる友人に腹が立つ。理不尽な言を投げつけてくる上司は、どうにか痛い目を見てくれないだろうか。
このままではいけないと。気分転換にネットサーフでもしてみれば、ついうっかり匿名性の大型掲示板を覗いてしまい。自由奔放な書き込み達に、自分が貶されているわけでもないのに、ムカムカと胃がもたれるような感覚を覚える。
遠方への出張を命ぜられて、普段足を向ける事も無いような土地へ赴いて。少しは気が晴れるかと思いきや、ここでも苛立ちは収まらない。
前日、出張に備えて早く帰ろうとしたらトラブルが発生し、結局深夜までの残業になってしまった。せめて移動中はのんびりしようと思っていたのに、新幹線の中では小旅行中らしい大学生達が馬鹿騒ぎをしていて煩い事この上ない。出向いた先では理不尽な交渉を求められ、要求を撥ねつければ嫌味と皮肉を頭まで浸かるほど浴びせられた。
とどめに、手配ミスで宿が取れていなかった。空室は無く、会社に連絡をすれば事務方は全員退社後であり。結果として、冬一郎は現在、飛び込みで宿泊できる施設を探して繁華街をさ迷い歩いている。
「あー……もうやだ。何だってこうも、やな事ばっかり起きるんだよ。やな事が起きたら、同じ数だけ良い事も起きれば良いのに……」
ぶつぶつと、恨み言を心の中で呟きながら。背を丸め、虚ろな目で空室のありそうなホテルを探しながら歩く。
「こんばんは」
その声が足元から湧くように聞こえてきたのは、そんな時だった。突然の出来事に冬一郎は体を強張らせ、思わず足を止めた。
目の前には、白い影。……いや、影ではない。白い狐の面を被っているのだ。薄黄色の羽織を纏い、このご時世に提灯なんぞを掲げ持っている。提灯には見事な筆遣いで「穢落庵」と書かれている。
「……えらくあん……?」
確認するように提灯の文字を、声を出して読む。目の前の狐面は、こくりと頷いた。面のせいで、歳も性別もわからない。体つきや提灯を握る手の肌付きから推測すると、十五、六歳の少年、といったところだろうか。
「お泊りのお客様ですね?」
狐面の言葉に、冬一郎は困惑する。確かに宿泊施設を探してはいたが、自分はそんなに、「宿を探しています」という顔で歩いていたのだろうか?
「ご案内致します。どうぞ、こちらへ」
冬一郎の返事も待たずにそう言うと、狐面はくるりと踵を返し、スタスタと歩き始めてしまう。思わず、冬一郎はその後を追った。
歩きながら、冬一郎は不思議な事に気付いた。
誰も、こちらの方を見ていないのだ。こんな人通りの多い繁華街で。こんなに目立つ狐面で、羽織で、提灯まで持っているのに。誰一人として、狐面の事を気にする様子が無い。それどころか、後を追う冬一郎がうっかり誰かにぶつかっても、誰も足を止める素振りすら見せない。はてさて、これは一体……。
「……なぁ」
思い切って、冬一郎は前を歩く狐面に声をかけた。
「何でございましょうか?」
意外にも、狐面はあっさりと返事をしてくれた。どこかホッとして、冬一郎は歩きながら問う。
「誰か、別の人と間違えていないか? 俺は確かに宿泊施設を探しちゃいたが、どこの宿にも予約の電話を入れたりはしていない。泊り客を迎えに来たんだったら、それは俺じゃなくて……」
「ご心配には及びません」
狐面は、振り返る事無く静かに言った。
「当宿では、予約は受け付けておりません。このように街へと赴き、お客様をお探しし、ご案内する。それが、私の仕事でございます」
「何だ、客引きか。だとしたら、よく俺が宿を探しているってわかったな。……まぁ、お陰で助かったんだが」
「気配で、わかるのでございますよ、お客様」
「気配?」
現実からやや離れたその単語に、冬一郎は首を傾げた。狐面は、「はい」と小さく頷く。
「街を行き交う人々は、それぞれ違う気配を纏っておいでです。それを見ていれば、当宿を必要としている方はおのずとわかるのでございますよ。行き場を探して困惑していらっしゃる方、腹の中に行き場の無い怒りや不満を溜めこんでいらっしゃるお方は、気配もまた、非常にわかり易い色をしているのでございます」
「え……」
思わず、狐面の後姿をまじまじと見詰めた。更に問う言葉を探していると、その前に狐面が足を止める。
「着きましたよ。こちらが本日お客様にお泊り頂く、湯屋、穢落庵でございます」
そう言って、狐面は提灯を高々と掲げた。時代を感じさせる古建築物が、淡い光に照らされて暗闇の中浮かび上がる。
冬一郎は、ハッと懐に手を遣った。他に宿泊施設を見付けられなかったとは言え、出張経費で落とせる宿泊費には限度がある。目の前に佇む宿は、どう見ても一万、二万で宿泊できるような場所ではない。
「ご心配には及びません」
狐面が、再びそう言った。そして懐から一冊の帳面を取り出すと、ペラペラとページをめくり、冬一郎に差し出す。そこには、宿の料金プランがわかりやすくまとめて記されていた。経費で落とせそうな良心的な金額に、冬一郎はホッと胸をなでおろす。
「ご理解いただけたようでございますね。それでは、どうぞ中へとお入りください。ようこそ、湯屋、穢落庵へ」
# # #
ここは本当に、現代の日本なのだろうか。
建物の中に踏み入れば、清潔で高級感溢れる内装の玄関に、品の好い着物を着こんだ従業員がずらりと並び、出迎えてくれた。全員が狐面を被っている事には少々面食らったが、わざわざ事を荒立てる気は無い。
多くも無い荷物を持たれ、案内された部屋はこれまた非の打ちどころの無い物で。室内には香が焚かれ、畳も新しい。床の間には慎ましげな生け花と掛軸が飾られ、障子を開け放った先には枯山水の庭が見える。
挨拶に来た女将と思わしき狐面の女性が手ずから淹れてくれた茶は、これまで飲んだどの茶よりも美味く、茶請けの菓子はほのかな甘さで疲れを取り除いてくれるかのようだ。
風呂と夕食、どちらを先にするかと問われたので、夕食を先に戴きたいと答える。すると、三十分も待たぬうちに、座卓の上には豪勢な料理が所狭しと並んだ。山海珍味とまではいかぬまでも、新鮮で脂ののった刺身、シャキシャキとした歯ごたえの山菜鍋にはトロリとした質の良い肉が丁度いい具合に煮えている。旬の具材をふんだんに加えた炊き込み飯は、何杯でも食べられる気がした。
最後に供された、舌がとろけそうな味わいの牛乳かんを食べていると、襖がスッと開き、再び女将が姿を現した。風呂の準備ができたと言う。
備え付けの浴衣を手にいそいそと女将に案内されていくと、そこは露天風呂だった。竹垣で囲まれているが、閉塞感は全く無い。見上げれば、空には信じられぬほど多くの星が瞬いており、どこからか、白くて雪のような花弁が舞い落ちてくる。
繁華街からそれほど離れていない場所のはずなのに、喧騒のような物は何一つ聞こえない。静かで、心地よい空間だ。
本当に料金は大丈夫なのか、あの料金表は本物だったのだろうか、と少し心配になりながらも、冬一郎は湯に浸かる。初めは少々熱過ぎるかと思われた湯は、長く浸かっているうちにややぬるくなり、程よい熱さになった。次第に、思考も体も、全てが停止して融けていくかのような心持になる。
「お湯加減はいかがでございますか?」
狐面を被り、法被を着こんだ男が風呂の縁へとやってきた。手にはお盆。徳利と猪口が載っている。これは、あれか。
狐面が、お盆を湯に浮かべる。冬一郎が猪口を手に取ると、狐面は徳利を手に取り、酌をしてくれる。注がれた酒を口にすれば、冷たくて口当たりの良い味が口中に拡がった。
「……まるで、夢みたいだ……」
顔を上気させながら、冬一郎は呟いた。傍らに控えた狐面の男は、黙して何も言わない。
本当に、夢のようだった。怒りも、不安も、不満も、心の奥底に抱えていた澱のような物が全て融けだし、全身から落ちていくような気がする。凝り固まっていた体がほぐれ、心身ともに若返っていくように思えた。
「家族や、会社の連中に土産を買っていかないとな。……なぁ、この辺りで土産を買うとしたら、何が喜ばれるかな?」
上機嫌で、冬一郎は傍らの狐面に問う。手配ミスをした事務方の分は買っていかない、などといういじわるはすまい。むしろ、彼らには感謝すべきだろう。彼らがミスをしてくれたお陰で、結果として自分はこのような宿に泊まる事ができたのだから。
とびきり美味しい物を買って帰って、家族や同僚達に食べさせてやりたかった。今の幸せな気持ちを、少しでも分けてやりたいと、冬一郎はそう思わずにはいられなかった。
# # #
翌日。活力に満ちた顔で出立した冬一郎を見送り、穢落庵は門を閉めた。本日休業、と記した木札を門に下げ、狐面達はぞろぞろと露天風呂へと集結していく。
提灯を掲げていた羽織の少年も、女将も、風呂で酌をした法被の男も。皆が皆、手に手に柄杓と桶を持ち、石の風呂を囲んでいる。
湯には、重油のように黒くドロリとした物が、所狭しと浮いていた。見ているだけで胸が悪くなりそうな、その粘り気のある物体を、狐面達は柄杓で掬い、桶の中へと投じていく。
羽織の少年が、桶の中へ手を突っ込み、人差し指でその黒い物をひと掬い。それを、面の隙間から口へと入れた。そして、ほぅ、と切なげに息を吐く。
「美味しゅうございます」
そう呟いた彼を、女将が「これ」と嗜めた。
「行儀が悪うございますよ」
へへ……と恥ずかしそうに笑う少年に、他の狐面達も笑った。
「それにしても、昨今は本当に食料の確保が容易くなったものでございますねぇ」
法被の男が、柄杓を持つ手を休める事無く言う。
「これほどの穢れ、以前は滅多に手に入る物ではございませんでしたでしょう? それが今では、人間を一人、一晩手厚く接待してやっただけで、こんなにも……」
「それほど、今の人間達は鬱屈した日々を過ごしているという事なのでしょう」
そう言って、女将は柄杓を桶の中に差し入れる。湯に浮かんでいた黒い物は、もうほとんど無くなっていた。
「良いではありませんか。我らの活力となる、人間の穢れ。昔のように人間を襲わずとも手に入るのであれば、楽なものです」
「ただ、一つ問題もございます」
黒い物でいっぱいになった桶を地に置き、法被の男が腕を組んだ。
「昔と比べて食料は多く、必要な労力は少ない。そのためか、昨今肥え太り、動きが鈍くなってしまった者もいる始末でして」
「おや、まぁ」
呆れたように、女将は手を――狐面の――口元へと遣った。そして、しばらく何事かを考えると、ころころと笑う。
「それでは、今後非番の者は街へ赴き、人間をからかう事としましょうか。私達とて、楽しむ事は必要ですもの」
女将の提案に、狐面達は口々に歓喜の言葉を発する。楽しそうに話す狐面達の様子に、女将はくすりと笑った。
「我々に食料を与えてくれるだけでなく、暇つぶしの対象にもなってくださる。本当に、人間というのは、ありがたい存在でございますねぇ……」
(了)