牛に引かれて泰山参り








「泰山、行こうかな……」

ある日の昼下がり。ぼんやりと外を眺めていた文叔が急に言いだし、仲先は「は?」という言葉と共に固まった。

たっぷり十は数えるほどの時が経ってから、仲先は何とか言葉を絞り出す。

「泰山って……おい、まさか。封禅の儀を行うつもりか、文叔?」

封禅の儀とは、簡単に言ってしまうと、新たに即位した皇帝が泰山で天にそれを報告する儀式の事である。

伝説の時代には三皇五帝をはじめとした七十二人の帝王がこの儀式を執り行ったらしいが、詳しい事は定かではない。有史以来では、この時代の時点では秦の始皇帝と、前漢の武帝だけが行ったとされている。

武帝の封禅の儀の時には、かの司馬遷の父親、司馬談も準備に携わっている。深い知識を持ち多くの学に通じていた彼は、病のため儀式に参加できず、酷く悔やんだという話だ。それほどまでの、歴史的に貴重な儀式なのである。

貴重且つ古い儀式故に知識はほとんど残っておらず、有史以来の儀式でもその内容は秘密とされたために、記録も残っていない。結局、当事者以外は何をしたのかわからないままなので、やろうと思ったら最初から研究をし直さなければならないだろう。

その労力を思ったのか、仲先の顔が嫌そうに歪む。その何とも形容し難い表情に気付いたのか、文叔が「あぁ」と呟いた。

「違う違う。封禅の儀をやろうなんて、今のところはこれっぽっちも考えてないよ。今から準備してーなんて言わないから」

苦笑しながら、手をひらひらと振っている。仲先はホッとしつつ、首を傾げた。

「封禅の儀をしたいわけではないとなると……何故泰山に行きたいんだ?」

文叔ののんびりした言い方から察するに、別に叛乱の兆しがあるわけでもないのだろう。あるのだったら、流石の彼でももう少し緊迫した言い方をするはずだ。

東岳大帝か碧霞元君に願い事でもあるのだろうか。己か后妃の健康長寿でも願うのか、子の数を増やしたいのか。……そんな様子も見えない。

「そんな複雑に考えないでよ。単に、泰山に行ってのんびり過ごしてみたいだけだって」

「物見遊山が目的か!」

呆れて言えば、文叔は「うん、そう」とにっこり笑いながら返してくる。まったく悪びれていない。仲先は、深い溜め息を吐き出した。

「あのな……物見遊山に行きたい。これはまぁ、わかる。たまに街へ繰り出しているとは言え、基本的にずっと宮殿に籠っていたら、お前の性格上どこかに行きたくなるのは仕方が無い話だ。だがな……お前はもうちょっと、自分の言葉の重みと、現実という物を考えろ」

「……と、言うと?」

首を傾げる文叔の額を、仲先は無言のまま中指で弾いた。

「あ痛っ!」

思わず額を手で押さえた文叔に、仲先は再びため息を吐く。

「お前、自分が今どんな立場かわかっているんだろうな?」

「再興された漢王朝の皇帝。だがそれは仮の姿で、その実態は……」

「その実態も漢王朝の皇帝陛下だろうが。要らん事を言い足さなくても良い」

ボケを中断されたからか、文叔は少々不満げだ。仲先は、それをさらっと無視した。

「仮の姿だろうが実態だろうが、お前が漢王朝の皇帝だって事は事実なんだ。その皇帝陛下が冗談でも泰山に行くなんて言いだしたら、人によっては真に受けた上に早とちりして、更に気を回して、封禅の儀の準備を始めるぞ」

言われて、文叔は不満げな顔を真顔に戻し、それから苦笑した。

「あー、それは困るね。まだ天下が安定してないのに封禅の儀をするなんて何考えてるんだーって怒り出す人、絶対いそう」

「絶対いるだろ。下手したら叛乱勃発するだろ」

「えぇぇ……困る……」

「困るだろう? だから、軽々しくそういう事を言うなと言っているんだ」

納得したのか、文叔は「はーい」と間の抜けた返事をする。

この態度についても、後ほど注意しておくべきだろうか。……いや、これに関しては、何を言っても変わらないだろう。三つ数える間にそう結論付け、仲先は軽く首を横に振った。

「……で、言葉の重みっていうのはわかったんだけどさ。現実って? 泰山は現実にある山だよ? 蓬莱みたいに存在が曖昧な場所じゃないよ?」

「そういう事じゃない。実在する場所ではあるが、どうやって行く気だ? 供は何人必要で、何日かかる? それらを算出したとして、今のこの忙しい時にそれだけの時や人手を捻出できるのか?」

言われて、文叔は「う……」と言葉を詰まらせた。そして、えぇっと……と何とか言葉を続けようとする。

「片道を三十日と見て……」

「待て、仮に馬ではなく徒歩だとして、だ。多めに時を見積もっても、そんなにかからないだろう。何を根拠に三十などという数字を出した?」

「ここは一つ、牛でゆっくりのんびり行こうかと。ほら、私が戦場で牛を利用した話は結構知られてるみたいだし? 牛で旅とか行ったら、親しみのある皇帝陛下だって印象を植え付ける事に……」

「あの皇帝陛下は馬鹿であるらしいという印象を植え付ける気がして仕方が無いな」

仲先がバッサリと切り捨てると、文叔は「駄目かぁ」と肩をすくめた。その様子が本当に残念そうで、仲先はバッサリ切り捨てた事を少しだけ後悔する。

「しかし、お前と牛か……懐かしいな。たしか、挙兵した時に馬を用意できなかったんだったか……」

「そうそう。あの時は本当に貧しくってさぁ。馬が買えなかったんだよね」

パッと表情を明るくして、文叔が話にのってきた。苦労は絶えなかったが、今となっては笑える話だ。だからこそ、明るい顔で話す事ができる。

「けどさぁ、牛でも結構いけるものなんだね。本当、頼もしかったなぁ。あの時の焼焼」

「焼焼?」

聞き慣れない言葉に、仲先は首を傾げた。すると、文叔は「あぁ」と得心した顔で頷く。

「名前。あの時の牛の」

「……名前があったのか、あの牛……」

「実はあったんだよ、あの牛の名前」

こくりと頷く文叔に、仲先は「そうか……」としか言えない。しかし、何故牛に名をつけたのか。そして、何故焼焼なのか。

その疑問が、顔に出たのだろうか。文叔が「実はさ……」と苦笑した。

「図讖によるもの……とでも言えば良いのかな?」

「図讖?」

言葉に意外性を感じ、仲先は目を丸くした。図讖と言えば予言のようなもので、新の王莽が好んでいたのではなかったか。

「興味本位でね。焼焼が生まれた日に、字のような虫食いがある葉っぱを見付けてさ。それが〝牛に焼焼と名付けると将来、旨い肉を食べる事ができる〟って読めたから」

「大きく育った後に食べる気満々だったのか」

呆れて言えば、文叔は「てへっ」と言いながら舌を出している。愛嬌はあるが別に可愛くはない。

仲先はため息を吐くと立ち上がり、文叔にも立つよう促した。

「休憩はそろそろ終わりにして、報告書を検める仕事を再開するぞ。あれらを片付けない事には、泰山も旅もへったくれも無いからな」

「それもそうだね。……あー……旅に出たい……」

ぼやきながら文叔も立ち上がり、二人して仕事の待っている部屋へと戻った。

時は西暦にして二十六年。ここから更に三十年後、文叔は泰山で封禅の儀を執り行うのだが、それはまた、別の話である。













(了)












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