夜遊び皇帝
時は、西暦にして二十三年。前漢を滅ぼし中国を支配してきた新王朝は、数々の反乱を抑えきれず、僅か十五年という短い歴史の幕を閉じた。
反乱の旗頭となったのは、前漢の皇帝、劉氏の血を引く者達。そして、その中には後の後漢を立てた光武帝・劉秀もいた。
それから僅かに時が過ぎ、二十六年。彼が中国――天下統一を成し遂げる十年前の事である。
◆
「私だよー。開ーけーてー!」
ドンドンドン、という扉を叩く音と共に、情けない懇願の声が聞こえてくる。その音に、「誰であっても、絶対に通すな」と厳命されている兵士達は顔を見合わせ、そして深い溜め息をつきあった。
……というのが、昨夜の事である。
「仲先さー、ちょっと命令が行き届き過ぎじゃない? 私、一応皇帝なのに。ちょっと帰りが遅れたぐらいで門の外に締め出されて一晩野宿とか、有り得なくない?」
朝飯代わりに餅を齧りながら、いかにも不満そうに溢している青年。姓は劉、名は秀。あざなは文叔。御年三十二歳の、良い大人である。ついでに、数多くの死地や屍を乗り越えて漢王朝を再興させた皇帝陛下でもある。
……皇帝陛下である。
その皇帝陛下は元々それほど地位が高くない家の出身だった事も手伝ってか気さくな性格であり、下の者達とも仲が良い。
それは良いのだが、しばしば宮殿の外へ遊びに出ては、夜遅くまで帰ってこない。下手をすると、城壁の外まで遊びに行ってしまっている。
そして、閉門時間に間に合わない。
初めのうちこそ慌てて探しに行っていた臣下一同だが、回を重ねるうちに段々と雑になっていった。探し方もそうだが、皇帝陛下の扱いも。
今となっては、遅くなったらそのまま無視して締め出すし、翌朝開口一番に「陛下、いい加減にしてくださいよ」と説教をし出す始末である。
文叔は、一人でもそれなりに戦える程度には、強い。顔と名前を広く知られているから、街中で喧嘩を吹っかける者も滅多にいない。
流石に城外は厳しいが、門の内、宮殿の外、という環境であれば泊まる伝手は割とあちらこちらに持っている。
……というわけで、余程の事が無い限り、夜遊びで帰ってこなくてもあまり心配する必要が無い、と臣下達が気付いてしまった結果である。
勿論、皇帝陛下が供も連れずに一人でふらふら遊び歩いているというこれらの事はできれば極秘にしたい。外部の者に知られればやはり危険だし、何より夜遊びして締め出された皇帝など臣下としては恥である。
人の口に戸は立てられないとしても、なるべく文書に残したくない。勿論、書く者はあるだろう。だが、あまりにも珍事が多過ぎて、書き切れるとも思えない。だから、これら全てが後世に伝わってしまう事は無い……筈だ。
「たしかに、皇帝陛下が一晩締め出されて野宿なんぞ有り得ない話だ。だがそれ以上に、皇帝陛下が、一人で、供も連れずに夜遊びして帰宅時間を守る事ができない。こっちの方が有り得んだろうが! そこのところどう思うんだ、文叔?」
頭の血管がぶち切れそうな形相で、今にも殴りかかりそうになりながら怒鳴りつけているのは、朱祐仲先。漢王朝復興の際、文叔に力を貸した功臣である。そして、学生時代には共に学んだ、学友でもある。
だからだろうか。真面目で、普段表向きは文叔に臣下の礼を取っているのだが、慣れ親しんだ者しかいない場になると、これでもかと言わんばかりに遠慮が無くなる。
しかし、そこはノリが軽い文叔の事。遠慮の無い仲先の小言を全てボケ流し、更にそれに仲先がツッコミを入れる……というキリの無い会話を日々繰り広げている。
「野暮な事は言いっこ無しにしようよー。私と仲先の、共に蜜月を過した仲じゃないの」
「共に〝蜜〟と薬を買い求めては売りさばく〝月〟日を過した仲、だ。重要な部分を端折り過ぎだろう!」
「あまり怒鳴ってばかりいると、寿命を縮めるよ?」
「誰のせいだ、誰のっ!」
一しきり怒鳴ってから、仲先は大きくため息をついた。疲れ果てている様子である。
「文叔、お前なぁ……そんなに夜遊びばかりして、何がしたいんだ? 皇帝なんだから、目新しい女が欲しいなら命じて娼婦を召喚する事だってできる。旨い物が食いたいなら、料理人を。学びたい事があるなら、近隣の儒者を。宮殿に招けば済む話なのに、何故わざわざ自ら危険があるかもしれない場所へ一人で遊びに出掛けるんだ?」
「わっかんないかなぁ……?」
少しだけ呆れた様子で、しかし大半はからかう表情で、文叔は笑った。
「私が味わいたいのは、人々が集まってできる熱気なんだよ。それと、珍しい物が無いか自分で目を配る楽しみ、美味しそうな物を露店で衝動的に買って、その場で齧り付いた時の何とも言えない幸福感。どれもこれも、人を選んで呼び出してたんじゃ味わう事ができないものだよ。仲先だって学生の頃、楽しかったでしょ? 買い食い」
「……まぁ……」
そういう事だよ、と、文叔は重ねて笑った。
「大体、まだ天下は完全には落ち着いていないんだよ? そんな状態で、私欲の為に娼婦やら儒者やらを呼び出したりしたら顰蹙ものじゃない?」
「それは……」
仲先は、言葉に詰まった。文叔は「でしょ?」と言って笑うと、残っていた餅を口に放り込み、咀嚼しながら執務室のある方角へと歩いて行ってしまった。一応、仕事をする気はある皇帝陛下なのである。
仲先が文叔に説教をしようとすると、いつもこうだ。いつの間にか話の主導権を握られ、うやむやにされてしまう。
どうすれば効果的に説教ができるものかと、仲先は特大のため息を吐いた。
◆
時は過ぎ、今日もまた夜が近付いてきた。今夜もまた街で夜遊びをする気満々らしく、文叔は仕事を終わらせた途端に宮殿の外へと飛び出していってしまった。追加の仕事を与えようとしていた文官達が「あっ!」と叫ぶ暇すら無い。
残念そうな顔をしている彼らの傍らを通り過ぎながら、仲先は「私が追ってみよう」と声をかけた。今度も、文官達は「え?」と声を発する暇が無い。
走らないように、だが出せる限りの速度を出して、仲先は歩く。
文叔は何故こうも夜遊びを繰り返すのか。朝方の説明では納得し切れなかった。だから、何をしているのかこの目で確かめたい。そして、場合によっては首根っこを引っ掴んで引き摺ってでも宮殿へ連れ帰らねばなるまい。
学生時代からの仲だ。文叔の行動パターンは何となくだがわかっている。それに基づいて考えれば恐らくあちらへ行っただろうと思われる方角へ、突き進んだ。
そして、長年の付き合いによって得た経験値という物は馬鹿にならないもので。
それほど歩かないうちに、仲先は文叔の姿を見付けた。人通りの少ない路地で、露店で買ったのであろう干し果物を齧りながら路地の奥を覗き込んでいる。
「文叔! お前またこんな刻限に……」
「しっ!」
仲先が追ってきている事に気付いていたのだろうか。文叔は視線を微塵も動かさないまま、静かに仲先の発言を遮った。
「……おい?」
訝しんで仲先が首を傾げると、文叔は声を出さないまま手招きで彼を呼ぶ。近寄ってみれば、文叔は無言で路地の奥を指差した。
仲先は、首を傾げたまま文叔の指差す先を見る。するとそこには、五人ほどの男が屯していた。
声は聞こえないが、男達は何か言葉を交わしている。やがて彼らは互いに頷き合い、路地の奥の更に向こうにある建物の陰へと姿を消した。
「文叔、あいつらは?」
「……私達も行こう」
短くそれだけ言うと、文叔は男達の後を追って足早に歩きだす。仲先も、わけもわからぬままにその後を追った。
文叔が何を考えているのか、仲先は未だにわからない。だが、歩いているうちに、嫌な気配が漂っている事に気付いた。最近はご無沙汰だったが、少し前までは戦場で毎日のように感じていた気配。人が人を害そうとする時に発する、殺気だ。
建物の陰から、ガチャガチャという金属音が聞こえてくる。微かにだが、弓の弦が微かに震える音も。
「文叔」
「仲先、剣は持ってきてるね?」
険しい表情と声で言うと、文叔は腰に帯びていた剣を抜き放った。仲先もそれに続き、剣を抜く。
警戒しながら、陰を覗く。そこに先ほどの男達がいた。人数が増えている。全員が武装している。全員人相が悪く、服装も質素で警邏の人間には見えなかった。
「この先には、最近の戦後特需で羽振りが良くなっている商家があったはずだよ。……これはどうやら、アウトだね」
そう言うや否や、文叔は剣を握りしめ、男達の元へと足を踏み出した。止めても、止まりそうにない。仲先もまた、舌打ちをして剣を握りしめ、後に続いた。
「はいはーい、悪事の相談はそこまでだよー」
文叔の発した気の抜ける声に、集まっていた男達がびくりと震え、そして視線を巡らせる。どの目も、異様に殺気立っていた。
「いきなり声をかける奴があるか! こういうのは隙を伺うのが定石だろうが!」
「そんな事言ってたら、みすみす取り逃がす事になっちゃうかもしれないじゃない。こういうのは、多少無謀でもパッと声をかけて、パパッと終わらせないと」
「パパッと終わらせたいなら、何で不意打ちしないで声をかけたんだお前は!」
仲先が怒っている間に、男達は次の行動をどうするか決めたようだ。頷き合って、全員が武器を手にしている。そして、「なんだてめぇらは」などとも言わず、無言で襲い掛かってきた。
「無言で襲い掛かってくる……って事は、やっぱりアウトだねぇ。やましい事が無ければ、何事か問うて来たりとか、変な顔して首傾げてそのままどっかに行っちゃうかするだろうし」
「妙に具体的だな。……さては、関係の無い人間に声をかけた経験があるな?」
文叔がわざわざ声をかけた理由はわかった。相手が無実であるほんのわずかな可能性を考慮していたのだろう。反応次第では、戦わずに済むと思っての事だったのだ。
だが、結果はご覧の通り。文叔のわずかな期待は裏切られ、男達は己の姿を目撃した二人を生きて帰さぬつもりのようだ。一言も発する事なく襲い掛かってきたのは、これ以上目撃者を増やさないためか。
降りかかってくる刃全てを、文叔は剣で受け止めた。
「仲先、矢の方よろしく!」
「無茶言うな!」
文句を叫びながらも、仲先は飛んできた数本の矢を剣で何とか叩き落とした。相手はそれほど射技に長けているわけではないらしく、飛んできた矢はどれもへろへろだ。
「こっちの剣筋もそんなに良くないよ。力任せで……喧嘩慣れはしてるけど、戦い慣れてはいないって感じかな」
恐らく、従軍した事が無いか、しても後方支援部隊にいて戦闘自体の経験は少ないのではないか、と、文叔は相手の剣を力任せに叩き落としながら言う。
「新時代の政治や、これまでの戦の影響で食い詰めたのかな? 兵士だったとしたら、戦が減った事で食い扶持の伝手が無くなったか……。だからこうして武器を集めて、羽振りのいい商家を襲おうと計画した。……そんなところかな?」
武器は、元々自分達が持っていた物か、それともどこかから盗んできた物か。盗んできた物であれば、被害者がいるはずだ。武器管理の役人が裏で関わっている可能性も否定はし切れない。横流しがあったと考える事だってできる。
その辺りを後程しっかりと調べなければ。そう言う文叔の顔は、夜遊びをして締め出される情けない人物の物ではない。人々の暮らしを案じ、世の安定を願う、頼もしい皇帝陛下の顔だ。
「まったく……これだから、どんなに馬鹿をやっていても、お前以外の下(もと)に就く気にならないんだ」
苦笑しながら呟き、仲先も文叔に倣って襲い来る刃を次々と力任せに叩き落とし、時には押し返す。
逃げられても面倒なので、文叔は「ごめんねー」と軽く言いながら、武器を失った男を壁に向かって蹴飛ばした。頭を強打した音が聞こえるやら、足を捻らずにはいられないだろうという転び方をする者がいるやら。見ている分にも中々悲惨な光景だ。
「あとは私が暴れるから、仲先はあっちをよろしくー」
相手の数が減ってくると、文叔は路地の片隅を指差しながらそう言った。そこには、男達が用意していたのであろう縄が山と積まれている。恐らく、本来ならば押し入った商家で家人達を拘束するために使う筈だったのだろう。
相変わらず暴れ続けている文叔を横目で見ながらそれを手に取り、仲先は伸びた男達を手早く捕縛していく。戦場で生死をかけて組み合っていた時と比べると、随分容易い。
こうして、文叔が男達から戦意を削いでいき、仲先が彼らを効率良く身動き取れなくしているうちに……いつの間にやら元気に動き回っているのは文叔と仲先の二人だけになっていた。
二人は剣を鞘に納め、大きく息を吐く。文叔は満足気に汗を拭っていた。
「……文叔。お前が毎日のように夜遊びに出ていたのは、ひょっとして……」
横顔に問えば、文叔は曖昧に笑った。
「私の力不足だよね。漢王朝を再興させたと言っても、まだまだ天下は不安定。特にこういう、役人の目が届き難い場所では悪事を働く者も集まりやすいし。なら、国の運営を天から任された者として、責任持って何とかしないと」
だから、毎日のように街へ出る。人々の営みに混ざって、人々の生活を見て、何が不足しているかを見極める。悪事を働く者がいないか、目を光らせる。
上がってくる報告書を読んでいるだけではわからないが、街に出ればわかる事がたくさんあった。そう言う文叔に、仲先は「そうか……」と呟いた。そして。
「わかった。明日から、夜の見回りを増やすよう手配しよう」
そう言い放った。
文叔はがくりと肩を落とし、「……は?」と息のような声を漏らす。
「……仲先、私の話、聞いてた?」
「聞いていたし、納得した。だから、夜お前が見回りなんぞをしなくても済むように、見回りを増やすようにしようと言っているわけだが」
「いや、私が気を付けてるの、見回りだけじゃないから。ほら、人々の営みというか、何というか……」
顔を引き攣らせながら言う文叔に、仲先は首を横に振る。
「昼間に遊びに出る分は、たまになら見逃してやる。買い食いはそれで我慢しろ。夜の見回りは下に任せて、お前は宮殿にいろ。……と言うか、一応昼間はちゃんと仕事をしている事が多いんだから、夜は寝ろ。いくらお前が丈夫でも、こんな生活を続けていたら早死にするぞ」
「えー? 何だかんだで私、六十くらいまで生きれそうな気がしてるんだけど?」
「根拠も無く言うな。良いから、夜は寝ろ。見回りは下に任せろ。そうすればお前は健康を保てるし、仕事が増える分雇用が増えるから民の生活も潤うぞ」
「う……」
最後の言葉が効いたらしく、文叔が言葉を詰まらせる。その様子に、仲先は「してやったり」と言うようにニヤリと笑った。それを受けて、文叔も苦笑する。
「さて、お前が納得したところで、今日はもう宮殿に戻るぞ」
「そうだね。……今日は仲先も一緒に締め出されて夜明かしだねぇ……」
事も無げに言う文叔に、仲先は「は?」と短く言って固まった。
「だってさ、門番への命令、すっごい行き届いてるじゃない? 誰であっても絶対に通すな、ってさ。それでしょっちゅう締め出されてるんだよ? 私。皇帝の私が通して貰えないんだから、仲先も通してもらえないよね、当然」
言われて、仲先は「そうだった……」と呟いた。そして、両手で頭を抱え込む。
パッと見、面白い姿になってしまっている旧友に、文叔がからからと笑った。その声につられるように、仲先からも苦笑が漏れる。
そうして一しきり笑ってから、二人は今夜の宿を探そうと街に繰り出していく。
時は西暦にして二十六年。天下は、まだまだ安定しない。だが、この男が皇帝の座に就いている限り、この再興した王朝は大丈夫だろう。
そのような想いを密かに抱きながら、仲先は隣を歩く旧友の姿を見詰め、人知れず笑みを浮かべた。
(了)