妖怪アンソロジー「妖怪夜行」寄稿作品

付喪之宴












りいりいと、虫が鳴いている。

いずれの御時かはわからねど、平安の代。月の見える、秋の夜である。

京は右京。九条大路のはずれに、打ち捨てられ、荒れ果てた邸があった。

元は由緒ある貴族の別邸か何かであったのだろうか。広大な敷地と、正殿と渡殿で繋がった東西の対屋(たいのや)を具えたその邸に、往時の賑やかさ、華やかさは、欠片も見当たらない。むしろ、立派な建物を持つだけに、下手な荒屋などよりも余程寂れてしまっているように思える。

ひと気の無い庭には雑草が茫々と生い茂り、時折虫達の飛び交う影が月明かりに照らされるばかり。

そんなうら寂しい庭に臨む、東対屋。簀子縁も南庇(みなみびさし)も越えた向こう、身舎(もや)の中に、ごそごそと蠢く影がある。

月明かりに照らされ、微かに見えるそれは、もちろん人ではない。かと言って、無人の邸に彷徨い込んだ野良犬というわけでもなさそうだ。

不意に、ボッという音がした。それと時を同じくして、身舎の中が明るくなる。几帳や屏風で仕切られた部屋の中、燈台に火が灯っているのが見えた。

ひと気の無い邸でひとりでに灯りを灯したその燈台は、そこで怪異を止める事は無く。次いで、にゅ、にゅ、と細長い手足を生やし始めた。

付喪神だ。

年経た末に、魂が宿りし器物。それ故に、自らの意思で動く事ができる。

燈台の付喪神は、辺りが明るくなったのを確認すると、嬉しそうに飛び跳ねようとした。するとその足を、にゅ、と新たな手が掴む。今度は、鏡の付喪神だ。

鏡は、己の鏡面に燈台の炎を映して見せる。跳ねる事で炎や油が飛び散ったら危ない、と言いたいようだ。

伝わったのだろう。燈台は、どこか詰まらなそうにしながらも、ことりとその場に落ち着いた。

火の元が落ち着いた事で安心したのか、今度は几帳や屏風といった、燃えやすい物達がごそごそと動き出す。それにつられたように文台や畳、香炉に角盥(つのだらい)と、部屋の中に置かれていたありとあらゆる物から手足がにゅ、にゅ、と生えてくる。

この邸は、余程長い事、人が住んでいなかったのだろう。邸の中に残っている物の多くが、付喪神と化しているようだ。

付喪神と化した文台の上で、同じように付喪神と化した硯筥(すずりばこ)がカタカタと動く。特に蓋が激しく動いているようだ。硯筥が、やや大儀そうに己の蓋を開け放つと、中から一本の筆が飛び出した。続いて、硯がごそごそと這い出してくる。

筆は立ち上がり、うんと全身を伸ばす。そして、乾いて乱れてしまった毛先を、両手で丁寧に整えた。

身支度を終えた筆は、動く気の無さそうな硯の縁に手をかけ、じっと中を覗き込む。ぐっ、と身を乗り出し、海の部分に頭を突っ込んだ。しかし、筆の毛先は一滴の墨も含まない。完全に乾いてしまっているようだ。

不満げに頭を振ると、筆はきょろきょろと辺りを見渡した。部屋の隅でぼーっとしている角盥を見付けたので、ちょいちょいと手招きをして見せる。

のそのそと近寄ってきた角盥に、筆は外を指差して見せた。すると、角盥はこくりと頷き、のそのそと庭に這い出していく。筆も、それに続いた。

庭には雑草が茫々と生い茂り、その多くに夜露が宿っている。月明かりできらきらと光るそれを、筆は指差した。角盥は頷くと、雑草に近寄り、己の内に夜露を集めていく。四半刻もせぬうちに、角盥の中には、筆が両手を浸せるほどの夜露が溜まった。

集めた夜露をこぼさぬよう慎重に身舎へと戻る。そして、微動だにせぬ硯の海に、集めた夜露をそっと注いだ。

筆は角盥に頭を下げると、今度は硯筥の中で微睡んでいた墨を文台の上へと引っ張り出す。未だ夢現の墨を両腕で抱え上げると、思い切りよく硯にこすり付けた。

流石に目が覚めたらしい墨が、両手足を動かしてじたばたともがく。しかし、それほど抵抗しているようにも見えない事を考えると、案外喜んでいるのかもしれない。

やがて作業を終え、筆は墨を解放した。どこか名残惜しそうに筆と硯を顧みながら硯筥に戻っていく墨を背に、筆は硯の海を覗き込む。先ほどまでとは違い、海には黒々とした墨汁がなみなみと満たされている。筆は、嬉しそうに両手を擦り合わせた。

筆は硯の縁から身を乗り出し、再び海に頭から突っ込む。今度は、墨がたっぷりと毛に含まれた。

重くなった頭を持ち上げると、筆は嬉しそうに、ぶるん、と一振りした。その途端、筆の毛先からは真っ黒な飛沫がぱぱっと飛び散る。

飛んできた墨で汚れてしまった香炉が、怒って文台の前で飛び跳ねた。すると、几帳がそっと近寄ってきて、どこからか持ってきたぼろ布で優しく墨を拭い取ってやる。

肌が完全に白い色に戻った事で、香炉はとりあえず飛び跳ねるのをやめた。しかし、墨を付けられた恨みは別物なのか、未だに筆の方を睨むように見ている。

厳しい視線に、筆は困ったように頭を掻いた。その拍子に、またぱたぱたと墨が飛び散る。香炉からの視線が、より厳しくなった。

筆は困って、辺りを見渡した。下手に謝ったら、更に墨をまき散らして香炉の機嫌を損ねそうだ。ここは、別の切り口からこの場を何とか収めたい。

すると、文台の横で文筥がかたかたと音を立てた。筆が近寄ってみると、文筥は蓋を開け、中に収められていた物を筆に指し示してくる。

墨を垂らさぬよう、筆が恐る恐る中を覗いてみると、そこには幾枚もの紙が収められていた。色紙や懐紙、薄墨紙が分別されていないところを見ると、以前のこの文筥の持ち主はやや大雑把な性格であったようだ。

紙の束に、筆は嬉しそうに体を震わせる。その振動でぽたりと一滴墨が落ち、几帳が慌ててそれを拭った。

紙を汚さぬよう気を付けながら、筆は懐紙の束を取り出した。紙を文台の上まで運ぶと、頭を下げ、紙面に毛先を走らせる。筆の付喪神ならではの滑らかな筆致に周りの付喪神達は思わず見惚れた。香炉も、几帳によじ登って筆の動きを見守っている。

皆が見守る中、筆はすらすらと紙の上を動き、やがてとん、と動きを止めた。筆が紙の上から退いたのを見計らって、付喪神達は一斉に文台を取り囲み、紙を覗き込む。

そこには、美しく形の整った文字が、これまた美しい間隔で並んでいた。等間隔ともまた違う、文字を最大限に美しく見せる、考えつくされた間隔だ。

素晴らしいと言える出来栄えに、筆は胸を張って見せた。しかし、周りの反応は、いまいちぱっとしない。誰もかれもが体を捻り、困ったように隣の付喪神と視線を交わしている。

予想外の反応に、筆は困惑した。見れば、機嫌を取りたかった香炉すら、今では筆を睨むのを止め、困ったように他の付喪神達と視線を交わしている。

筆は考えた。必死に考えた。何を書けば、香炉や、他の付喪神達は喜んでくれるだろうか。

ぐねぐねと体を捻りながら考えているうちに、筆は自然と紙に毛先を走らせていく。もちろん、無意識のうちの行動だ。

その様子に、付喪神達は再び紙面をじっと見詰める。すると、やがて彼らはぷるぷると体を小刻みに震わせ始めた。中には、ばんばんと床を叩く物まである。

周りの様子が変わった事に気付いた筆は、はっと頭を上げた。そして、無意識のうちに書き綴った物は何かと確認する。

そこには、何という事はない落書きがあった。狐が後足だけで立ち上がり踊っている絵や、猫が烏帽子を被って月を眺めている絵。線はふらふらで、子どもの落書きと大差無い。

けれど、そんな絵を付喪神達は喜んでいる。屏風は床を叩き、角盥は体をゆさゆさと揺すり。香炉は几帳から滑り降り、飛び跳ねている。皆、楽しそうだ。

そこで筆は、閃いた。

頭に新たに墨を含ませ、紙面に毛先を載せる。湖面を走る舟のように、筆はするすると動いた。

筆の頭は縦に、横に、斜めに。直線も曲線も、時にはいくつもの点を。素早く、力強く、紙面に記していく。

最後の線を書き終わったところで、筆は頭を上げた。墨が乾くのをしばし待ち、紙の上辺を持ち上げる。

今まで筆が書いていた物が掲げられ、付喪神達はそれを目の当たりにして。

彼らは、熱狂した。

屏風は体全体を、大きく上下に揺さぶりながら床を叩いている。角盥は、体を揺すり過ぎて、夜露の残りを床にこぼした。震え過ぎた几帳は、帷がずれてしまっている。香炉は強く強く飛び跳ねて、天井まで届きそうなほどだ。

書かれているのは、何の事は無い。一人の女性の絵である。引目で、やや丸顔。黒く長い髪が美しい。

どちらかと言えば、どこにでもいそうな類の美人画だ。特段面白い要素は無い。

だが、この邸の付喪神達にとっては、特別な意味を持つ絵だったらしい。

鏡が、懐かしそうに己の顔を擦った。ゆするつきは寂しそうに、内側に手を突っ込んでいる。櫛笥(くしげ)が体を揺すれば中からかたかたと櫛が動く音がし、化粧筥は白粉を取り出して手にぺたぺたと塗り付けた。

どれも、女人特有の調度品達だ。この邸のかつての主を思い出したのかもしれない。

大いに盛り上がった付喪神達は文筥の中から紙を取り出しては、筆に差し出してくる。もっと何かを描いてくれ、という事なのだろう。

筆は快く紙を受け取ると、文台の上に敷いた。そして、紙を前にして腕組みをして見せる。

ぐりぐりと、毛先を捻じる。くしゃくしゃと頭を掻けば、またもやぱたぱたと墨が垂れ落ちた。

しかし、今度は床や文台を汚してしまう前に、几帳がぼろ布で受け止めた。咄嗟の素早い動きに、付喪神達は盛大な拍手を送る。筆も思わず、手を叩いた。

そして筆は何を思ったのか、どん、と新しい紙に力強く毛先を置いた。今までに無いほど勢い良く、荒々しく、筆は毛先を走らせる。周りを囲む付喪神達は、何事かと筆の様子を見守った。

やがて筆は動きを止め、付喪神達は紙が掲げられるのも待つ事ができないと言わんばかりにそれを覗き込んだ。

描かれていたのは、先ほどの几帳。墨を受け止めた時の素早さが伝わって来るかのような絵だ。

その迫力に、またも付喪神達は盛大な拍手を送る。だが、描かれた当の几帳は、恥ずかしそうに後ずさり、帳台の後へと隠れてしまった。

恥ずかしそうにしながらも、几帳は帳台の陰からちらちらと筆達の様子を伺っている。自分が描かれたのは恥ずかしいが、他の絵はもっと見たい、という様子だ。

そこで筆は、更なる絵の題材を探そうと、ぐるりと頭を巡らせた。だが、几帳が隠れてしまったためだろうか。付喪神達は、筆と視線が合いそうになる前に、ふい、とそっぽを向いてしまう。

どの付喪神達も、どこか恥ずかしそうにもじもじとし始めた。これでは、絵の題材になどできそうにない。

頭を掻き、三度墨がぱたぱたと垂れる。今度は、誰も墨を拭いに来ない。筆は仕方なしに、反故で墨を拭い取った。そして、文台から飛び降りる。

とん、とん、とん、と小気味良い足音を響かせながら走る筆を、付喪神達は何をするつもりかと見守った。

櫛笥の視線も、鏡に映った己の姿も、硯筥のかたかたという、呼び止めるような音も。全て無視して、筆はどんどん前に進んだ。

南庇を突っ切り、簀子縁を突き進み、庭に出る。その庭でも足を止める事は無く、草を掻き分けながら門へと向かった。

その行動に、流石に付喪神達はぎょっとする。夜とは言え、外は危険だ。

もし人に見付かり、騒ぎになってしまったらどうする? もしそれが原因で、この邸を取り壊されてしまったら?

いやいや、それならまだましな方だ。もし外で陰陽師にでも遭遇したら、それこそ一巻の終わりになってしまう。陰陽師だって人間だ。夜這いて夜の京を歩いている事とてあろう。

止めてやりたいが、怖くて門の傍には近寄りたくない。付喪神達は、互いに体を突き合い始めた。しかし、誰も止めに行こうとはしない。

そうこうしているうちに、筆は門の外へと出てしまった。小路に足を踏み出した筆は、何か絵の題材になりそうな物は無いかと、必死に辺りを見渡してみる。

しかし、物が溢れている邸内で見付からなかった題材が、外――それも夜の京で、簡単に見付かる筈が無い。

筆は次第に当初の勢いを失い、がっかりとした様子でとぼとぼと邸への道を戻り始めた。

意気消沈して門を潜ろうとした、その時だ。どこからか、懐かしい声が聞こえてきた。

懐かしいと言っても、筆の知る人物の声、というわけではない。それは、賑やかな邸であれば、きっと一度は邸内に響いた事があるであろう声。力強く、しかし不安に包まれている、湿り気のある叫び声。

童子だ。童子の泣き声が、どこからか聞こえてくる。

はっきりとはわからないが、恐らく子の刻はとうに過ぎている。童子が外をうろついていても良いような刻限ではない。

泣き声は、いつまで経っても止む事が無い。筆はおろおろとしながら、小路をあちらこちらと走り回った。

そして、見付けた。邸と邸の間。築土(ついじ)と築土が隣り合う狭い隙間に、童子が一人、座り込んで泣いている。

歳は、五歳か六歳といったところか。辺りに、大人の姿は見当たらない。

はぐれたまま、この刻限になってしまったのか。何かの拍子で家を飛び出し、道に迷ってしまったのか。他に何か理由があるのか。わからないが、とにかく今、この童子はこの暗く狭い場所で独りきりの様子である。

何か、できる事は無いかと。泣きじゃくる童子の元に、筆はそっと近付いた。すると、筆の気配を感じ取ったのか、童子が泣き腫らした顔を上げた。

童子の視線が、筆の姿を捉える。筆は、凍り付いたように動けなくなった。





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昼間、童子は家人に連れられて、西の市へと出掛けた。多くの店、多くの人に興奮し、いつもよりも気分が高揚していた事は、覚えている。

だからだろうか。家人の手を離してしまった。その結果、人ごみに揉まれて、はぐれてしまい。おまけに、野良犬と目が合ってしまったのだ。

犬に追いかけられ、童子は走った。走りに走り、逃げ続け。いつしか、ひと気の無い場所に出て。

気付けば、人っ子一人見当たらない、荒れ果てた邸が並ぶ小路にいた。犬に見付からないよう、築土と築土の間に、身を隠す。

やがて日は落ち、辺りは暗くなってゆく。次第に空気は冷え、昼間とは違う静けさが童子に襲い掛かってきた。

心細さと寒さから童子は身をすくめる。しかし、それで何かが解決するわけではなく。むしろ、ますます心細さが募って。

童子の咽から、嗚咽が漏れた。しゃくり上げるようなそれは、次第に激しくなり。

やがて童子は、大きな声で泣き出した。大粒の涙をぼろぼろと溢し、わんわんと大きな声で。

そうしているうちに、一体どれほどの刻が経っただろうか。ふと、自分を見詰めている気配に気付き、童子は顔を上げた。すると、そこには。





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丸くなった目で、童子はじっと筆を見詰めている。涙は引っ込み、その瞳には好奇心が満ち満ちている。

筆は思わず、一歩、二歩と退いた。すると何を思ったか童子は立ち上がり、筆に歩み寄ろうとする。

筆が一歩退く。童子が一歩近寄る。それを何度か繰り返し、筆は遂に逃げ出した。童子に背を向け、一目散に走り出す。それを追って童子も懸命に駆けだした。

追手は童子とはいえ、体格差がある。筆が逃げても逃げても、差は一向に広がらない。それどころか、狭まっていく。遂に筆は追い付かれ、それと同時に元居た邸に辿り着き。結果的に筆は、童子と共に邸の中へと入る事となった。

驚いたのは、邸で筆の帰りを心配して待っていた付喪神達だ。人間に見付かる事を心配してはいたが、まさかこのような深夜に童子を連れてくるとは思いもしなかったのだろう。

身舎の中で蠢く付喪神達に、童子はますます目を丸くした。そして、付喪神達と筆とを、遠慮がちな目で交互に見比べる。

筆は諦めたように軽く首を振り、覚悟を決めたように体を強張らせた。それと同時に、身舎を指差して見せる。

童子はぱっと顔を輝かせ、小さな足を懸命に動かして東対屋へと駆け寄った。簀子縁に上がる前に、ぱたぱたと袴をはたき、埃を落とす。草履を脱いで、簀子縁へと上がった。お行儀が良い。

上がり込んできた童子を、付喪神達は最初のうちこそ恐る恐る眺めていた。だが、やはり好奇心には勝てぬものらしい。

まずは、香炉が興味津々といった様子で、童子に近寄った。童子が怯える様子も乱暴をする様子も見せないとわかると、他の付喪神達も、我も我もと近寄っていく。結局、邸内のほとんどの付喪神達が童子を取り囲むような形になってしまった。

多くの付喪神達に取り囲まれた童子は、賑やかになったのが嬉しいのか、にこっと笑った。その笑顔に心をくすぐられたのだろうか。几帳がばたばたと塗籠(ぬりごめ)に向かい、紅梅色の衵(あこめ)を引っ張り出してきた。それを寒くないようにと、童子にかけてやる。

すると、今度は対抗するように高坏が雑舎(ぞうしゃ)の方へと駆けていく。元々食事を盛るための道具であるから、帰った、という方が正しいのか。

そして、再びやってきたかと思うと、その上には粉熟(ふずく)にまがり、椿餅(つばいもち)、煎餅(いりもち)に索餅(さくべい)と、唐菓子を山のように盛っている。

ただし、どれも付喪神と化している。しかも、これらが菓子の付喪神なのか黴の付喪神なのかは、判然としない。

几帳が高坏をぺしりと叩き、すぐに元の雑舎へと戻させた。しかし、菓子だか黴だかの付喪神達は、雑舎に戻しても自力でやってきてしまう。

諦めたように、几帳は童子の背後、壁際を指差した。いるなら、童子が誤って口にする事が無いよう、目につかぬ場所にその身を置け、という事のようだ。

菓子だか黴だかの付喪神達が素直に移動するのを見届けると、今度は櫛笥と香炉が、塗籠の方へと向かっていく。香炉が、その前で思い切り飛び跳ねた。

すると、中からぞろぞろと、長らく仕舞い込まれていた楽器達が姿を現した。琵琶に楽箏(がくそう)、篳篥や笙に加えて、龍笛や鞨鼓(かっこ)の姿も見える。

楽器達が動くと、その都度巻き起こる風によって弾きものの弦が鳴り、吹きものは半端な音を立て、打ちものはびりりと震える。

賑やかに……いや、むしろ騒々しく、楽器達は童子の前に並んだ。日頃見慣れていないのだろう。童子は、目を瞬いている。

反応の薄い童子に、不満を抱いたのだろうか。楽器達が、視線を交わし合った。頷き合い、各々が其々の腹に、背に、手を回して構える。筝、琵琶、鞨鼓は、どこにあったのか撥や桴、爪を持っていた。

じゃん、と筝の弦が掻き鳴らされた。それに合わせるように、琵琶もべべん、と音を放つ。鞨鼓のかかん! という音が、空気を震わした。

童子が、はっと息を呑む。童子だけではない。全ての付喪神達が動きを止め、楽器達に視線を遣った。

じゃんじゃんじゃじゃじゃん、べべんべんべん、かん! かん! かかん! べべんじゃん!

音の打ち合わせと言うには激しく弦が掻き鳴らされ、空気がびりびりと震える。激しく繰り出される音に、その場にいる者達の視線は釘付けだ。中には、筝達の奏でる音に調子を合わせて体を揺すっている付喪神もいる。童子は口をぽかんと開けながらも、どこか楽しそうだ。

ところで、力強く手を動かす筝達の陰に隠れて、篳篥、笙、龍笛は所在なさげにしている。それもそのはずで、吹きものである彼らは、人間がいなければ音を出す事ができないのだ。

音を奏でる場であるのに。自分達は楽器であるのに。それなのに音を出す事ができない。それが無念で仕方が無い、という様子だ。

打ちひしがれている吹きもの達に気付いたのか。童子が立ち上がり、ととと……と彼らに近寄った。篳篥達の前に立つと、励ますように撫でてやる。

それが嬉しかったのか、くすぐったかったのか。篳篥達は揃って、ぶるる、と体を震わせた。その振動で、ぷひっという短い音が飛び出し、寸の間、一同は言葉を失った。

そして一呼吸分の間を置いて、皆がどっと体を揺すり出す。鞨鼓は楽しそうにかかかん、と桴を打ち鳴らし、筝と琵琶は弾いてもいない弦がびいんびいんと震えている。香炉はころころと転がり、几帳と屏風はばたばたと風に煽られるように揺れ動いた。菓子だか黴だかの付喪神達も、ぼっふぼっふと飛び跳ねている。直後、几帳に睨まれて大人しくなった。騒ぐ付喪神達の様子に、童子もにこにこと笑っている。

その楽しげな、宴のような様を、筆はさらさらと描き綴った。自ら己を奏でる楽器達も、転がる香炉も、揺れ動く几帳や屏風も、飛び跳ねて怒られる菓子のような黴のような物も。それを見て楽しそうに笑う童子も。

この楽しい刻を忘れぬように、などと考えていたわけではない。ただ、楽しくて。楽しそうな彼らを描くのが楽しくて楽しくて仕方が無くて。筆は無我夢中で、紙の上を動き回った。





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りいりいと、虫が鳴いている。秋の夜風にくすぐられ、付喪神達は目を覚ました。

燈台がもぞもぞと動き、身舎の中に今宵も火が灯る。温かい光に照らされた室内を、筆はぐるりと見渡した。

昨夜の宴の様子がはっきりと思い出せるほど、室内は散らかり果てている。衵を初めとして衣類は散乱しているし、結局あちらこちらとうろついたらしい菓子だか黴だかの付喪神達は室内の至る所に転がっているし、昨夜の騒ぎで精根尽き果てたらしい楽器達は未だにぐったりと横たわっている。

そして、昨夜筆が描き散らした多くの絵は、敷物のように床一面に広がっていた。筆はがくりと項垂れると、億劫そうに散った絵を集めて歩く。時折白い紙を見付けたら、文筥に戻した。

気付けば山のようになってしまった絵を前に、筆は一旦動きを止める。ふと、掻き集めた絵の中の一枚に、視線を吸い寄せられた。

昨夜の様子を描いた絵。何枚もあるうちの一枚だ。中央には、付喪神達に囲まれて楽しそうに笑う童子が居る。

目を覚ました時、童子は既に邸の中にはいなかった。朝になり、無事に帰る事はできたのだろうか。心配ではあるが、童子の名も家も知らぬ以上、その後の安否を知る術は、無い。

ふと、思い立ち。筆は文筥から、戻したばかりの紙を一枚取り出した。次に、硯の海に辛うじて残っていた墨汁を毛先に含ませると、とん、と紙の上にそれを置き、走らせる。

すらすらと、流れるように動く筆の毛先は、紙上に新たな絵を生み出していく。

まず、あの童子が描かれた。満面の笑みを浮かべた、幸せそうな童子だ。

次に、美しい髪の、優しそうな面立ちを持つ女人を、筆はためらいも無く描いた。この女人は、あの童子の母親だ。もちろん、本当にこんな顔なのかはわからない。全て、筆の想像だ。

この絵のように。今この刻、童子が親しい者に囲まれ、幸せそうに笑っていますように、と。

祈りながら、筆は懸命に、毛先を走らせた。





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朝陽の光に瞼をくすぐられて、童子は目を覚ました。

辺りには、たくさんの道具、楽器、それに黴の生えた唐菓子が散らばっている。どれにも手足は無く、動き出す様子は無い。

昨夜の事は夢だったのだろうかと、童子は首を傾げた。首を巡らせて、下を見て。童子は目を丸くした。

床一面に、大量の紙が散らばっている。そのほとんどに、絵が描かれているようだ。童子は、一枚を手に取った。

手足の生えた道具達。楽しそうな宴の様子が、描かれていた。隅の方には、童子の姿も見える。

その絵と、辺りに散らばっている道具達を、童子は交互に見た。見ていると、次第に笑みが顔に広がってくる。

邸の外から、声が聞こえてきた。よく知った声。童子を、名を呼びながら探している。

絵を懐に入れると、童子は返事を叫びながら、南庇を横切り、簀子縁を渡り。そして、元気良く階を駆け下りた。













(了)












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【参考文献】
池田亀鑑『平安朝の生活と文学』筑摩書房
石村貞吉『有職故実(上下)』講談社
太田博太郎『新訂図説日本住宅史』彰国社
河鰭実英『有職故実改訂版』塙書房
鈴木敬三『有職故実図典―服装と故実―』吉川弘文館
高橋節子『和菓子の魅力―素材特性とおいしさ―』建帛社
長崎盛輝『新版日本の伝統色―その色名と色調―』青幻舎
西川幸二、高橋徹『京都千二百年(上)平安京から町衆の都市へ』草思社
西川浩平『カラー図解和楽器の世界』河出書房新社
村井康彦監修『源氏物語の雅 平安京と王朝びと』京都新聞出版センター

【参考URL】
風俗博物館
http://www.iz2.or.jp/top.html

YouTube「雅楽を楽しむ」楽器の紹介
その一「篳篥」
http://www.youtube.com/watch?v=iNUEa_cwr04
その二「龍笛」
http://www.youtube.com/watch?v=FFd5ex2KjJY
その三「笙」
http://www.youtube.com/watch?v=0W8A6n0OgkQ
その四「打楽器」
http://www.youtube.com/watch?v=lccxrLXINEQ
その五「琵琶」 
http://www.youtube.com/watch?v=l6QmKg81PLs
その六「箏」 
http://www.youtube.com/watch?v=7qulCcjROw8