精霊蝉
「なんでこんな事になってるんだ……」
目の前の光景を見詰めながら、俺は呆然として呟いた。
蝉の抜け殻がある。
それも、一つや二つではない。百個……いや、百なんて数では生温い。下手したら千個はある。
何で見ただけで千個ぐらいあるとわかるのかと言えば、集めてきた張本人が、丁寧に畳の上に並べているからだ。
ちゃんと数えたわけではないが、畳の短い辺に沿って、多分二十個ぐらい。それが、畳一枚を少しはみ出すぐらいまで列を成している。多分、五十列ぐらい。だから千個ぐらいだろうと思う。
台所を見れば、妻が物陰に隠れながらこちらの様子を窺っている。蝉そのものじゃなく、抜け殻でも怖い人は怖いらしい。
「……愛斗、どうしたんだ、この抜け殻?」
恐る恐る集めてきた張本人――息子の愛斗に問うと、愛斗は振り向いて「あっ」と顔を綻ばせた。
「おとうさん、おかえりなさい!」
「あぁ、ただいま。……で、この抜け殻……」
「すごいでしょ? 僕が全部集めたんだよ!」
それはまぁ、すごい。何しろ、推定千個の蝉の抜け殻だ。いくら最近、辺りで狂ったように蝉が大合唱をしていたとはいえ、これだけの数を集めるのは簡単ではなかっただろう。
……というか、いつの間に集めたんだ。蝉が鳴くようになってから、まだ一ヶ月は経っていないぞ、多分。一日二十個集めたとしても、ここまで集まらないぞ?
そして、今までどこに仕舞ってあったんだ。
そう訊いたら、愛斗は誇らしげな顔をして言った。
「公園とか、道路で拾ったんだよ。あと、旅行に行った友達にも頼んで、たくさん拾ってきてもらったんだ! お礼に、ダブったカードをあげたり、ダンゴ虫を集めるのを手伝ったりしたんだよ!」
全部自分で集めたわけじゃないじゃないか……というツッコミは入れまい。息子が立派に物々交換を身に付けている……。どこのご家庭かわからないけど、ダンゴ虫を集めた子の親御さん、今頃卒倒してないと良いんだけどな……。
「……これ、今何個ぐらい集まってるんだ?」
「んーとね。今数えてみたら、九百九十九個あった! 千個あったら何か強そうだし、もう一個見付けたいな!」
お前は弁慶か。
「……で、これだけ集めて、どうするんだ?」
「夏休みの自由工作! 抜け殻を接着剤で繋ぎ合わせて、でっかい蝉の抜け殻を作るんだ!」
材料の抜け殻が千個もあったらそれなりに大きな物が作れてしまいそうな気がするが、どうやって運ぶ気だろうか。そして、運べたとして、教室にそれを置ける場所があるんだろうか。
……いや、まず我が家でも夏休みが終わるまで置いておく場所があるか疑問なんだが。妻の方を見れば、勢いよく首を横に振っている。……うん、置き場は無さそうだな……。
「あのな、愛斗。その抜け殻で大きな抜け殻を作るというアイデアは面白いと思うんだけどな? 作ったら、夏休みが終わるまでどこに置いておくんだ?」
台所とリビング、寝る部屋は駄目だぞ。そう釘を刺すと、愛斗はぽかんと口を開けた。やっぱり考えてなかったか。……と、思いきや。
「仏壇の前!」
元気の良い答えが返ってきた。
……たしかに、今年の頭に他界した親父――愛斗にとっては祖父が使っていた部屋には、仏壇が設置されている。その前であれば、なるほど、スペースはある。
ただし、誰もいない部屋、仏壇の前に、蝉の抜け殻を千個繋いで作った蝉の抜け殻が鎮座していたら、それはそれは怖い光景だろうと思う。恐らく、妻がこのスペースの事を言い出さなかったのもそれが理由だろう。
……あ、いや待て。仏壇の前、いつもはスペースがあるけど、今は駄目だ。お盆の準備で、色々と置いてある。
「……仏壇の前、ちゃんと見たか? 今は色々置いてあるだろう?」
「キュウリやナスに割りばし刺した奴でしょ?」
間違っていないけど、他に言いようがあるんじゃないだろうか。……いや、小学校三年生じゃ、難しいか。
「精霊馬な。あれは、今の時期は置いておかなきゃいけないものだから、どかしちゃ駄目だぞ? あれが無いと、じいちゃんがうちに遊びに来れなくなっちゃうからな?」
お盆は死んだ人が家に戻ってくる、という説明は、前に簡単に説明した事があったと思う。精霊馬に乗って帰ってくる事も話したはずだ。
「知ってるよ? けど、キュウリの馬の代わりに、蝉で帰ってこれば良いんじゃないの?」
そうきたか。
精霊馬ならぬ精霊蝉で帰ってこい、と。そういう事か。
「いや、でもなぁ……帰る時に、自分だけでっかい蝉の抜け殻が待ってたら、じいちゃん、びっくりしちゃうんじゃないか?」
そう言うと、愛斗は「それで良いんだよ」と言った。
「びっくりして、それできっとその後、じいちゃん大笑いしてくれるよ! 面白いいたずらをするの、大好きだったから!」
じいちゃんが大笑いしてくれたら、嬉しい。
そう、愛斗は言った。
……あぁ、そうだよな。
愛斗が最後に見たじいちゃんの姿は、病院のベッドで、管だらけで。痩せて小さくなっちゃって、苦しそうな姿だったもんな。
いつも笑って遊んでくれる、時には一緒にいたずらしてくれる、じいちゃんが大好きだったもんな。あの姿が最後になるのは、辛かったよな。
また、笑ってる顔が見たい、って思うよな。
そう思ったら、もう、何も言えなくなってしまった。……いや、言える事は、ある。
「……わかった。そう言うなら、頑張ってじいちゃんが大笑いしながら乗ってくれそうな奴を作ってみろ。上手くいかない事があったら、手伝ってやるから」
「本当?」
目を輝かせて俺を見上げる愛斗に、俺は「あぁ」と頷いた。そして、今にも飛び跳ねだしそうな愛斗に、苦笑しながら言う。
「とりあえず、その抜け殻は一旦仕舞ったらどうだ? 蝉の抜け殻なんて、踏んだら絶対壊れるぞ? 作るのは、夕ご飯を食べてからだ」
「うん!」
機嫌よく返事をすると、愛斗は約千個ある抜け殻を丁寧にお菓子の空き箱に仕舞い始めた。
その様子を満足そうに眺めていると、ぽん、と俺の肩を叩く者がある。振り返ってみれば、妻だ。顔が、どこか引き攣っている。
……あ、やばい。愛斗の前で恰好付けたは良いものの、妻の意見を何一つ聞いていなかった。愛斗のためとはいえ、普段家の片付けや掃除をしてくれている妻がどう思うかを確認しなかったのは、よろしくない。
そう思った時には、もう、遅い。
「……あなた。寝る前にちょっとお話しが」
あぁ、これは勝手に色々と決めてしまった事を後で説経される奴だ。
蝉の抜け殻作りの許可を出した事を早くも後悔して。同時に、嬉しそうな愛斗の姿や、一緒に工作する時間を作れるかもしれない事に喜びも感じて。
複雑な気持ちを抱え、苦笑しながら。俺は妻に向かって「はい」と小さな声で返事をした。
(了)