死絵馬・裏








想いを寄せていた人が、死んだ。それも、突然。

何の兆候も無かったのかと言われても、よくわからない。ここのところ、随分と肩がこっているようではあったけど。

聞いた話では、それが原因かもしれないという。死因は、窒息。首を絞められた跡は一切無かったが、首の筋肉が強張っていたという。肩こりか何かが原因で首の筋肉が引き攣り、呼吸困難になったのではないか……と誰かが言っていた。

今となっては、彼女の死因などどうでも良い。俺にとっての問題は、彼女がこの世からいなくなってしまったという、ただその一点だけで。

葬式が終わって数日経っても持ち直す事はできず、食欲は落ち、睡眠も満足に取れなくなった。

こんな世界で――彼女がいない世界であと六十年近くも生きるなんて、むなし過ぎる。

それなら、死んだ方がマシだ。

そんな事を考えながらぼんやりと町の中を歩いていた、ある休日。気付けば俺は、鳥居の前にいた。

おかしな鳥居だ。漆でも塗ったように真っ黒で、近付くと寒気がする。

そんな鳥居には、「死別神社」と書かれた額がかかっていて。不吉な名に、寒気が強まった。

通り掛かりの犬が、鳥居に向かって吠える。だが、その飼い主は「そこには何も無い」などと言いながら、犬を制しているではないか。

この神社は、本来ならそこにあるべきではない存在なのではないか? そんな考えが、頭を過ぎる。

しかし、どうした事だろうか。ここまで怪しく、寒気を感じるほどだというのに、この黒い鳥居に吸いつけられたように目を逸らす事ができない。

いつしか俺は、初めからそのつもりであったかのように、ふらふらと黒い鳥居をくぐっていた。





  ◆





不吉な名前から警戒していたが、鳥居の向こうは普通の神社と何ら変わりがない。手水舎の水は綺麗だし、境内は丁寧に掃き清められている。人の気配が全く無くて静かなのも、マイナーな神社ならよくある事だ。

鳥居をくぐったからには……と、とりあえず形ばかりの参拝を済ませて、境内をぐるりと歩いて回る。

そして、授与所らしき建物に近付いた時、俺はおかしな物を見付けた。

……いや、おかしいと言うのは語弊がある。会社や塾で名前のプレートをかけておく名札かけのような……そんな板が授与所の裏の壁にかかっていた。おかしな物ではないが、神社にあるのはどことなく違和感がある。

板には何本もの釘が綺麗に並べて打ちつけられていて、下から二段目までは全ての釘に一枚ずつ木の札がかかっている。一番下の段だけ、まだ札のかかっていない釘が何本かあった。

木札には全て誰かの名前が書かれている。そして、どうやらこの木札は右から左、上から下へ、という決まりがあるらしい。何もかかっていない釘は、全て左端だ。つまり、一番下の段の一番左にかかっている札が一番新しい札という事になる。

その一番新しい木札を見て、俺はハッと息をのんだ。

一番新しい札に書かれているのは、知っている名前だった。それも、俺がこの神社に来るまでの間、ずっと想っていた人の。

想いを寄せていた人。同じ会社で働いていた、つい先日亡くなってしまった、あの人の名前。

ざわりと、胸が騒いだ。

何故、こんなところにあの人の名前が書かれている?

この木札は何なんだ?

この神社は、何なんだ?

胸がざわざわと騒ぎ、それに呼応するように辺りの木々がざわざわと揺れる。

ざわざわ、ざわざわ、ざわざわ、ざわざわ。

そのざわめきに混じるように、次第に自然の音とは違う音が。

ケケケケケ……ケケケケケ……。

甲高くて、耳障りな音。……声、だろうか。嘲るような笑い声。聞いていて、落ち着かなくなる。

『教えてやるか?』

『教えてやって何になる?』

『教えてやった結果、どんな顔をするのか見てみたい』

『なるほど。なら、教えるか』

『あの木札に名を書いて吊るせば、冥府に迎え入れられると』

『あの女は、自ら札に名を書き、吊るしたと』

『この社は、死を望む者だけが訪れる事ができるのだと』

耳障りな声が、頭の中でぐるぐると巡る。

死を望む者だけが訪れる事ができる神社? たしかに俺は、死んだ方がマシだとか思ってはいたが。

彼女が自ら死を望んだ? 言われてみれば、一時期彼女は酷く落ち込んでいる様子の時があったかもしれない。

木札に名を書いた? 札に名を書いた者は……? じゃあ、彼女が死んでしまったのは……。

ふらりと、木札を吊るしてある板に近付いた。そして、手が動くに任せて、彼女の名が記された木札を外し取る。

木札に書かれているのは紛れもなく彼女の字で、それを見詰めているうちに涙が出た。

「……っ!」

感情を抑えきれず、木札を地面に叩き付ける。そして、何度も何度も、足で踏み付けた。

この木札が、彼女を殺した。何故こんな物がある。自分は、何故彼女が死にたがっていた事に気付けなかった。一体、自分は彼女の何を見ていたんだ。

あたるように、何度も何度も、木札を踏み付けた。木札は砕け、粉々になり、もはや誰にも直せないであろう程細かくなる。

どれほどの間、そうしていただろうか。粉々になった木札を前に呆然と荒い息を吐く俺の耳に、またあの耳障りな声が聞こえた。声は、またあの笑い声を発している。

ケケケケケ……ケケケケケ……。

『あーあ』

『壊した』

『壊した』

『札を壊したぞ』

『これでもう、あの女は救われない』

彼女が救われない? どういう事だ?

声は、実に楽しげに語らっている。

『あれを死絵馬などと呼ぶ人間もいるが、あれは絵馬じゃない』

『冥府の籍だ』

『鬼籍の名札かけだからな』

『あの女は、自ら鬼籍に名を入れた。だから死んだ』

『その札を、こいつは取り除いた。鬼籍から除籍させた』

『死体が残っていりゃあ、生き返ったかもしれないけどなぁ』

『とっくに火葬済みだ。鬼籍から除籍された女の魂は冥府にはいられないし、生き返る事もできない』

『永遠に、あの世にもこの世にも戻る事ができずに、彷徨う事になるんだろうなぁ』

『かわいそうになぁ』

『かわいそうになぁぁぁ』

ケケケケケ……ケケケケケ……。

彼女の魂が、永遠に彷徨う? 俺が木札を壊したせいで?

今度こそ、俺は完全に絶望した。

好きな人に先立たれるだけでなく、その好きな人を永遠に苦しめる事になってしまうなんて。

もう、どうすれば良いのか、俺にはさっぱりわからない。

わからないままに、俺は授与所の軒先に置かれた木札を一枚手に取り。そして、俺の名前を書いた。










(了)













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