龍の白無垢


 むかーしむかしの、そのむかし。あるところに、龍の一族が治める国があったそうな。

 龍が治めるその国は、興った当初から雨に困る事が無く、川にはいつでも清い水が流れ、その水のお陰で作物は毎年豊かに実っておったとか。

 人々はそれを、龍神様をお上に頂いているお陰と考え、国の外で会う人会う人尽くに誇らしげにそれを語っておったんだとさ。

 そしてそれを聞いた他国の人は、龍神様が治める国を羨むやら妬むやら。自らの国に帰ると友人や知人に語って聞かせ、「何か裏があるに違いない」と悔しそうに腐しておったとか。

 龍神様が治める国の話は次から次へと人々の口の端に上り、いつしかその国の事を知らぬ者はこの世にはおらぬであろうほど有名になっていたそうな。

 人々の口の端に上った話題はいくつかあったが、特に人々の興味を誘ったのは、この国の姫君方の事であったとか。何でも、龍神様の治める国から姫君を嫁御として迎えた国は、姫君のお里同様、雨に恵まれた土地になるのだという。

 干ばつに悩まされていた国々は、こぞってこの国に縁談を持ちかけたであろう事は、誰しもが考えるところ。誰もが龍の姫君を迎え入れるため、競うようにして使者を送り込んでいたそうな。





  ◆





「そなたも聞いておろう? 龍の国の三の姫が年頃となり、縁談相手を探しておるそうじゃ。音に聞く、雨に恵まれる嫁御は我が国としても手に入れたいところだが……一の姫、二の姫の時は他の国に取られてしもうた。そこで、だ。辰之輔、そなた龍の国へ赴き、何としてでも三の姫を嫁に貰ってまいれ。姫に見初められなんだら、力尽くでも攫ってこい。この命を果たせなんだら、この国に七男坊(部屋住み)であるそなたの居場所はなくなると思え。良いな?」

 実の父である国主にこう言われ、自国を旅立ち早数日。目指す〝龍の国〟を目前にして、辰之輔は深いため息を吐いた。

 嫁を取ることに依存は無い。例え七男坊で、特にお役目があるわけでもない部屋住みで、嫡男である長兄は既に幾人も男子を授かっていて、家督が巡ってくる可能性は皆無と言っても良いような立場であろうとも。それでも辰之輔は国主の子だ。万一に備えて国主の血を引く子を一人でも多く増やそうという父の考え方は、理解できる。

 龍の国から嫁を迎えたいというのも、わかる。辰之輔の国は、過去何度も干ばつに苦しめられている。真偽が定かではなくとも、龍の国から姫を嫁に迎えれば雨に恵まれる、という噂には縋りたくもなるだろう。

 他にも兄弟がいる中で辰之輔が選ばれたのは、縁談相手を探しているという三の姫と歳が近いから。そして、体が丈夫で剣の腕にもまぁまぁ覚えがあり、費用を抑えるために護衛無しで旅に出しても危険は少ないであろうから。そして、もし危険な目に遭っても躊躇わずに切り捨てる事ができる七男坊で、部屋住みの身だから。

 全て、納得した上で出立した。だが、ただ一つ。たった一つだけ、納得も割り切る事もできずにいる想いがある。

 辰之輔が三の姫を娶る事ができたら。その時、父はきっと姫を奥座敷に幽閉するのだろう。恐らくは、辰之輔も共に。

 雨の恵みを得るために三の姫を欲しがってはいるが、父には三の姫を大切に扱おうという考えは全く無い。それどころか、龍であると言われる、三の姫やその一族を、話を聞いただけで気味悪がっているきらいがある。

 そうでなければ、雨をもたらしてくれる姫を、七男坊で部屋住みの嫁に迎えようなどと考えるものか。嫡男である長兄か、なんなら国主である父自身の側室……いや、何なら正室である母や義姉を廃して、姫を正室に迎え入れるぐらいしても良いはずだ。それほどまでに、辰之輔の国は雨の恵みを欲している。

 ……にも関わらず、そうしなかった。恐らく父も長兄も、三の姫──龍の娘をあまり重要な地位に置きたくないのだろう。

 正室かそれに準ずる扱いをするならば、後々姫が男子でも生んだりしたら非常に面倒な事になる。母や義姉の実家との関係はどうなる事やら。それに、龍の血を引く子が万一にも後を継いだりしたら、最終的には国を乗っ取られるのではないか?

 恐らく、そんな思いがあるのだろう。だが、それで雨の恵みを諦めるわけにはいかない。その結果思い付いたのが、七男坊で国益の面から見れば特に価値の無い辰之輔の嫁として姫を迎え入れようというものだったのであろう事は想像に難くない。

 そこまで考えて、辰之輔は再び深いため息を吐いた。

 もし彼の求婚が成功すれば、三の姫は辰之輔の嫁となる。そして、彼の国で冷遇され、雨を降らせるためだけに生きる人生となるのだろう。己の行動故に人一人の人生を暗いものにしてしまうのだと思うと、気が重い。

 かと言って、姫への求婚を失敗すれば辰之輔は国に居場所を失ってしまう。腕に覚えはあるものの、辰之輔はまだまだ弱輩者。居場所を失う事への恐怖は、否めない。

 そうして、どうすれば良いのかわからずにダラダラと歩いていた旅路も、あと少しで終わる。

 もうこうなったら、覚悟を決めるほかあるまい。龍の国の国主に何とか謁見して、三の姫への結婚を申し込んで。受け入れられるようなら、その朗報を持って帰国。姫の人生が暗いものにならぬよう、辰之輔が姫を守る。逆に求婚を拒まれた場合は……いっそ、この国で働き口を求めてみようか。下働きでも構わない。居場所のない祖国で後ろ指を指されながら生きるよりはマシと言えよう。

 方針が定まったところで、心を落ち着けるために一度大きく深呼吸をする。そして、いざ! と意気込んで一歩踏み出した、その時だ。

 ガサガサと、脇にある茂みが揺れた。辰之輔はすぐさま腰の刀に手をかけ、身構える。

 音から察するに、茂みを揺らしているものはそれほど大きくない。うさぎ……いや、それよりはもっと大きい。しかし、鹿ほど大きくもない。それらから考えると、恐らく茂みを揺らしているのは……。

「……子ども?」

 呟いた途端に、それが正解であるとでも言うように子どもが一人、茂みの中から飛び出してきた。年の頃は、十かそこらだろうか。着ている物は綺麗とは言い難いが、襤褸というほどでもない。顔の造作からして女児のようだが、男児のように着物の裾を絡げて足を露わにしている。随分と活発な子どものようだ。あちらこちらを飛び回った末、このように着物が汚れてしまったのだろう。

「お侍さん、見ない顔だね。この道を来たという事は、南隣の石鹿(せきか)の国か、更にその南にある煙鵠(えんこく)の国のお人かい?」

 問われて、思わず「煙鵠からだ」と正直に答えてしまった。物怖じしない態度のせいだろうか? この子ども、初めて会ったとは思わせぬほど話しやすい雰囲気を纏っている。もしやよからぬ考えを持つ者を国内に入れぬために龍の国が放った間者ではないだろうかと疑ってしまうほどに。

「煙鵠かぁ。煙鵠はここ何年か、旱の年が多いってね」

 目的を見透かされたようで、辰之輔はドキリとした。探りを、入れられているのだろうか。

 顔を強ばらせた辰之輔に、子どもはケラケラと笑い出した。

「何を警戒してるんだい? 隠す必要なんか無いよ。ここ幾月か、よその国から来たお人の目的は皆、判で押したようにうちの三の姫との婚姻だったからね。三の姫がそろそろ婚期を迎えるって話が近隣に出回った途端に同じような目的の来訪者が増えて、国主殿が〝いい加減飽きた〟とぼやいている、なんて話が市井にまで出回ってくるぐらいさ」

「そっ、そうなのか……」

 子どもの話に、辰之輔は絶句した。競う相手は多かろうと思ってはいたが、まさか国主がぼやくほどだとは。そんな状況で、一体どうやって求婚すれば姫や国主の興味を惹くことができるというのか。

 頭を両手で抱え天を仰いだ辰之輔を見て、子どもは「あらら……」と呟きながら少しだけ顔を曇らせた。そして、辰之輔に向かって「大丈夫かい?」と声をかける。

「実は、結構前からお侍さんの事を見てたんだけどさ。ずーっと難しそうな顔をしてるし、時々ため息つくし。どこか、具合でも悪いのかい?」

 子どもに心配されてしまっては、武士の面目丸つぶれだ。辰之輔は首を横に振りつつ、子どもから視線を逸らした。

「いや、大事ない。ただ、目の前にある試練をどのように乗り越えれば良いのかわからず、途方に暮れていてな。何か良い手が思い付けば、心も晴れるのであろうが……」

 子どもは、「ふぅん」と小さく呟いた。わかるようなわからないような、という顔だ。そして、彼女なりに辰之輔を元気づけようと思ったのだろうか。「そうだ!」と元気よく叫ぶと、辰之輔の手首を掴んで引っ張った。

「なっ……なんだ!?」

「ちょいと着いてきておくれよ。元気になれそうなもの、お侍さんに見せてあげるからさ!」

「元気になれそうなもの? ……おい、待て。引っ張るな! そなた……」

 抗議の言葉を紡ごうとした辰之輔を、子どもはぐいぐいと引っ張って行く。見掛けによらず力が強くて、鍛えている筈の辰之輔が彼女の手を振りほどく事ができない。そして、引っ張られているために喋る事もままならない。背の低い子どもに引っ張られる事で、身体はガクガクと上下に動いている。下手に口を開いたら舌を噛みそうだ。

 子どもはいくらか歩いたところで、今度は急に歩みを止めた。ただでさえ子どもの身長に合わせて屈められていた辰之輔の身体が、急停止のためにつんのめる。

 さすがに叱りつけた方が良いだろうか、と考えながら渋面を作った辰之輔に、子どもは「言うのを忘れてた」と笑いながら言った。

「俺の名前は、玉(たま)。俺の事を呼ぶ時は、そなたじゃなくて玉って呼んでくれないかい?」





  ◆





 茂みを掻き分けると、開けた場所に出た。日当たりが良く、木々が生い茂り、小さいながら水の清い池まである。池の周辺では、鹿や兎が草を食みながら心地よい陽の光を浴びている。池の水面から島のように突き出た岩の上では、亀が甲羅を干しながら微睡んでいた。

「ここは……?」

「良い場所だろ? 日当たりが良くて、水も綺麗で。それに、こんなに動物がいるのに静かでさ」

 玉の言葉に、辰之輔は思わず「あぁ」と頷いた。たしかに、落ち着く場所だ。ここでただ時を過ごすだけでも、心が癒やされそうな気がする。

「この場所が、先ほどそなた……いや、玉が言っていた、元気になれそうなもの、か?」

 問うと、玉からは「まぁね」という答えが返ってくる。それから「でも」という否定気味の言葉も同時に返ってきた。

「この場所と言えばこの場所なんだけど、この場所のうちでも特に俺が元気になれるものがあるんだ」

 そう言ったかと思うと、「見せてあげるよ」と言いながら玉は辰之輔の手首を再び掴んだ。そして「こっちこっち」と言いながら、池の畔にある一本の木へと導いた。

 一体、何年前からここにあるのだろう? そう思わせるほど大きくて、幹も太い。葉も多く、青々としている。

「これは……桑の木か?」

「そう。綺麗な水と適度な日光で育った、桑の木だよ。この木の葉は特に質が良くてね。この木から採った葉だけを食べて育った蚕はすくすくと大きくなって、立派な繭を作るのさ」

 そして、その立派な繭からは非常に良質な絹糸が作られる。そう、玉は言った。

「その絹糸を使って織った布で、姫が嫁入りする時の白無垢を作るんだよ。この桑の葉がいずれ美しい白無垢になるって考えたら、それだけで元気にならないかい? そして何を隠そう。その白無垢を作るのは俺の役目なのさ」

 そう言って、玉は誇らしげに胸を張った。対して、辰之輔は開いた口が塞がらない。

「玉が……姫の白無垢を……!?」

 どう見ても子どもで、着物はお世辞にも綺麗とは言い難い。姫君の白無垢を作る役目を負っていると言われても、にわかには信じられない。

 子どものように見えて、実は大人なのだろうか?

 着物が汚いのは、作業用で汚れても良い物を着ているだけなのか?

 姫の白無垢作りを任されるという事は、機織りや縫製の腕前が相当高いのだろうか?

 様々な考えが脳裏を渦巻き言葉を失っている様子の辰之輔に、玉は「ふぅん」と面白そうに鼻を鳴らした。

「驚いてはくれたみたいだけど。俺が姫の白無垢を作ると知って、何か聞きたくなったりはしないのかい?」

 まるで何か聞いて欲しいとでも言わんばかりの玉の言葉に、辰之輔は「えっ」と声を発した。そして、「そうだな……」と呟くとしばし考え、そして問う。

「姫の白無垢作りを任されるという事は、玉は機織りや縫製の腕が相当良いのだろうが……その割には、玉は随分と年若く見える。一体どれほどの修練を積めば、その若さで大事なお役目を担えるほどの腕を手に入れる事ができるのだ? 剣や書など、他の道にも通ずるものがあるだろうか?」

 その問いに、玉は「は?」と呆れたような声を発した。

「三の姫に求婚をしに来たんだろ? その姫の白無垢を作る俺が目の前にいて、聞く事がそれで良いのかい? 役目上、姫や国主殿と会って話をするかもしれない奴がいるんだから、姫や国主殿の好みを聞くとか、国主殿がどのような者に姫を嫁がせたいと考えているかとか、聞きたいとばかり思っていたよ」

 玉の言葉に、辰之輔は「あぁ」と納得したように手を打った。

「そのような事、思いつきもしなかった」

 正直に言い、「それに」と言葉を足す。

「好みや嫁ぎ先の希望など聞いたところで、にわかに対応できるものでもあるまい。できたところで、底の浅い嘘はすぐに露呈する。そうでなくとも、私は元来、不器用だ。嘘の言葉を最後まで言い切る事ができるかどうかすら怪しいのでな」

 聞いたところで、意味がない。

 辰之輔の言葉に、玉はしばしぽかんと呆け、そしてクスリと笑った。

「なるほど。たしかに嘘は苦手そうだね。けど、一応外交なんだから、相手の好みぐらいは把握しておかないと。個人的な付き合いをするなら好ましい性格だけど、そんなんじゃあ、いつまで経っても部屋住みのままだよ。辰之輔さん」

「……はっ……?」

 目を見開き、辰之輔は絶句した。

 そう言えば、辰之輔は玉に名を名乗っただろうか? ……名乗るぐらいは、したかもしれない。

 だが、部屋住みの身である事は言っていないはずだ。部屋住みが姫を求めたところで門前払いになるであろう事ぐらいは、さすがにわかる。まずは何とかして辰之輔を気に入ってもらい、それから部屋住みである事を打ち明けようと思っていた。

 国主に最初から知られているのであれば、まだわかる。求婚をしに来た者がいれば間者が動くだろうし、会う前に可能な限り身元を調べるはずだ。

 だが、国主でもない……一見ただの子どもにしか見えない、先ほど会ったばかりの玉に知られているとは。これは一体、どういう事だ?

「玉。そなたは一体……?」

 何者なのかと問おうとした、その時だ。

 背後で、バリバリという音がした。落雷のようなその音に、辰之輔はすぐさま振り返る。そして、ハッと息を呑んだ。

 そこには、身に燃え盛る炎を纏った、大きな鳥がいた。片側の翼だけでも、辰之輔の背丈ほどはあるように見える。

「あれは……焔鳥(ほむらどり)!? どうしてこんなところに……」

 国──煙鵠で目にする事が多い魔鳥の姿に、辰之輔は顔を強ばらせた。

 焔鳥が現れた地は、その年の夏に旱が起こると言われている。事実、煙鵠で焔鳥を見た年は、必ず旱が起こった。昨年の晩春に見掛けたのは、まだ記憶に新しい。

「焔鳥は成長する際に、その体温で雨雲とかの空気中にある水分を蒸発させちゃうんだよ。だから焔鳥の子がたくさん孵った年は旱が起きやすくなるし、当然焔鳥の目撃情報も多くなる。煙鵠では去年も旱が起きているし、ひょっとしたら国内のどこかで焔鳥が大繁殖してるんじゃないかい?」

 玉の説明に、「そうなのか」「そうかも」という二つの言葉が同時に浮かぶ。子どもにしては魔鳥についての知識も豊富なようだが、何者なのかと考え問う余裕はない。

 水の豊かな龍の国に、煙鵠で大繁殖しているのかもしれない焔鳥が現れた。これはひょっとして、辰之輔が焔鳥をここまで連れてきてしまったのではないか? その気は無くとも、何か起こらせるような行動を取り、焔鳥がついてきてしまったのでは?

 責任、という言葉が脳裏を過り、辰之輔は唾を飲み込む。今ここで、この焔鳥を退治しなければ……この龍の国でも旱が起こってしまうかもしれない。

 それだけは、絶対に避けなくては。その思いを胸に、辰之輔は腰に帯びた刀を抜き放つ。腕に多少の覚えはあるが、果たして魔鳥である焔鳥に通じるものかどうか。しかし、弱音を吐いてはいられない。

「玉、下がっておれ! 恐らくこの焔鳥は、我が国から私についてきてしまったもの……。それがこの国に旱をもたらしたりせぬよう、私がここで、絶対に斬り捨てる!」

 辰之輔の殺気に当てられたのだろうか。焔鳥が、興奮し始めた。先ほど聞いた落雷のような音は、焔鳥の炎に焼かれた木が倒れる音だった。興奮していなくても、それほどの事ができる鳥だ。それが興奮しているとあれば、その炎の威力は計り知れず。触れただけでも命を落とすかもしれない。

 焔鳥が高く舞い上がった。一旦上空へ昇り、高さを稼いで一気に急降下してくるつもりだ。その攻撃を受けるのは至難の業だな、と、冷や汗をかくのを感じながら、辰之輔は身構える。そんな緊迫した空気の中、辰之輔の様子を後ろから見ていた玉は「あれあれ」と呑気な声を発した。

「辰之輔さんのせいとは限らないよ? 焔鳥が大繁殖しているなら、煙鵠の雨雲だけでは足りなくなって水の豊富なこの国へ来たのかもしれないじゃないか。……まぁ、どちらにしろ、そこまで緊張する事はないよ。何せ……」

 玉の言葉が終わらぬうちに、辺りが急に暗くなった。いつの間にか空には厚い雨雲が立ちこめている。そしてそれを認識したのとほぼ変わらぬ瞬間に、雲は雨へと変わり、勢いよく地上へと降り落ちた。

「この国は、龍の国なんだからね」

 玉のその言葉が合図であったかのように、雨は更に激しく降り注ぐ。滝のような水量は、さすがに焔鳥も敵わなかったらしい。ぶわりと蒸気が湧き上がるが、それは雨が蒸発しなくなったために出でたものではない。焔鳥が纏う炎が消されたために発生したものだ。

 炎を消され、焔鳥はみるみるうちに弱っていく。身体も、先ほどまでと比べて一回り……いや、二回りは小さくなったように見えた。

 この大きさであれば、刀が通じる。そう確信した辰之輔は刀を構え直したかと思うと地面を蹴り、焔鳥との距離を一気に詰める。まずは片翼。飛ぶことができないようにしてしまえば、勝利は確定したも同然だ。

 そう考えた辰之輔が、焔鳥の左翼を切り落とそうと刃を走らせ始めた、その時だ。突如、焔鳥の背後から白い影が飛び出してきた。白い影は跳躍すると、焔鳥の右翼に向かって刀を振り下ろす。それは、辰之輔が焔鳥の左翼に向かって刀を切り上げたのとほぼ同時だった。

 一度に両翼を落とされた焔鳥が、甲高く耳障りな鳴き声を発する。それを鎮めようとするかのように、白い影は振り向きざまに刀を一閃。刀を振り切った時には鳴き声は止み、焔鳥の首は地に落ちていた。

 そのあまりの早さに辰之輔は目を瞠り、次いで落とされた焔鳥の首に視線を遣った。綺麗な断面だ。相当の腕がなければ、これほど美しく首を切り落とす事は難しいだろう。

 あの素早い一閃も、実に美しかった。あれほど綺麗で正確な太刀筋は、滅多に見られるものではない。

 これほどの腕を持つのは、一体どのような御仁か。是非とも姿を拝見し、叶うならば話をしたい。あわよくば、一戦交えてみたい。

 そのような願望を胸に、辰之輔は白い影に視線を移した。そして再び、目を瞠る。

 そこにいたのは、白い袷に白い袴を纏った、一人の女人だった。背は高く、鍛えているのか袖口から覗く腕は辰之輔が知る一般的な女人よりもやや太い。そして、長く艶やかな黒髪を後頭部で一つにまとめ、背に流している。

 その、凜々しくもしなやかな立ち姿に、辰之輔は思わず見とれた。

「……白龍……」

 ぽろりと、言葉が勝手に口から転がり出る。白く、しなやかで凜々しく、そして強い。何より、雨と共に現れた。そして、焔鳥を地に下してすぐ、その雨は止んだ。まるで、焔鳥を倒すためにその時だけ雨を降らせたかのようだ。

 そんな彼女は、辰之輔には白き龍神──白龍であるかのように感じられたのだ。

 そして、そんな辰之輔の事を女人はしばらくジッと見たかと思うと、視線を玉の方へと移し、問う。

「玉、大事無いか?」

 その問いに、玉は「平気平気」と笑って見せる。

「霙(みぞれ)は相変わらず強いね。嫁入りを控えた一国の姫君だと言ったところで、誰も信じないんじゃないかい?」

「信じるも信じないも、人の勝手よ。我は己が姫であろうとなかろうと刀を手に取り、平穏を脅かすものから民を守ろうとするであろう。それを妨げようとする者がいれば、国主であろうが父であろうが将来の夫であろうが、斬り捨てるまでじゃ」

 ……この女人、何やら物騒な事を言っている。……いや、今はそこを追究する場面ではない。それよりも重要な確認事項がある。彼女と、玉と。二人共が「姫」と言わなかったか?

 考え込む様子の辰之輔に気付いた玉が、「ほらー」と苦笑しながら言う。

「早速信じられなくて固まっちゃった人がいるじゃないか。霙、こちらのお侍──辰之輔は、霙を妻にしたくてわざわざ煙鵠の国からやってきたそうだよ。何を思うも霙の勝手だけど、いきなり斬り捨てたりしたら駄目だよ?」

「わかっておる。いくら何でも、何も罪を犯していない他国の者にいきなり斬りかかったりするものか。外交問題に発展するのは、我も本意ではない」

 少し拗ねたような表情でそういう女人──霙に、玉は「なら良いや」と適当に頷いた。そして、「……というわけで」などと言いながら視線を辰之輔に向け、指は霙の方を指す。

「霙姫。辰之輔が妻問いをしに来た、この国の三の姫だよ。見ての通り、刀の腕は超一流で、正義感も強い真面目な人柄でね。ただ好意を囁いたり褒め言葉を並べたりするだけじゃあ身を任せたりしてはくれないから、この国にいる間は何をするにしても何を言うにしても、よぉっく考えるんだよ?」

「やけに気遣うではないか。さては玉。そなたがこの殿方を気に入ったのではないのか?」

「まさかまさか。俺自身はそういう話に興味は無い。知ってるはずじゃないか」

 言葉を交わし、霙も玉もクスクスと笑う。随分と気安い様子だ。

 霙は姫であるはずなのに、身分も年も違うであろう玉に友と接するように話しかけている。

 玉は玉で、相手は国主の姫だというのに敬う様子がまるで無い。

 身分など気にもせずに誰とでも接する事ができる、民にも慕われている姫なのだな、と。辰之輔は二人のやり取りを眺めていてそう感じた。そして、同時に暗い気持ちになる。

 この姫が、いずれ政略結婚でどこかの国に嫁いだ時。その国は、今の姫から玉への態度のように、姫に優しく接してくれるのだろうか? 少なくとも、辰之輔の国では有り得ない。

 彼女がもし、辰之輔に──煙鵠の国に嫁ぐ事になったら、国主である辰之輔の父親はきっと彼女に辛く当たるだろう。雨の恵みさえ手に入れれば、後は用無しであると言わんばかりに。

 それは嫌だな、と思う。この姫が、周りの者達からぞんざいに扱われるなど考えたくもない。それに、嫁として屋敷に閉じ込める事で、あの美しい太刀筋を見る事ができなくなるのも惜しい。

 この姫には、今のような楽しそうな顔をしていて欲しいと思うし、これからも刀を振るって欲しいと思う。そのためには、辰之輔の元に嫁いでくるのでは駄目だ。

 だが、他の国に嫁いだところで、結果は同じかもしれない。辰之輔が身を退けば済む話ではないだろう。

 では、どうするべきか?

 実は、解決方法は一つだけ思い付いている。だが、これを言い出すには覚悟がいる。

 辰之輔は考えた。考えて考えて、考えた。辰之輔の様子に気付いた霙や玉が訝しげな顔をする程度には考えて、そして悩んだ。

 だが、やがて決意し、辰之輔は大きく息を吐き、そして吸う。霙の目をまっすぐ見ると、「三の姫君!」と大きな声を張り上げた。

 思った以上に大きく、そして少し裏返ってしまった己の声に少々赤らめながらも、辰之輔はそのまま言葉を続ける。

「私(わたくし)は、煙鵠の国が国主、雁箭(かりや)巳経(みつね)が七男、雁箭辰之輔と申す者。三の姫君が嫁ぎ先を考えていると聞き及び、妻問いをするべく参上仕りました」

 あまりにもまっすぐな言葉に、霙はしばし呆気にとられた。そして、ややうんざりした顔で言う。

「済まぬが、妻問いの言葉はここ数日で聞き飽きておる。我がこんなにも妻問いをされる理由は察しているつもりだ。それ故、殿方からの恋慕の言葉は信用できぬ。我を口説き落としたいのであれば、愛よりもそなたの国について語ってくれぬか? どうせ嫁ぐのであれば、せめて我自身が行きたいと思える国に嫁ぎたいのでな」

 声が、どこか曇っている。その声を聞き、辰之輔は更に決意を固めた。首を横に振り、「いえ……」と呟いて唇を湿す。

「煙鵠の国に来て頂く必要はございませぬ。私自身が、こちらへ参りとうございます」

「……何?」

 霙が、訝しげな顔をした。玉も、何やら意外そうな顔をしている。顔をくしゃりと歪ませて、苦笑しながら辰之輔は霙に問うた。

「私が、婿としてこちらへ移り住む事は、許して頂けましょうか?」

「……煙鵠の国へ嫁がなくても良いと? だが、煙鵠と言えば幾度も旱に悩まされている国であろう? どこの国よりも雨の恵みを欲しているであろうに……一体何故……」

 戸惑う霙に、辰之輔は「それは……」と言いながら視線を少し逸らす。耳が赤くなっている。

「三の姫君の美しい太刀筋を、もっと見たいと思ってしまったのです。煙鵠へ嫁げば、きっと姫は刀を握る事すら許されなくなりましょう。他の国とて、今のままの姫でいさせてくれるかわかりませぬ。それならばいっそ、私が姫の……龍の国へ、と……」

「心遣いはありがたいが、仮にそなたを婿とした場合、煙鵠の雨はどうする? 雨が降らなければ、作物は育たぬ。作物が育たなければ、民は飢える」

「そうだねぇ。辰之輔が婿入りをするという事は、うちの国の姫が嫁げば得られると噂される雨の恵みを諦めるという事だ。旱が多い煙鵠の民を見捨てるという事にならないかい?」

 試すような霙と玉の問いに、辰之輔は「それなのですが……」と言葉を切り出した。

「もし、私を婿として受け入れてくださいましたら……折を見て、二人で諸国行脚などいかがでしょうか? 旱の原因が焔鳥であるならば、焔鳥を減らすことができれば旱の被害も減るはず。姫ほどではございませぬが、私も多少、剣の腕には覚えがございます。だから……」

「二人で焔鳥を駆除して回れば、煙鵠の民を見捨てる事にはならぬ、と?」

 辰之輔は、頷いた。

「度重なる旱に苦しんでいるのは、なにも煙鵠だけではございませぬ。ですが、姫はこの世にただ一人。姫がどこかへ嫁げば、雨の恵みは嫁ぎ先であるただ一国のものとなってしまいましょう。されど、諸国を巡るのであれば……」

「多くの国の民を、旱から救う事ができるかもしれぬ。……なるほどな、一理ある」

 頷き返し、しかし霙は「だが」と呟いた。

「それを我の一存で決めるわけにはいかぬ。面白いとは思う故、父上に提言はしてみよう。……そなた──煙鵠より参った、雁箭辰之輔からの申し出であると添えてな」

 そう言うと、霙はくるりと踵を返す。真っ白い着物の袂が、ふわりと揺れた。

「とりあえず、このような提言をした以上、父上がどのような結論を出そうとそなたはもう煙鵠へは帰れまい? 城下に宿を手配する故、沙汰があるまではそこで過ごすと良い。その後の身の振り方は、追々考えれば良い」

「そうだね。もし国主殿が辰之輔の案を却下して、辰之輔が婿入りをする事ができなくなったとしても、そのままこの国で働けば良いよ。仕事を探すときは、俺も相談に乗るからさ」

「……ありがたい」

 辰之輔がそう言うのを聞き届けると、霙は「もう良いだろう」と言うように歩き始めた。歩きながら、彼女は玉に声をかける。

「私は城に戻る。玉も、野歩きはほどほどにして、早めに戻れ。父上が、玉を探しておった。我がここまで来たのも、玉を探していたからぞ」

「はいよ。国主殿の用件、何だろうね?」

「白無垢についてではないのか? まだどこに嫁ぐとも婿を取るとも決まっておらぬというのに、気が早いものだ。……あぁ、そうだ。辰之輔殿」

 不意に足を止め、霙は振り向かぬまま辰之輔に声をかけた。辰之輔が「はい」と短く答えると、霙は「その……」と言い淀んだ。これまでの様子と異なる態度に、辰之輔は首を傾げる。

「我も、辰之輔殿の太刀筋は美しいと思った。我も、辰之輔殿の力強く美しい太刀筋をまた見たいと思う故……婿入りの話は一旦脇に置いても、諸国行脚の話は前向きに検討しよう」

 肌も着物も何もかもが白い中、霙の耳だけが赤くなっているのがわかる。釣られたように、辰之輔も自身が赤面しているのを感じた。

「……是非」

 短く、それだけ伝えるのが、精一杯だった。辰之輔の返事を聞くと、霙は頷き、そして今度こそその場を去ってしまう。その後ろ姿を見送る辰之輔に、玉が何やらニマニマとしながら言う。

「それじゃあ、俺達も行こうかね。霙が宿を手配すると言っていただろう? 霙が手配する時はいつも同じ宿だから、案内してあげるよ」

 楽しげに歩き出す玉に従って、辰之輔も歩き出す。顔は、まだ赤くなっているのだろう。火照っているのがわかる。

 もう一度、雨が降ってはくれないだろうか。そうすれば、この顔の火照りも冷やされて治まるだろうに。

 そんなことを考えながら、辰之輔は歩を進める。片足が浅い水たまりを踏み、ぱしゃりと音を立てた。





  ◆





 夜。国主やその家族が住まう城の片隅に建てられた、小さな小屋。機織り部屋であるその小屋に、この国の国主である男が入ってきた。国主は、小屋の中を見るやいなや、ホッと安堵した表情を見せる。

「ここにおいででしたか、玉様」

 その視線の先には、少々汚れている着物を纏った、十歳かそこらの子ども──玉だ。

「うん。あぁ、そう言えば俺に話があるんだったっけ? 白無垢の事かい?」

「えぇ。昨今の情勢を考えると、霙が輿入れする際に横から奪い取ろうとする者がいてもおかしくありませんからな。白無垢とは言え、中に暗器でも仕込んでおける作りにできないかとご相談を……いえ、その話は一旦保留で良さそうなのですが」

 物騒な話を口にしてから、国主は頭を振った。その様子を見てケラケラと笑ってから、玉はニヤリと笑って言う。

「煙鵠の辰之輔の話、聞いたんだな? それで、俺の意見を聞きに来た、と。俺は面白いと思うけど、国主殿はどう思うんだい?」

「私も、検討する価値がある提言なのではと思います。雨を欲する国は多いものの、私の手元に残る娘は霙ただ一人。どこか一国へ輿入れさせるよりは、旱の原因となっている焔鳥を駆除するという名目で諸国行脚をすると言った方が、方々に角が立たず、丸く収まるように思います。丸く収まれば、霙も危ない目に遭わずに済みますしな」

「危ないのは霙よりも、霙を奪おうとして襲ってくる奴らなように思うけどね。まぁ、その話を承知してるなら、早いや」

 そう言って、玉は織り上がったばかりの反物を手に取った。国主の家紋を織り込んだ絹はつやつやとして、光り輝いているように見える。

「これで白無垢を作る他に、霙の袷も作ろうと思ってね。婿を取るなら別に白無垢でなくても良いのかもしれないけど、白無垢を着た方が婚姻を成したという実感が湧くだろうし、霙も本人も普段から白い着物を着たりとどうも楽しみにしてくれているみたいだからね。けど、白無垢……と言うか打掛じゃあ、諸国を行脚したり、焔鳥と戦ったりするのには不便だろう? どう言われようと、俺が作ると決めた以上は袷も作るつもりでいるけどさ。一応、材料費諸々を出すのは国主殿だからね。言っておこうと思ってさ」

「それは……お心遣い、痛み入ります」

 そう言って頭を下げてから、国主は「しかし……」と呟きため息を吐いた。何やら困っている顔だ。

「この国は龍神の一族が治めており、雨に困る事は無い。この国の姫を嫁に迎えた国にも雨の恵みがある……でしたか。この話のお陰で我が国は諸国から丁重に扱われ、縁談相手に困った事はございませんが……ここまで多くの国に欲されるようになると、これはこれで問題でございますね……」

 我が一族は龍ではなく、ただの人間だと言うのに。そうこぼす国主に、玉は「なぁ?」と言って笑った。

「嫁ぎ先に雨の恵みをもたらしているのは、姫ではなく白無垢。この国に遠い昔から住んでいる龍が手ずから織って縫い上げた着物に龍の力が宿っているからだ、と全ての国が知ったら、どうなるんだろうねぇ?」

「そんなこと……考えたくもございません」

 ぶるりと震える国主に、玉は「だよねぇ」と言って再び笑った。

「だからこそ、今回辰之輔から提案された話は悪くないと俺も思ったよ。焔鳥を駆逐する事で旱を防げると知らしめれば、過剰な妻問い競争にならずに済む。この国の者で編成された一団であれば焔鳥を弱らせるために雨を自在に降らせる事もできる。そう認識されれば、これまで通り、他の国からは丁重に扱ってもらえるんじゃないかな?」

 辰之輔の目の前で、霙が飛び込んでくるその時に俺が雨を降らせたみたいにさ。と、玉は言った。量や降る間を調整するのは難しいだろうが、玉が作った着物を着れば、玉でなくとも雨を降らせる事ができるようになる。

 玉がそう言うと、国主は「さようでございますな」と言って頷いた。その態度に、玉は「あのさ……」と顔を顰める。

「その敬語、何とかならないかい? 俺はもっと気さくに接して欲しいって、前から言っているだろう? 霙を見てみなよ。俺の事は玉って呼ぶし、敬語も使わない。そういう気さくさが、俺には心地良いんだ」

「しかし、玉様は長きに渡り我が国を守ってくださっている龍神様。国主である私が、玉様をぞんざいに扱うわけには参りませぬ故。それに、玉様とて、私の事を国主殿、と敬称をつけて呼ぶではありませぬか」

 国主の言葉に、玉は大きなため息を吐いた。

「そりゃ、国主殿がいつまで経っても俺の事を玉って呼んでくれないからだよ。あと、気さくに接したからってぞんざいに扱った事にはならないんじゃないかねぇ?」

 そう言ってから、玉は「おや」と呟いた。目は、窓の外を見ている。

「雨だ」

 いつの間に降り出したのか。しとしとと音をほとんど立てる事なく、雨が降っていた。視線を投げてくる国主に、玉は「俺じゃないよ」と首を振る。

「これは正真正銘、天が降らせてくれた雨だよ」

 そう言ってから、玉は口元を綻ばせる。

「雨降って地固まる、ってなれば良いねぇ」

 手にした反物に改めて触れる。肌触りの良いそれが白無垢となったその後、どのような世になるのか。

 その先に思いを馳せながら、玉は優しい手つきで、反物をゆっくりと撫でた。





(了)











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