裸心の舞











 荒れ果てた祠の前で、一人の少女が舞っている。

 時にゆっくりと、時には激しく。手は若い木々のようにしなやかに、足は一歩一歩を踏みしめるように。

 十人に訊けば十人が「見事」と言うであろうほど、少女の舞は美しい。

 だが、当人の想いは別にあるのか。少女はいつしか動きを止め、その場に座り込んでいた。頬が、不満げに膨れている。

「あら、どうしたの? そんなに膨れて」

 後ろからかけられた声に、少女は振り向いた。

 いつからそこにいたのだろう。一人の女性が、そこに立っていた。

 愛嬌のある顔立ちの、大人の女性。古めかしい意匠の着物を纏っているのに、違和感を抱かせない。

 どうしたものかと迷う素振りを見せた少女に、女性は再び「どうしたの?」と問うた。

 その、優しい顔に……少女は思わず、心の内を吐き出した。

「……上手く、舞えないの」

「そうかしら? 綺麗に舞えていたと思うけれど?」

 首を傾げる女性に向かって、少女は首を横に振った。

「型は綺麗にできていると思うの。けど……何か違うの。私が舞う事で表したい事が、出せていない気がして……」

 少女の訴えに、女性は「そう」と呟き、しばし考えた。そして、にっこりと笑うと、言う。

「じゃあ、ちょっと裸になってみましょうか?」

「……は?」

 女性の言葉に、少女は目を白黒とさせた。その様子に、女性は「あら、いけない」と口元を手で隠す。

「そうよね。年頃の娘が裸になれなんて言われたら、困るわよね。違うのよ、変な意味じゃないのよ? ただ……そう、あなたはまだ、心を裸にできていないんじゃって思ったから」

「心を?」

 少女が不思議そうに呟くと、女性は「そう」と頷いた。

「心。あなたが舞いで表したいと思っている事」

 そう言って、女性は、す、と右手を空にかざした。すると、どこからともなく飛んできた鳥が、女性の手に泊まる。

「例えば、鳥を表したいと思って舞う時、あなたは飛んでいる鳥の姿を伝えたいと思うのではないかしら?」

 言われて、少女は頷いた。女性の言葉に触発されたものか、脳裏に空を悠々と飛ぶ鳥の姿が浮かぶ。それを打ち消すように、女性は「けどね」と言葉を続けた。

「風に乗って空を飛ぶだけが鳥の姿じゃないわ。地面で虫を啄む姿も、風に乗るために懸命に翼を動かす姿も、飛ぶ姿からは想像できない力強さで地を蹴る姿も、全て鳥よ」

 空を飛ぶ姿を思い描いた者にとって、それはあまり見たくない姿かもしれない。

「けど、それも全て鳥。それら全てを隠さず、さらけ出した時……あなたは舞いで、本当の鳥になる事ができるわ」

 そう言うや、女性は右手を軽く振った。泊まっていた鳥が飛び立つ。

 同時に、女性は体を深く沈めた。地面近くまで顔を寄せ、体を小刻みに震わせながら歩き出したその姿は、少女の目の前で地の虫を啄む鳥と被り始めた。

 やがて女性は力強く地を蹴り、勢い良く両腕を空に捧げる。……かと思えば、腕は伸ばされ、回り、前に突き出されと、激しく動く。

 その動きの激しさは次第に鳴りを潜め、女性の動きは緩やかになっていく。

 それは、鳥だった。

 女性はその舞いだけで、鳥へと変化していた。その動きに、少女はただただ、目を奪われる。

 やがて鳥は地へと降り立ち、動きを止めた。鳥が、女性へと姿を変える。

 ぽかんと呆けている少女に、女性は「どうかしら?」と笑った。

「すごい……本当に、鳥が飛んでいるみたいだった……」

 少女の呟きに、女性は「ありがとう」と返し、少女の頭を撫でる。

「表したい事柄の表面だけではなく、全てをさらけ出す。これが、心を裸にする、と言った意味よ。それに私なら……必要とあらば、この着物だって全て脱ぎ捨ててみせる。一糸まとわぬ姿となって、私の全てをさらけ出して、舞う。だからこそ私は、あの場で多くの人を楽しませる事ができたのだと思うの」

「あの場?」

 首を傾げた少女に、女性は「こちらの話よ」と言った。そして、話を誤魔化すように、言う。

「私は、猿女と呼ばれているわ。あなたの名前は?」

「静」

 名乗った少女――静に、女性――猿女は「そう」と頷いた。

「静。あなたはきっと、舞いの名手になれるわ。そしていつかきっと……その舞いが、あなたの事を助けてくれる」

 だから、例え行き詰まる事があっても、舞い続けてね。そう言うと、猿女の姿は次第に消えていく。

 驚いた静は猿女に駆け寄るが、触れること叶わず、その姿は寸でのところで消え失せてしまう。

 呆然としながら、静は背後の荒れ果てた祠を振り返り、見詰めた。

 その祠は天宇受売命(アメノウズメノミコト)を祀る祠であるという事。天宇受売命はその昔、天岩戸に籠ってしまった天照大神の関心を引くために神々の前で舞を舞った女神であるという事。

 天宇受売命は猿女とも呼ばれている事。

 それらを静が知ったのは、それから幾年もの時を経てからの事だった。





  ◆





 それから、幾年もの時が過ぎた。

 白拍子として生業を得た静は、源氏の総大将である源頼朝の弟、義経と出会い、いつしかその寵愛を受ける身となっていた。

 義経は静の事を慈しみ、静もまた、全身をもってその想いに応える。

 義経への想いを表すためであれば、一糸まとわぬ姿となる事も、その声に艶を含む事も、心を鬼にして叱咤する事も、まるで躊躇う気にはならなかった。

 想いを重ね合う日々を過ごしていくにつれ、静にはあの時の、猿女の言葉が意味する事が理解できたような気がし始める。

 義経への想いを表すため、心も、体も、全てを惜しみなくさらけ出す。

 その想いはたしかに伝わったのか。兄と上手くいかず気落ちする事が多くなった義経だが、静と共にある時には顔に明るさが戻るようだと、郎党共は囁き合った。

 それは決して批判的な囁きではない。むしろ、静の元へ訪れる事で義経が心の平穏を取り戻している事に安堵しているかのような声音であった。

 情勢は芳しくないが、互いに慈しみ合い、共にいれば心穏やかな時を過ごす事ができる。

 そんな日々が終わりを迎える事を、全く予測しない者は無かったであろう。

 郎党共だけではなく、義経も、静も。

 皆、薄々感付いている。

 覚悟をせねばならぬ時は、すぐそこまで近付いていた。





  ◆





 元暦二年。兄、頼朝との対立により、義経は京を落ち延びた。静を伴った義経は九州へと向かったが、暴風雨により船は押し戻され、挙句主従も離散してしまう。

 静は、海上でこそ義経と共にあったが、結局、吉野で別れの時を迎える事となってしまった。

 そして、静は京へ戻る途中で捕らえられ、鎌倉──源頼朝の元へと送られてしまう。

 敵地に一人囚われた静に、鶴岡八幡宮の前で舞うよう、頼朝からの命が下る。初めのうちこそ拒んでいた静だが、再三の説得により、遂には舞う事を了承せざるを得なくなってしまった。

 腹には義経の子を身籠っている、身重の身。己の命を握られている、囚われの身。

 果たして、上手く舞えるのだろうか。何を想って舞えば良いのだろうか。どのように舞えば、その場を切りぬける事ができるのだろうか。

 舞台に近付くにつれ、静の胸は不安でいっぱいになっていく。

 そんな、不安に満たされた状態であったからだろうか。あたりの音が、妙によく聞こえた。

 風の音。木々のざわめき。そして、鳥の羽ばたき。

 鳥。

 それを意識した時、静の脳裏に言葉が過ぎった。少女の時に出会った、猿女と名乗る女性が口にした言葉。

「心をさらけ出す」

 あぁ、そうか。と、静は一人得心する。

 今こそ、全てをさらけ出して舞うべき時なのだ、と。

 流石に、着物を脱ぎ棄てる事はできない。神代ならいざ知らず、今この場でそれをやれば、舞いを始める前に不敬であると斬られかねない。

 心を裸にする。

 己の想いを全て伝えるべく、舞いを舞う。

 その決意を胸に、静は舞台を踏む。そこからは、体が自然と動いた。

 

  しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな

 

  吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき



 昔を今にするすべがあったならば。あの人が恋しい。あの人と共に過ごした日々が恋しい。

 義経への想いを全てさらけ出し、静は唄い、舞う。

 今や義経と敵対している頼朝にとって、義経への慕情を唄い舞う事はさぞや不快であろう。殺されるかもしれない。市中を引き回されて見世物にされるかもしれない。

 だが、それでも……。今、静が人々に伝えたいのは、己の義経への想いなのだ。……否、人々に伝えたいのではない。吉野で別れてしまった義経に、己の想いを伝えたい。

 会いたい。再び共に暮らしたい。慈しみ合いたい。

 その想いを義経に伝えたい。その一心で、静は舞う。

 視線を上げれば、鳥が空を飛んでいる。

 鳥よ。飛んで飛んで、あの人の元まで行って。この舞の様子を、あの人に伝えておくれ。私の想いが、あの人に届くように。

 観衆が、己の舞に目を奪われている。

 皆々様。この舞の事を、この場にいない方々へお伝えくださいませ。人々の口の端に乗って、いつかあの人に伝わるように。

 義経への想い。彼にこの想いを伝えたいという想い。全てを隠す事無く、声に、視線に、動きに込めて、舞を舞う。

 その、込められた意味に気付いた観衆は、初めのうちこそざわついていたが……やがて、一言も発しなくなり、ただ静の舞に見入るようになった。

 人々が息を呑んで見守る中、静はただ、舞い続ける。

 義経への想いを隠す事無く。頼朝の怒りを恐れる事無く。

 心をさらけ出して、ただひたすら、舞い続けた。













(了)










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