陰陽Gメン警戒中!
20
長野県にある善光寺という寺には、お戒壇巡り、というものがある。真っ暗闇で、手すりと前後にいる人の気配以外に道を示す物が何も無い中、回廊を巡り、中ほどにあるという極楽の錠前に触れる、という事を目的としたものだ。
以前、家族旅行で訪れた時の事を思い出しながら、暦は首を巡らせた。聖と邪の違いは大きいが、どちらも触感と人の気配以外に頼れる物の無い暗闇という点では同等であるように思える。
あぁ、漫画とかでよくある、闇に呑まれた精神世界とかってこんな感じなのかなぁ、などと松山に毒されたとしか思えぬ事を考えながら、暦は両手を前に突き出してみた。
手が、温かくて柔らかい物に触れる。どうやら人の頬であるらしいと気付くまでに、それほど時間はかからなかった。前後が全く見えないので測れなかったが、それほど広い闇ではなさそうだ。よく考えれば、店の中のほんの一部で起きている事なのだから狭くて当たり前なのだが。
「……天津君?」
頬に触れているであろう人物に、声をかけてみる。びくり、という振動が手を伝わってきた。掠れた声が聞こえてくる。
「……あ……本木、さん……?」
「ちょっと、どうしちゃったの? どうなってるの、ここ……」
いきなり弱っている様子の栗栖に、暦は動揺を隠せない。人間、光の無い場所にずっと閉じ籠っていると発狂するとは聞くが、こんなに短い時間でここまで変わるものだろうか。
……エセ……。
「……え?」
微かな音が耳朶を打ち、暦は思わず振り返った。だが、何も見えない。栗栖以外の気配も、感じない。
……ヲ、カエセ……。
「また……」
「本木さん……耳を貸しちゃ駄目です、できるだけ……」
どうやら、空耳ではないようだ。栗栖の耳にも、しっかり届いているらしい。
「貸しちゃ駄目って言われても……音なんて防ぎようがないよ? 耳栓なんて持ち歩いてないし。……と言うか、あの声、何?」
困惑している間に、また聞こえてきた。今度は、はっきりとした大きな音で。
命ヲ返セ!
「!?」
はっきりと聞こえた瞬間、全身が凍り付いた。松山が万引き犯を煽った時など比較にならないほど、全身が冷たくなり、震えが走る。暦の手の中にある栗栖の頬が、痙攣したように跳ね上がった。
「天津君!?」
「……すみません……」
弱々しい声は、あの謎の声よりも小さい。暦の掌がねっとりとした湿気を感じ取り、栗栖が脂汗をかいている事を知らせてくる。
「天津君……? 大丈夫なの、ねぇ!?」
こんな状態で、大丈夫な筈が無い。だが、問わずにはいられない。問う代わりにかける言葉が見付からない。
「大丈夫……と言いたいところですが、今回ばかりはちょっと……やばいかもしれません……」
「……まだ喋れそうなら、教えてくれる? 何で、そこまで弱っちゃったの? この……邪悪なるモノの残滓? って……何?」
しばらくの沈黙があった。掌に伝わってくる弱い呼吸の振動から、辛うじて生きている事がわかる。
「……本木さん。松山店長から、残滓の事……聞いたんですね? ……どこまで聞きました?」
「……この黒い、外から見れば煤みたいな奴は、邪悪なるモノの残り滓で……負の感情そのもので。それで……人間で言うと、肉体を取り去った魂みたいな物だって……」
こくりと、栗栖が頷いたのが振動でわかった。
「あの声は……邪悪なるモノとなった雑霊や悪霊達の、心の声です……」
「心の……?」
再び、頷く振動があった。
少しだけ、合点がいったように思う。残滓というものが魂のような物だとしたら、今暦達は魂の集合体に取り込まれているわけで。なら、その魂そのものの声が聞こえてきているのだと思えば、納得できる……気がする。
「……やっぱり、毒されてきてるかな……」
松山の漫画脳に、という意味での呟きだったが、栗栖からは激しい動揺が伝わってきた。
「毒って……本木さんこそ、大丈夫なんですか!? 僕の事は良いですから、早くここから脱出を……! 四歩か五歩も後ろにさがれば、出られる筈ですから……」
「ごめんごめん、そういう意味じゃなくて」
こんな時だが、暦の口からくすりと笑い声が漏れた。先ほどとは別種の動揺が、掌を通して伝わってくる。
「大丈夫だよ、おかしくなっちゃったってわけじゃない。ただ、こんな時に、こんなに弱っちゃってても、天津君は天津君なんだなぁ、って思ったら、何かこう……微笑ましい気分になっちゃって」
少し天然で、常識が足りていなくて。そして、正義の申し子で、いつでも誰かの事を案じている。万引きされた本屋の心を、邪悪なるモノを生み出してしまった西園の事を、裏天津家の暗躍で治安が悪化してしまった場合の人々の事を、今この場にいる暦の事を。
「そりゃあ……こんな真っ暗で、ネガティブな言葉がどんどん聞こえてくる場所にいたら体調も悪くなるよね。……酷いもん、ここ」
微かだった声は、この空間に慣れてきたせいかどんどん大きくはっきりと聞こえるようになっている。
命ヲ返セ。
ウゼェ。
死ネバ良イノニ。
クズ。バカ。
ドウセ私ナンカ。
アア、嫌ダ嫌ダ。
何デ私バッカリ。
私ッテ可哀想。
コンナニ不幸デ、生キテイル意味ナンテアルノダロウカ。
気が滅入る。悲痛に聞こえる物は、裏天津家の養殖邪悪なるモノのために殺されたであろう虫や小動物の声だろうか。ただただ不満をぶちまけている物や、不幸に陶酔しているように聞こえる物は、霊達が生前腹にため込んでいた言葉だろうか。
よく響くコンサートホールのように、上から、右から、左から、背後から、ネガティブな言葉が滾々と湧き出てくる。栗栖はいつも調伏後にこんな声を聞き続けてきたというのか。
「こういう言葉って、最近だとインターネットのSNSとかでよく見かけるよね。匿名で顔も出ないから、書きこもうって気になっちゃうんだろうな。……液晶画面だからってのもあるけど、見続けてるとやっぱ、不調になったりもするよ。時々」
かく言う暦も、少しではあるが胃の辺りがシクシクと痛むように感じ始めている。気にしない者は全く気にならない程度なのだろうが。
「天津君は、気にしないわけにいかないよね。下手に無視して、またこの魂が邪悪なるモノになっちゃったりしたらまずいし。全部受け止めて、彼らの気が済むまで負の感情を吐き出させなきゃいけない……違う?」
微かに、振動が伝わってきた。ゆっくりと頷いた事がわかる。
生きている人間でもそうなのだが、ネガティブな言葉というものは口を挟まずに聞き続けていると、やがて停止する。どれほどの長さで停止するかは人によりけりだが、とにかく話し続けていると最後はスッキリするらしい。
「聞いていれば……そのうち、愚痴を吐き切った残滓は満足するのか、完全に消え去ります」
「そこまでやって、本当に調伏したと言えるようになるわけだ?」
「はい……」
栗栖が、緩やかな動きで頷いた。
「……ん?」
暦は、栗栖の頬から両手を離し、首を傾げて目を凝らしてみる。見える。栗栖の顔が、薄らとではあるが見えるようになっている。
首を巡らせてみれば、ほんの少しだけ明るくなっているように思える。すっきりしない天気の空のようだが、微かに光がある。それに照らされて、目の前の栗栖を視認できるようになっている。
「もう少しです……。残滓が、負の感情を吐き出し続けて……少しずつ、気が晴れてきてます……」
残滓の気が済んだら、この闇だか煤だかのような物が消えていくという事か。消えれば、この声も聞こえなくなるのだろう。
なら、ここが完全に明るくなるまで……負の感情に満ち満ちた声が聞こえなくなるまで、栗栖の気を紛らわせてやれば良い。
……とは言え、全く関係の無い話をして気を紛らわせるわけにもいくまい。それでは、吐き出される感情を無視する事になってしまう。無視では、きっと彼らの気は晴れない。
なら、暦にできる事は。
「……今、聞こえた声、さ。殺してやる……って、何があったんだと思う?」
「……女の人の声でしたね。……思い詰めているような声でした」
「何か、悩んでいたのかな……?」
「そうかもしれませんね。……誰にも相談できなくて。けど、自分で呑み込むには、あまりにも大きな悩みだったのかもしれません……」
栗栖と共に負の感情に満ちた声を聞いて、あえてそれを話題にする。聞こえた声を無視する事にはならないし、考えて話す事で、栗栖の気も少しは紛れる。
「……今の、声。あのクソ馬鹿陰陽師もどき、地獄に落ちろ! って……」
「裏天津家が邪悪なるモノを養殖するため犠牲にした、生物の声でしょうね。……本当に一度地獄に落ちて、閻魔大王からまとめて説教喰らえば良いんですよ、あの一族は。引っこ抜いた舌を焼肉にされて、地獄の鬼達に食べられてしまえば良いんです」
栗栖の声に、少しだけ張りが戻ってきた。辺りも前より明るくなって、憤慨している顔がよく見える。
「物騒だなぁ。……と言うかさ、裏天津家が地獄に落ちたりしたら、それはそれでまずいんじゃないの? 地獄から逃げ出して、邪悪なるモノに姿を変えてこの世に祟りを成すぐらいやりそうだよ?」
タイミング良く、「諦めるものかぁ……」と地を這いずり回るような声が聞こえてきた。相変わらず背筋が凍るような声だが、今はもう、それほど寒く感じない。
「ほら、あんな感じに」
栗栖が、嫌そうな顔をした。
「たしかに、有り得ますね。……まぁ、地獄に落ちてから後の事は、安倍晴明翁や、どうしようもない我が天津家の始祖を小まめにシメてくれていた陰陽師の方々、それに表天津家の始祖たる天津栗実。彼らに任せるとしましょうか」
伝説の大陰陽師が地獄に落ちている事前提の話し方をして、罰が当たったりしないものなのか。京都に神社まであるほどの人物だというのに。そして、陰陽師の方々や自分の祖先も地獄に落ちている事前提なのか。
呆れ返って、苦笑して。また声を聞いて、それに関する話をして。栗栖が愚痴って暦が宥め、そしてまた呆れて苦笑する。
そうこうしているうちに、辺りはすっかり明るくなった。大きく息を吸ってみても、最初に感じた埃のような風味やガサガサとした乾いた触感は全く無い。栗栖も、心地よさそうに息を吸っている。
知らぬ間に、邪悪なるモノの残滓達は全くその気配を感じられなくなっていた。
「……これ、終わった……って事で良いのかな?」
「はい。調伏、完了です……!」
栗栖が、笑顔で頷いた。まだ疲れた顔をしてはいるが、いつもの明るさが戻っている。もう、安心だろう。
ぽん、と、誰かが暦の肩を後ろから叩いた。結界が張られている今、この場で暦の肩を背後から叩ける人物は一人しかいない。振り向けば予想に違わず、松山が朗らかな笑顔を浮かべて立っていた。
「お疲れ様、天津君に本木君。無事に全てが終わって、本当に良かった」
うんうんと頷く松山に、栗栖はぺこりと頭を下げる。
「ご心配とご迷惑をおかけしました、松山店長」
「良いって良いって」
手をひらひらと振りながら、松山は笑っている。珍しく、殴りたいと思わせない笑顔だ。
「それで? その様子だと、本木君に決まった感じ?」
「はい」
二人の会話に、暦は「は?」と裏返った声を出す。
「決まった? 俺に? 何が? 何の話……?」
困惑する暦に対して、栗栖と松山は二人揃ってニコリと笑う。今度は、揃って殴り飛ばしたくなるような、人を食った笑顔だ。
「松山店長、今この場で話してしまっても良いでしょうか?」
「別に構わないけど、どうせ話すならバックヤードでしたら? 長い話なんだし、お茶でも飲みながら話した方が良いでしょ? お店の方なら、とりあえず二川さんと村田君、西園さんがいれば何とかなるし」
暦のあずかり知らぬところで、話がどんどん進んでいく。暦が目を白黒させ、口を開閉しているところに、栗栖が「本木さん」と声をかけた。
「ちょっと、お付き合い頂きますよ。今回の顛末……いや、僕がこの店でバイトをする事にした本当の理由に関わる、大事な話があるんです」
「……」
真剣な目でそう言われてしまっては、退くに退けない。
困惑した顔で首を傾げながら、促されるままに暦は結界を出て、バックヤードへと向かった。