庭の波音
若君の様子がおかしいと。最初に言い出したのは誰だっただろうか。
このところ、屋敷の雑仕女や舎人が顔を合わせると、そんな話になる。頭を寄せ合って雑談に興じている雑仕女達を見掛けた女房は、ふとそんな事を思った。
たしかにここ幾月か、彼女が仕えるこの屋敷の若君の様子がおかしい。どうおかしいかと言えば、貝ばかりを食べたがるのだ。
元々そんなに貝が好きだったかと言えば、そういうわけでもない。なのに貝を食べたがる。市で手に入らぬのであればどこかで購ってくるように、とまで言う。
だが、しかし。そもそも、京の周辺で捕れる貝の種類は少ないと聞く。海のある地方へ下っていけば豊富な種類の貝が捕れるのだろうが、京へ運ぶまでの間に腐ってしまう。
では、貝を干せば腐らせずに運べようかと言えば、若君は干した貝では駄目だと言う。貝殻に包まれた物でなくてはならぬなどと言うのだ。
それは無理だと誰かが窘めれば、ならば自ら海のある地方へ下るなどと言い出す。
それでは務めに支障が出ようと言うと、ならば干し貝でも構わないが殻も一緒に屋敷へ持ってくるようになどと厳命する。
とにかく貝の殻にこだわっているようなのだが、何故そこまでこだわるのかは誰にも教えてくれない。
だが、それにしたって若君が貝ばかりを食べたがるようになってから早幾月か。若君が食べたがるだけならともかく、家人達にも貝を食べるよう半ば強要してくるのだから始末に悪い。
もっとも、海のある地方から大量に買い付けて取り寄せるため、若君一人で食べきれるとも思えないのだが。そして取り寄せた干し貝の残りがやっと少なくなってきたかと思えば、また取り寄せる。
自然と、屋敷の者達は毎日干し貝ばかりを食べる事になる。食べる事ができるだけでありがたい事ではあるのだが、それにしたって限度がある。
ちなみに、若君の父親であるこの屋敷の主人も巻き添えを食らっていて、ここ幾月かは干し貝ばかりを食している。流石に若君も父親には理由を話しているようなのだが、主人は主人で家人達には話してくれない。
理由がわからないままとなれば、行き着く先は一つ。家人達は顔を合わせれば、若君が貝ばかりを食べたがり、貝殻を欲しがり、それを家人はおろか父親にまで強要し、しかもそれに関して父親──この屋敷で一番偉いはずの主人が何も言わないこの一連の奇妙さについて語り合い、憶測を垂れ流すようになっている。
憶測を口にしたところで、何が変わるわけでもあるまいに。そう思い、雑仕女達が雑談に興じている様子にため息を吐いた、その時だ。
「墨江(すみのえ)!」
己の女房名を呼ぶ声が聞こえた。振り向けば、今まさにそこで雑仕女達に話題にされている若君が、こちらへ向かってくるではないか。
若君がやってきた事に気付いた雑仕女達が、慌ててその場から退散していく。そんな事など意にも介さぬ様子で、若君は嬉しそうな顔で言った。
「丁度良かった。墨江、お前はたしか、海の近くで生まれ育ったんだったな?」
「え? ……えぇ。墨江と言えば、津(みなと)のある土地。海が無いはずがございません」
そこで生まれ育ったからこそ、その地名を女房名として賜ったのだ。そう言うと、若君は「そうだった、そうだった」と言って頷いている。
「それを見込んで、墨江に見て貰いたい物があるんだ。今から、釣殿まで一緒に来てくれないか?」
「え? えぇ、構いませんが……」
怪訝な顔をしながら首肯すれば、若君は「よし!」と顔を輝かせるなり、釣殿の方へと向かってしまう。
本当に、この若君は一体何をしようとしているのだろうか。首を傾げながら、女房──墨江は若君の後へ続き、釣殿へと足を向けた。
◆
若君の名は、実動(さねいつ)という。実(まこと)にするために動く、と書くのだという事を思うと、これほどこの若君を表す名は無いのではないか、と墨江は思わずにいられない。
この実動若君、とにかく思い付いてから実行移すまでの動きが早い。良く言えば実行力があり、悪く言えば考え無しな若者なのである。
そんな実動が、貝殻を集め、釣殿で何をしようとしているのか。残念ながら、良い予感はしない。
だがしかし、これまでに色々とやらかしてきた実動だが、いつでもその行動には純粋な好奇心と成果を出したいという意欲しか無い。そして、大きな事をやらかす時はいつも、瞳が眩しいほどに輝いている。
こんな眼差しを向けられてしまったら、邪険に扱う事など誰ができるだろうか。少なくとも、墨江はできない。実動が、彼女が仕えるこの家の若君であるという条件を除いても、だ。
そのような事を釣殿に向かいながらつらつらと考え、そして墨江は腹を括った。何が来ても驚くまい。あまりに馬鹿なことをやろうとしていたら、怒れば良い。
そうこうしているうちに、二人は釣殿へと足を踏み入れた。今日は素晴らしい晴天で、時折緩やかな風が吹いてくる。その風が、微かな塩の香りをふわりと運んできた。
……塩?
場にそぐわぬ香りに、墨江は思わず辺りを見渡した。釣殿には、何も無い。では、と端へ向かい、欄干から身を乗り出して外を見る。
……あった。
釣殿のほぼ真下。この屋敷の中で一番の絶景である、大きな池。その縁に、大きな大きな笊がいくつも並んでいる。そしてその全てに、山のように塩が盛られていた。
笊の傍らには舎人が何人も控えていて、どうしたものかという顔でこちら──実動の方をちらちらと見ている。更にその後ろには、くだんの大量の貝殻を盛った笊も並んでいるのが見える。
「若君……これは一体、何をなさろうとしているのですか……?」
少々棘のある声で問うと、実動はそれを恐れる様子も無く、嬉しそうに「うん」と頷いた。
「海を作るんだ」
「……海、でございますか?」
首を傾げながら問うと、実動は「そう!」と力強く言う。
「京に海は無い。それに、気軽に行ける距離にも無い。だから庭に作ろうと思ったんだが、実を言うと僕も海に行った事が無くてね」
だから、文献や絵巻物を読み漁り、海とはどういうものかを調べた。そして、調べた結果から作った海が本物の海に似ているか見て貰うために墨江を呼んだ。……と、実動は言う。
「なるほど、それで……」
納得して頷き、それから墨江は「ん?」と首を傾げた。そして、何かに気付いたのか顔を引き攣らせる。
「……若君。まさかとは思いますが、あの塩は……」
墨江の問いに、実動は「あぁ」と笑って言う。
「池の水をしょっぱくするためにね。海の水は塩辛くて、近くに行けば塩の香りがするんだろう?」
「たしかに海の水は塩辛いものですが、池の水に塩を入れてはなりません!」
思わず声を荒げると、実動はきょとんとして「何故?」と言いたげな顔をしている。なるほど、舎人達が塩の入った笊の傍らでどうしたものかという顔をしていたのは、これが原因か。
墨江は、大きく息を吸い込み、そして吐いた。僅かながら気持ちを落ち着けてから、諭すように実動に言う。
「良いですか、若君。たしかに海の水は塩辛いものです。羹のような塩気のある汁物とは全く違います。海の水に含まれる塩気はとても多く、あれを作るためには相当量の塩を水に入れねばなりません。この池の水を海と同じ塩水にするためには、若君が用意された塩ではまっっっったく! 足りません」
強い口調に、実動は固まっている。その様子に構う事なく、墨江は言葉を続けた。
「それに……池の水を海のように塩辛くしたら、どうなるかご存じですか?」
「ど……どうなるんだ……?」
ご存じないようである。墨江は、小さくため息を吐くと言う。
「海の魚と池の魚は、同じ魚でも体の作りが違います。池の水を塩辛くしたりなどしたら、池に棲む魚が全て死にかねません」
実際、墨江が海辺に住んでいた子どもの頃に川の魚を捕まえて海に投げ込んだところ、死んでしまったことがある。子どもの頃の事とは言え、なんと残酷なことをしてしまったのだろう、と墨江は今でも思う。
最後には食べるとは言え、川の魚を海に投げ込んで無駄に苦しませるとは、なんと罪深いことをするのだ、と。大人達に怒られたものだ。口にした川魚は、何故か海の魚よりも塩辛く感じたことを今でも覚えている。
淡々と語られる墨江の話に、実動は「うぐぅ……」と呻いている。この様子だと、池に塩を入れてはいけない理由を理解してくれたのだろうが、念のためもう一押ししておこう、と墨江は更に口を開いた。
「それに、塩を池に入れることで死んでしまうのは、魚だけとは限りませぬ」
「まだ何かあるのか!」
実動の目が驚きで丸く見開かれる。墨江は、こくりと頷いた。
「池の水に含まれた塩は、次第に池の縁から回りの大地へと染み渡っていきます。土地が、塩漬けになるのです。そうなるとどうなるか……植物が、死に絶えます。それも、今生えているものが枯れるだけではなく、今後一切の植物が生えなくなる恐れまでございます」
「そっ……そんなことになったら、庭造りが好きな父上が悲しんでしまう! それに、花が好きな母上も……」
悲しまれるだけで済むのだろうか。……まぁ、良い。とにかく実動は、事の重大さを理解してくれたようだ。そう見て取れたところで、墨江は実動に問うた。
「若君。そもそも、何故海を作ろうと? これまで、若君が海に行きたいと仰っていた事はありませんでしたよね? それに、若君であればご自身が海に行く事もできますよね?」
すると、実動はしばらく口をもごもごとさせていたかと思うと、小さな声で呟いた。
「志摩に、海を見せてやりたくて……」
「志摩様に?」
実動の口から出てきたその名に、墨江は目を瞬いた。
志摩は、実動の乳母(めのと)の名だ。この屋敷の主人が昔、志摩国へ下った際に、現地で何人かを雇った。そのうちの一人が志摩だったのだが、気が利く上によく働くので主人だけでなく北の方にも気に入られ、京へ戻る際にそのままついてきてもらったのだと聞いている。志摩国の出だから、志摩という名を賜ったのだろう。
京で夫と出会い、子を産み育て、同時期に生まれた実動の乳母となった。厳しくも優しい教育の賜物か、実動はこの通り素直で穏やかな性格に育ち、幼い頃から志摩に懐いている。
墨江達若輩者にも優しく良くしてくれる女房なのだが、ここ一年ほど、体の調子が優れない様子である。
「昨年の冬頃だったか……志摩が、故郷に帰り海を見たい、と言っていたと雑仕女達から聞いて……」
どうやら、先ほどの墨江と同様、雑仕女達の雑談を見掛けたらしい。志摩は有能で強い女性だが、体の調子が優れぬのであれば弱気になり、寂しくなってしまう事もあろう。
「だが、志摩国は遠い。僕ならともかく、体の調子が優れない志摩が志摩国まで行くのは辛かろう。牛車や輿を用意してやる事も考えたが、体の調子が優れぬ時に、あの揺れは良くないように思う」
「だから、屋敷の中に海を作ろうと?」
その問いに、実動は静かに頷いた。たしかに、屋敷の中に海を作ることができれば、釣殿に来るだけで海を見る事ができる。志摩に海を見せてやる事ができる。
異様なまでに貝殻を集めていたのも、貝殻が辺りに散らばっていれば海らしかろうと考えての事なのだろう。
貝殻が欲しいのであればそう言えば良いだろうに、わざわざ中身共々買い取ったのは幼い頃より志摩に「食べ物を粗末にせぬように」と言われていたからではないかと容易に想像できる。
膳に貝ばかりが出る理由を知っているらしい屋敷の主人が何も語らなかったのも、実動の計画を知る事で志摩に余計な気遣いをさせぬためだったのだろう。
「だが、そのために池の魚や、庭の草花を犠牲にしては駄目だ。……どうすれば良いんだろう……?」
力無く呟くその姿に、墨江は盛大にため息を吐く。そして、「仕方がありませんね」と言い放った。
「そんな事情を聞いてしまったら、協力しないわけにはいかないではありませんか」
「墨江……!」
御仏の姿でも拝んだかのように合掌する実動に、墨江は再びため息を吐く。そして、息を吐いた勢いで、思った事を次々と口にし始めた。
「まず、池の水を海のようにしようというのは諦めてください。理由は、若君がご理解なさった通りです。塩は腐るものでもありませんから、厨に持って行って少しずつ料理に使ってもらいましょう」
その言葉に、実動はこくこくと頷く。
「せっかく集めたのですから、貝殻は使いましょう。できるだけ砂地になっている場所に……そう、あの辺りです。ただばら撒くのではなく、砂に半分ほど埋まっているとそれらしく見えるかと」
集めた貝殻の七割はそのように配置し、残る三割はこの釣殿の床にちりばめておこう、と墨江は提案した。
「釣殿にちりばめておけば、手に取って眺める事もできますからね。それと、重要なのは音です」
「……音?」
首を傾げる実動に、墨江は力強く頷いた。
「風が水面を撫ぜれば波が立ち、音が鳴るもの。海は絶えず波が立っており、次から次へと押し寄せてくるのです。それ故、常に波の音が聞こえて参ります。波の音が聞こえなければ、どれだけ見た目が似ようとも、それは海とは言えないと申せましょう」
「波……波か……」
呟き、そして実動は「むむむ……」と難しそうに唸る。
「たしかに、僕が読んだ文献にも波の事は書いてあった。だが、波の音を出す事などできるのか? 絶え間なく風を吹かすよう陰陽師に頼めば良いのか? ……いや、それとも高名な僧侶の方が……?」
「お忙しい陰陽師や僧侶の方々の手を煩わせるのは、いかがなものでございましょうか……」
そう言って実動を落ち着かせてから、墨江は塩の盛られた笊を指差した。
「例えば、あのような笊に米や小豆を入れて揺らしてみるだけでも、波に似た音を作ることはできましょう」
大仰な事をしなくても、ある程度は工夫でなんとかなる。そう言えば、実動は「そうだな」としおらしく頷いた。
すぐに考えなしの行動を起こす実動だが、相手が誰であろうと自分が納得できればその話を聞いて受け入れる事ができる。その様子が好ましく、ついつい聞かれていない事まで教えて力を貸してしまうのだろうな、と墨江は思う。
見れば、先ほどまで困ったような顔をしていた舎人達も、今はやる気になった顔をしている。池に塩を入れずに済んだ事と、自分達が何をすべきかがわかった事で安心したのだろう。既に池の周りの砂地に貝殻を埋め込み始めた者もいれば、塩を厨へ運ぶ者、新しい笊を取りに行く者。中には、早くも米や小豆を調達しに行った者までいる。
下に付く者達が、指示をする前から動いてくれる。動いて、実動の成したい事を実にしてくれる。これほど、名が力を持っている者が他にあろうかと思わずにはいられない。
舎人達の協力を得て、きっと実動は立派な海を作ることだろう。そしてきっと、実動の作った海を見た志摩は喜ぶに違いない。海を見る事ができた以上に、志摩のために海を作った実動の気持ちが嬉しくて。
その様子を思い浮かべながら、墨江は舎人が運んできた貝殻を一枚手に取り、眺めた。元々この貝が棲んでいた海のものだろうか。微かに、潮の香りがする。
緩やかに風が吹いたためか、庭の方から波の音が聞こえた気がした。
まだ見ぬ庭の海に思いを馳せながら、墨江はしばし、その波音に耳を傾ける。それは、まるで実動の心を表しているかのように、強く、それでいて優しい音だった。
(了)