茄子に魅せられて
「おーい、ミノリ農園さんから茄子がそろそろ出荷できそうだって連絡入ったぞー!」
株式会社ベジ充のフロアに、張りのある声が響き渡った。野菜の卸を行っているこの会社には、いつもどこかしらの農園から、どの野菜が食べごろだのもうすぐこの野菜が出荷できそうだの、という連絡が入ってくる。
「茄子かぁ」
「美味いんだよな、秋茄子」
「こう……網の上で焼いてから皮を剥いて、鰹節をかけた上から醤油をひとさし……」
「やめろ、腹減る! 俺、今日は昼飯遅番なんだよ!」
「昼間っからビール飲みたくなるじゃんかー」
フロア内に冗談めかした非難の声と、笑い声が湧く。そんな中、僕を初めとした数人が昼食のために席を立ち、笑いながらフロアを後にした。
◆
「秋茄子……もうそんな時期かぁ……」
「楽しみだよね。美味しいもん、秋茄子」
話を聞いたタイミングもあって、休憩室は秋茄子の話題で持ちきりになった。
各々が好きな茄子料理の名を口にしては、その味を思い描いたのか唾を飲み込んでいる。弁当よりも、唾を飲み込む量の方が多いのではないだろうか。
偶然なのか、それともベジ充の社員の多くに当てはまるのかは定かではないが。とにかく、今この休憩室に集っている者の多くは秋茄子が大好きな様子である。
「昔の人が、秋茄子は嫁に食わすな、なんて言って嫁いびりのネタにしたのも頷けるよな。意地の悪い人間なら、そりゃいびってる対象に美味い物食わせたくないだろうし」
「えー? あの言葉って、秋茄子は体を冷やす効果があるから、お嫁さんの体を大事にするためにも食べさせてはいけないって意味じゃないんですかぁ?」
「えっ、そうなの?」
「諸説あるみたい。嫁いびりの説も、お嫁さんの体を大事にするためっていう説も、それ以外にも色々あるみたい」
スマートフォンで検索しながらサンドイッチを齧る同僚に、最初に由来を口にした二人が「へー」と呟く。
そんな中、僕は弁当箱から煮豆を摘み上げて口に運びつつ、何気無く呟いた。
「でも、ちょっとわかるかもしれません。秋茄子、妻には食べさせたくないかも……」
そう言った途端に、休憩室にいる誰もがぎょっとした。
「え、後藤くんって奥さんの事すっごく大事にしてると思ってたのに、そういう事考えたりするんだ……」
「愛妻に美味い秋茄子を食べさせたいと思わないとか、愛妻家名乗る資格無ぇぞ……」
冷ややかな視線に晒されて、僕は慌てて両手を振った。
「ち、違いますよ! そういう意味じゃなくって!」
そう言えば、「じゃあどういう意味だ?」と問い掛ける視線が襲い掛かってくる。僕は、ため息を吐いて「実は……」と切り出した。
「妻が、茄子が好き過ぎまして……」
一斉に、全員が「は?」という顔をした。気持ちは、わからないでもない。僕だって、話を聞く側の立場だったら同じような顔をしたと思う。
でも、本当にこれが原因で少しだけ困っているのだから、仕方が無い。事実は、事実だ。
「妻が、茄子が好き過ぎて……茄子が旬の時期になると、毎日食卓が茄子パラダイスで……」
「……飽きたのか……?」
「いえ、妻の料理はどれも美味しいので、飽きたって事は無いです」
「さらっと惚気るな、この野郎」
少し脱線したが、他の同僚が続きを促してくれた。そこで僕は、夏からの悩みを初めて口にした。
「食卓が茄子パラダイスなのは良いんです。ただ……食事を始めると、妻が茄子に夢中になり過ぎて、僕の話をまったく聞いてくれなくなるのが寂しくて……!」
休憩室が、シンと静まり返った。
「秋茄子を嫁に食わせたくないって……そういう意味かよ……」
「何と言うか……流石、愛妻家……?」
「いや、愛妻家っていうよりは……甘えん坊……?」
休憩室に、失笑と苦笑が広がっていく。
僕は空になった弁当箱をまとめると、「じゃあ、そういう事で」と言いながらそそくさと休憩室を後にした。
多分今、僕の顔は真っ赤になっていると思う。
◆
「おかえりー! 今日はね、丸くてつやつやの、美味しそうな茄子があったの! 昨日、中華料理食べたいって言ってたよね? だから、麻婆茄子にしたよ!」
玄関扉を開けた途端に、妻の嬉しそうな顔が視界に飛び込んできた。
声が、いつにも増して弾んでいる。このまま扉を開けていたら、弾んだ勢いで外に出て、どこかへ飛んでいってしまうんじゃないかと心配になるぐらいで。僕は慌てて扉を閉めた。
うきうきしている妻の姿に苦笑しながら、僕は手を洗ってうがいをして。そして楽な服装に着替えてからもう一度手を洗って、ダイニングルームへと向かった。
食卓には既に、大盛りの麻婆茄子とライスが湯気を立てて所狭しと並んでいる。
……麻婆茄子とライス、そして申し訳程度に春雨サラダ。それだけで、食卓が満員御礼になっていた。そして、そのうちの三分の二を麻婆茄子が占めている。大皿に、山盛り。それが、二人の席に一つずつ置かれていた。
……うん、これぐらいは想定内だ。今日も食事を用意してくれた事に感謝の意を表しつつ、席に着く。手を合わせて、「いただきます」と言って。そして、まずは茄子を口に運んだ。
……美味しい。
茄子が油をほど良く吸い込んでいて、噛むと口の中に旨味と油が広がっていく。ニンジンとピーマンは歯応えが良く、ひき肉はぱらりとほど良く炒められている。
そして、それらに絡められたタレがまた、良い。ピリッと辛い中に、ほのかな甘み。口の中に満ちた、とろりとした甘味と辛味と旨味のコラボレーションに、僕の口角は自然と吊り上った。きっと僕は今、すごく良い笑顔で麻婆茄子を頬張っている。
「うん、すごく美味しいよ!」
飲み込んでから、惜しみなく賞賛の言葉を妻に向ける。……が。
妻は、僕よりも更に良い笑顔で、麻婆茄子を口いっぱいに詰め込んでいた。ハムスターのようで、何だか可愛い。
そして、幸せそうに茄子を詰め込んだハムスターこと妻は、茄子に気を取られて僕の賞賛を一切聞いていなかったらしい。まるで反応する事無く、もぐもぐと幸せそうに茄子を食べ続けている。
「あの……美味しいよ?」
もぐもぐもぐもぐ。
「その……話、変わるんだけどさ。部長の家で子犬が生まれたんだって。写真、メールで送ってもらったんだけど、あとで見る?」
もぐもぐもぐもぐ。
「……今日も可愛いよ」
もぐもぐもぐもぐ。
「……冬のボーナスの話なんだけどさ……」
もぐもぐもぐもぐ。
くそう……最終手段、『茄子は茄子でもボーナス』作戦でも駄目か……。なんて手強いんだ……!
悔しがって、それから少し恨めしげに妻の顔を見る。すると、妻の頬にはご飯粒ならぬひき肉の粒がくっついてしまっているじゃないか。
どうやら、夢中で麻婆茄子を食べている妻は、頬にひき肉が付いてしまっている事にも気付いていないらしい。
僕は少しだけ腰を浮かすと、妻の方に手を伸ばし、頬に付いたひき肉を指でそっと摘まみ取った。
それで、流石に妻も気付いたのだろう。驚いた顔をして僕の方を見ているので、僕は苦笑しながら、摘まみ取ったばかりのひき肉を一瞬だけ見せて、自分の口に放り込んだ。
途端に、妻の顔が真っ赤になる。可愛い。
「やだ、口で教えてくれれば良いのに!」
「いや、何度か話し掛けたんだけど、麻婆茄子に夢中で僕の声、聞こえてなかったみたいだし」
そう言ったら、妻は増々真っ赤になった。可愛い。
「本当に、美弥って茄子好きだよね。特に、麻婆茄子。昔からそうだったの?」
「ううん、こんなに茄子が好きになったのは、結婚してからかな」
「そうなの?」
意外そうに僕が言うと、妻は少しだけ膨れたようになって、俯きながら言った。
「覚えてないかな? 結婚して、最初の晩ご飯。私、麻婆茄子を作ったんだよ?」
それは、勿論覚えている。あの時の麻婆茄子も美味しかったし、結婚したんだって実感が湧いてきて感動した覚えもある。
そう言ったら、妻はふるふると首を横に振った。
「けどね。あの時の麻婆茄子、自分ではあんまり上手にできなかったって思ってたの」
「え、そんな事ないよ? あの時の麻婆茄子も、美味しかったよ!」
「うん、あの時も、昇平くん、そう言ってくれたよね。けど、自分では納得いかなかったっていうか。……ううん、違うか。こんな納得いかない出来でも美味しいって言ってくれる昇平くんに、もっと美味しい麻婆茄子を食べさせてあげたいって思ったんだ」
それで、美味しい麻婆茄子を作るべく、研究したのだという。たくさん調べて、彼女の母親にもコツを訊いて。更に、B級品のいわゆるくず野菜を安く売るコーナーで茄子を見掛ければたくさん買い込んで、自分の昼ご飯に何度も作って練習したのだという。
「そうやって、調べたり練習したりしてるうちに、私自身が茄子大好きになっちゃって。……美味しいよね、茄子!」
そう言って、彼女はまた満面の笑みを浮かべて茄子を頬張った。ああ、もう。そんな顔を見せられたら、もう「秋茄子は嫁に食わせたくない」なんて口が裂けても言えないじゃないか。
妻が美味しそうに麻婆茄子を食べる様子に、僕まで幸せな気分になってくる。頬が緩むのを感じながら、僕はまた茄子を口に放り込む。……うん、やっぱり美味しい。
茄子と一緒に幸せを噛み締めている僕に、妻が「そう言えば……」と思い出したような顔をして、会話を振ってきた。
「さっき言ってた、冬のボーナスの話なんだけど……」
しっかり聞いているんじゃないか。
(了)