滅亡の歌姫
さくさくと、乾いた地を踏み分けて若者は村へと辿り着いた。廃れかけた村だ。建物も何もかもがボロボロで、とても人が住める場所ではない。雨風を凌ぐ事ができるだけ、野宿するよりはマシな場所、といったところか。
若者は、ため息を吐きながらその場にしゃがみ込むと、土を一握り掴み取った。土には湿り気が無く、握った拳を開くと風に乗ってさらさらと吹き飛んでしまう。このような土では、作物は育ちそうにもない。若者は己の手からこぼれ落ちる土とも砂ともつかぬ物を見て、再び深い溜め息を吐いた。
その、こぼれ落ちる土だか砂だかを吹き飛ばす風が。それを若者の手から奪う代わりとでも言うように、音を運んできた。
音――歌だ。歌詞はわからない。だが、ただの音ではない、旋律を持ったそれは歌であると、若者にはっきり認識させた。
立ち上がって、歩けば歩くほど、聞こえる音は大きくなっていく。そして、大きくなるに従って、若者の体調に異変が表れ始めた。
心臓がばくばくと脈打つ。呼吸が浅く速く、小刻みに。全身――特に足から力が抜け、終いには立つ事すら難しくなった。
若者はその場に膝から崩れ落ち、喘ぎながら頭上を仰ぎ見た。
少し先に、この枯れた大地に似つかわしくない、大きな木が聳えている。今まで見えていなかったのに、突然見えるようになるというのはどういう事だろうか。
その、木の頂上。立てるとは到底思えない、極端に細くなった幹の先端に、人の姿が見える。
少女だ。遠目でもわかるほどに、白い肌と白い髪。そして白いワンピース。長い髪を風になびかせながら、口を動かしている。
あぁ、この歌は彼女が歌っているのだ。何故かそう、はっきりと思う事ができた。
だが、それ以上の思考ができない。いや、思考ができないどころか、呼吸をする事すら難しくなってきた。
そろそろ、意識が飛ぶ。それを無意識のうちに悟った、その瞬間。
ぽん、と、若者の肩を何者かが叩いた。若者がびくりと反応すると、何者かは若者の両脇に腕を通し、もの凄い勢いで引っ張り出す。
一分もしないうちに、若者は歌声の聞こえない場所へと連れていかれた。
歌が聞こえなくなると、不思議と若者の体調も元に戻る。若者は、目を丸くしながら、己を引っ張ってくれた者の顔を見た。
全く知らない顔の中年男性だ。若者が不思議そうな顔のまま見ているのに気付いた中年は、ニッと笑うと、両の耳から何かを取り出した。掌の上に載せられたそれを見せて貰えば、耳栓だ。
「気を付けな。あの木の上にいるのは、滅びの歌姫だ。歌を聴き続けるとやがて体から全ての力を奪い、やがては死に至る。迂闊に近付けば、わけがわからないままに命を落とすぞ」
「命を……?」
信じられない言葉に、若者は目を見開いた。歌を聴いただけで死ぬなんて、そんな話は聞いた事が無い。
「それが本当なら……どうしてのあの歌姫とやらを何とかしないんだ? 近付いて死ぬのなら、近付かずに殺せば良いじゃないか。銃……は、射程が短いか。けど、大砲とか……そんな危険な存在なら、いっそ上空から爆弾を落としたって……」
若者の提案に、中年は顔をしかめて首を振った。そして、少女が佇む木より、更に向こうを指差して見せる。
そこには、青々と茂る草原があった。多くの葉を蓄えた若木も何本も見受けられる。
あまりに不自然な光景だ。今、若者達がいる場所は完全に乾き切っている。なのに、木を一本隔てた向こうは、あんなにも緑満ち溢れているとは。
「あれは……?」
「あの歌はな、たしかに命を奪う。けど何故か……同時に、大地を蘇らせる力もあるみてぇなんだ」
「大地を?」
中年は、難しそうな顔をして頷いた。
「知っての通り、先の戦争で世界中の大地はぼろぼろ。人が住むにも、作物を育てるにも適さねぇ土地ばかりだ。だが、あの歌にはそんな大地を蘇らせる力がある。……そんな歌を歌える奴を、たとえ何者だろうと殺すには惜しい……そう思わねぇか?」
それは、たしかにそうかもしれない。その意味を込めて、若者は頷いた。
どうせ殺すのであれば、全ての大地が蘇ってからの方が良い。人間が生き延びるためには、豊かな大地が必要なのだから。
だが、あの少女は果たして、こちらが意図した通りに歌ってくれるのだろうか。全ての土地が蘇るように歌うには、世界中を巡らなければならない。移動してくれるのだろうか。今は微かにしか聞こえないこの歌を、世界中に届かせるために。
「……ん?」
ふと、息苦しさを感じて。そして若者は気付いた。
二人は、歌声の聞こえない場所まで来たはずだ。それなのに、今は微かに歌が聞こえる。この体調の悪さが、それが幻聴ではない事を教えてくれている。
中年もそれに気付いたのか、慌てて耳栓を取り出した。だが、間に合わない。震える掌から耳栓は転がり落ち、中年は首元を抑えて苦しみ出す。
若者も再び全身から力が抜け、なすすべも無く地に伏せた。そこで、やっとわかる。
歌声が、どんどん大きくなっているのだ。その場から動く事無く、世界中に届かせようとでもしているかのように。
聞こえる歌声は、辺りに響き、木霊し、拡がっていく。世界中に拡がるのも、時間の問題だろう。
体が動かない。逃げる事はできない。そう悟った若者は、観念したように目を閉じた。
# # #
全ての生物が死に絶えた、しかし植物だけは生き生きとした生命力を宿している草原。そこに、少女はふわりと降り立った。
少女が降り立ったと同時に、草原には幾種もの新しい芽が息吹く。それに気付いた少女は顔を綻ばせ、またもその口から美しい旋律を紡ぎ出した。
少女の歌に応えるように、芽はぐんぐん育ち、やがて木となり実をつける。
その実は、大きくなり、そして熟すと、ひとりでにぱかりと割れた。割れた中からは、ずるりと小さな生物が這い出てくる。
今までに、誰も見た事がないような生物だった。顔は犬のようだが、体は猫のよう。背には翼まで生えている。
少女がその生物を見詰めている間に、他の場所でも実が生り、そして生物が生まれ出てくる。
珍妙な姿をした、誰も目にした事がないような生物。どこかで見た事がある生物。誰もが知っているであろう生物。
多種多様な生物が、成熟した実からどんどん生まれてくる。中には、雌雄が揃いつがいとなっている種もいるようだ。
やがて、二本の足で立ち、他のどの生物よりも多くの言葉を使って話す生物が生まれ出た。人間によく似たその生物もまたいつしかつがいを作り、生まれ出た草原で営みを始める。
新たな生命たちに聞こえぬよう声量を抑えて、少女はまた歌う。
戦争は嫌い。
戦争をする子も、それを止める事ができない子も。
みんな、みんな嫌い。
みんな、みんな要らない。
だから、滅ぼしてしまおう。
そして、創り直そう。
何度でも滅ぼし、何度でも創ろう。
争いの無い、誰もが幸せな世界が生まれるまで。
何千年も昔の、彼女が最初に生み出した世界の言葉で、彼女は歌う。彼女の理想の世界が現実のものとなるまで、何度でも。何度でも。
(了)