僕と私の魔王生活











「このまま貴方に殺されるか、それとも抵抗と立ち回りを試みるか。どちらでも良いわ。どちらでも私が望む道だもの」

 そう言って、彼女は眼前の刃を見据えたまま、微笑んだ。

 彼はただ、剣を突き付けたまま、唖然とするしかなかった。





  ◆





 中橋優音(ゆうね)は、世間一般的には優秀で人畜無害な人間である、という評価を受けている。

 学生時代の成績はそこそこ良かった。社会人になってからも、仕事では大きな案件を勝ち取る事こそ滅多に無いが、細かく地道な仕事を着実にこなして成果を上げていくスタイルでそれなりに上手く立ち回っていた。

 周囲への人当たりも良く、コミュニケーションも取れている方だと、本人は思っている。

 それが。それら全てが、苦しかった。

 成績がそこそこ良かったというレベルでは、長所になり得なかった。

 大きな案件は勝ち取れないが細かい仕事をコツコツこなすタイプであるために、細かい仕事が大量に回されてきて、彼女のデスクは常に書類がうず高く積み上がっていた。

 人当たりが良いために無茶振りも多くされたし、無意識に失礼な物言いをしてくる者も多かった。

 怒りたかったし、怒鳴りたかった。だが、それをすれば今まで築いてきた「人当たりが良い人」というイメージが瓦解する。そう思うと、黙っている他無かった。

 怒りに任せて動くには、彼女は今までの人生で良い子を演じ過ぎたのだ。「良い子」が怒ると、怒りっぽい人間が同じぐらい怒るよりも評価が下がりやすいのだという事を、彼女は身を持って知っていた。

 仕事の外で、何か発散できる趣味を持っていれば良いのではないか。そう考えて様々な活動に手を出してみたが、器用貧乏なためにどれもそれなりには上達するものの、目覚ましい成果をあげる事ができない。

 読書はまぁまぁ好きで、小説や漫画はよく読む。映画もたまに観る。だが、のめり込むほど夢中になった事が無い。

 ならば恋人でも作ってみてはどうかとも考えたが、生憎、優音は人への興味関心が薄い。コミュニケーション能力があるからと言って他人への興味があるのだとは限らないのだ。

 これといった特技が無い。不満を表に出す事ができない。人との繋がりがモノを言う現代において、他人への関心が無い。

 そんな彼女にとって、現代日本という世界は少々……いや、かなり生き辛い世界であった。それこそ、生きているのが辛くなってしまうほどに。

 それでも特に死ぬ理由も無く、もやもやとした物を内に抱えながらも、漠然と生きてきた。

 生き辛い、息苦しい、私は周りが思う程上手く生きられる人間じゃない、私に期待しないで欲しい、期待されてもプレッシャーを感じずに済むほどの成果や自信が欲しい。そんな想いを、持て余しながら。

 そんな状況が一変したのは、ある冬の夜の事だった。

 仕事を終えて家に帰る途中、突然景色が歪んだ。ビルも、街路樹も、何もかもが渦を巻くように曲がりくねり、闇と同化していく。光が、消えていく。

 ふわりと、体が浮いた気がした。突然足場が消えて落下したようにも感じた。ぐわんぐわんと体が揺れて、錐揉みされているかのような感覚。

 気持ちが悪い。そう思った瞬間に、体は硬い地面の上に投げ出された。

 腰を強かに打った事で呻きつつも、足下の確かな安定感にホッとする。

 頭が揺れる感覚や、気持ち悪さ。それらの不調が治まったところで、優音は辺りを見渡した。

 辺り一面真っ暗で、闇の中に放り出されたかのよう。しかし足下に触れてみれば土の感触があるし、目を凝らせば木々のシルエットが薄らと見える。

 どうやらここは、森か何からしい。辺りがあまりにも暗いのは、空が曇っているのか。それとも、今日は新月の日だったか。月の満ち欠けなど普段意識していないため、わからない。確実に言えるのは、今日の夜は傘は必要無いと今朝の天気予報で言っていた、それだけだ。

 そんな暗い森の中、優音は何を考えてか、ぼんやりと辺りを見渡している。突然このような場所に来てしまった事に関する不安は、表情を窺う限りは無いようだ。

 肝が据わっているのか、危機感が無いのか、わからない。……が、肝が据わっていようが、危機感が無かろうが、危険は来る時は来るものだ。こんな人けの無い暗い森の中であれば、尚更。

 優音の様子をジッと窺う者があった。暗い中、光が無い事など何ともないとでも言うように、まっすぐ彼女の姿を見詰めている。

 やがて、その力の籠った視線に気付いたのだろう。優音はハッと、視線の主へと首を巡らせた。

 視線の主から、驚いた気配が伝わってくる。それは、そうだろう。こんな暗闇の中、迷う事無く、視線の主へと首を巡らせたのだ。ただの人間が、こんな芸当ができるものだろうか?

 思わぬ優音の勘の良さに焦ったのか。視線の主が動いた。

 隠れていた茂みがガサガサと鳴る。暗闇の中でもわかる、黒い塊が飛び出してきた。

 黒い塊は人のような形をしている。手に、長い何かを持っている。目を凝らしてよく見れば、それは肉の厚い、大ぶりの剣だった。流石の優音も、息を呑む。

 飛び出してきたそれは走りながらも剣を構え、突き出す。冷たい鉄の刃が、優音の首筋ギリギリを空を縫うように走っていった。

 何事だろう、と思う。だが、今は様子を確認するために首を巡らせてはいけない。首を巡らせれば、突き出された刃が己の首を斬るだろう。

 身動きが取れなくなった彼女を助けるかのように、月の明かりが差し込む。そうか、ここがこんなにも暗かったのは、雲が月を隠していたからか、と、優音は一人納得して頷こうとし、首を動かすと危ない事を思い出して寸でのところで止めた。

 そんな彼女に、剣を突き出してきた者は言う。

「あの……なんでそんなに落ち着いているんですか? これ、剣ですよ? 武器ですよ? 危ないんですよ?」

 音も低いが腰も低そうなその声に、優音は眉をひそめた。危ない? 今まさに剣を突き出している張本人がそれを言うのか?

 雲が流れていっているのだろう。月の明かりが照らす範囲が、どんどん広くなっていく。

 目の前の者の姿が、徐々に見えるようになっていく。

 黒い服を着て、黒いマントを羽織っていた。顔が、青白い。そして、目と髪は血のように赤く、側頭部には羊のような角。

 表情だけ見れば優男だが、服とパーツが、この者がただの優男ではない事を示してくる。

 そこにいるのは、まるで物語の悪魔が抜け出してきたかのような姿の青年だった。











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