真夏の悪の水中花
グレー一色の壁、そして床と天井。窓も照明装置も無く、室内を照らすのは電子機器類の画面やらが発する光だけだ。
タイル張りの床には、太い管が何十本も這いずり回っている。そして、部屋中央の通路を挟むようにして、太い柱が何本も並んでいる。
……否。柱ではない。柱と見紛うほど太く大きい、試験管だ。中には水色の液体が並々と注がれ、底からはぽこぽこと泡が噴き出している。
試験管の口には、蓋。マンホールの蓋を十枚は重ねたような厚みがある。そしてこの試験管の中には……人が眠っていた。
そう、人だ。
試験管一本につき、一人。皆、試験管の中で波間を漂うようにゆらゆらと揺れながら、眠っている。
この試験管はコールドスリープ装置の一種なのか、大きな音を立てても、彼らが目覚める気配は無い。
そして、中に眠る人々は皆、一様に美しい。美男美女ばかりが眠る試験管は、見る者に水中花を思わせた。
「なにこれ、ひどい……」
世界征服を企む、悪の組織。その研究所に一歩踏み込んだ勇者一行は、その光景に呆然とした。ある者は絶句し、ある者は口を押えて座り込む。
戦士が試験管を破壊しようと、大剣を振りかざす。しかし、どれほど頑丈な物質でできているのか……試験管には、傷一つつかない。
「ふふふふふ……どうかね? 我が研究所の顔たる、水中花の部屋は」
呆然としていた勇者達の頭上から、声が降る。見上げれば、そこには部屋を俯瞰できるデッキがある。そこに、この研究所の長である科学者が佇んでいた。
「やはりお前か……。街の人達を拉致し、こんなところに閉じ込めてどうするつもりだ!」
勇者の問いに、科学者はククッと喉を鳴らして笑う。
「どうするも何も……私は彼らを救ってやったのだよ。今の世界は、彼らにとってあまりにも酷だ」
だってそうだろう? と、科学者は言う。
「連日、最高気温四十度だぞ! 並の人間が生きていける気温ではない! こんな中で社会生活を強いられるなど、あまりにも哀れではないか!」
辺りが、水を打ったかのように静まり返った。
まさかの善意百パーセントで、勇者達は言葉が見付からない。
「この試験管内は常に人間にとって快適な気温が保たれ、満たされた薬液によって体力を回復する事もできる! 暑さに体力を削られる事も無く、心地良い眠りでこれまでの生活で失った活力を取り戻す事もできるのだぞ! 一体何の問題があるというのだね?」
これでは、怒るに怒れない。……が、一応勇者と悪の科学者という関係である以上、勇者達は相手の行動に何らかの問題点を見付けなければならない……というのが世間一般的な考え方である。
「えぇっと……その……だったら、何故美男美女ばかりなんだ! 救うためと言う割には、不公平じゃないか!」
流石に、この言い草はどうかと思う。……が、どうにもこれ以外に文句のつけようが無い。それほどまでに、今年は暑い。
「ふっ……美男美女だけ。本当にそう思うかね?」
「何……?」
勝ち誇った顔をする科学者に、勇者は眉をひそめた。その様子に、科学者は楽しそうに嗤う。
「美男美女でない者は、皆、奥の部屋にいる。醜男に醜女、勿論フツ面もだ。この部屋は玄関のようなもので、この研究所を訪れた者が真っ先に目にするからね。玄関はその施設の顔だ。美男美女を並べておくのは、当たり前だろう?」
それでも文句があるのなら、美人の受付嬢ばかりを並べている企業に片っ端からクレームを入れてからにしたまえ。そう言われてしまっては、ぐうの音も出ない。
勇者達が押し黙ったのを見て、科学者は満足そうに頷く。そして、言った。
「まぁ、君らもひとまずこの試験管に入ってみないかね? そしてこの快適さを味わって貰えれば、私の行動にも納得がいってくれるだろう。見れば、君たちは随分と暑い中を歩いてきたようだ。皆、顔が真っ赤ではないか」
そう言って、科学者は傍らの端末を操作した。一本の試験管の蓋が開き、そこからひんやりとした冷気が流れ出てくる。
その冷気に誘われるように、魔法使いがふらふらと試験管へ歩んでいく。
「あっ、こら! 入るんじゃない!」
勇者の叱責に、魔法使いはくるりと振り向く。そして、言った。
「だって、暑いんだもん!」
勇者一行の中でも、彼女は特に体力が無い。暑い中を歩き通しで、体も思考も限界ギリギリのようだ。
その叫びに勇者達が気圧されている間に、彼女は試験管に入ってしまう。パタン、という蓋が綴じられる音が虚しく響いた。
「さぁ、君達もどうかね? 試験管の中は涼しいぞ。快適だぞ!」
その言葉と、既に試験管の中で心地良く眠っている様子の魔法使いに、仲間達は顔を見合わせた。そして、ふらふらと試験管へ向かっていく。
「こ、こらーっ!」
勇者の叫び声も虚しく、仲間達は次々に試験管へと入っていってしまう。そしていつしか、その場には勇者と科学者だけが残された。
「現実は、こんなものなのだよ。どれだけ強くとも……所詮、人間は猛暑には敵わない」
そう高らかに言い放ち、科学者は高笑いを始めた。
そして、そのまま後ろにぶっ倒れる。
「……へ?」
呆気にとられて、勇者はデッキを上り、科学者の元へと駆け寄る。見れば、科学者は顔を赤くして気を失っている。どうやら、熱中症のようである。
「……ずっと涼しい室内にいたのに……?」
唖然として、呟いた。だが、涼しい室内にいても熱中症になる時はなるのだ。例えば、水分補給を怠ったりだとか、そういった理由で。
「……あー……」
勇者は困ったように頭を掻くと、辺りを見渡した。蓋が開きっ放しになっている、空の試験管がまだいくつかある。
「……この処置で良いか……」
そう呟くと、勇者は科学者を空いている試験管に放り込む。とりあえず、一応これでも人命救助にはなっているはずだ。
蓋を閉めて、端末を見る。どうやら、科学者は本気で人助けのつもりで人々を試験管に閉じ込めたらしく、九月上旬の暑さが和らぎ始める頃には自然に目が覚めるようセットされている。
どの試験管に入っている人も時間になったら目が覚めるらしい事を確認して、ホッと安堵の息を吐いて。そして勇者は再び頭を掻くと、何やらしばらく考え込んだ。
十分は考えただろうか。勇者は自分達が入ってきた扉と、まだ空のままである試験管を交互に見た。そして。
「……暑いもんな。暑いから、仕方ないな。うん」
そう呟くと、彼もまた試験管に入り、蓋を閉じてしまう。
こうして、勇者と悪の科学者の戦いは、人知れず中断された。
時は、平成三十年。日本各地で四十度を超える気温が観測された、暑い暑い、夏の事である。
(了)