後朝の星
夏は、夜。月のころはさらなり、闇もなほ、蛍の多く飛び違ひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、をかし。雨など降るも、をかし。
「まことに、少納言の申した通りだな」
柱にもたれて夜の庭を眺めながら、藤原行成はぽつりと呟いた。少量ではあるが、先ほど酒を飲んだ故だろうか。普段よりも少しだけ、口が軽くなっている気がする。
「私が、何か申し上げましたか?」
今上帝と中宮定子の話し相手を務めていた清少納言が、不思議そうな顔をして振り向いた。
所は、内裏の外、大内裏の内にある、中宮御所の一房。
清少納言の元を友人である行成が訪っていたところ、定子からお呼びがかかった。清少納言一人で向かおうとしたのだが、行成の事を聞いた定子から、ならば頭の弁も共に……、と言われ。有り難いお心遣い、と同席する事にしたのは、もう何刻前だったか。
行ってみれば、まもなく帝が御成りだと言う。そしてその後すぐにやってきた帝と四人、碁を打ち、絵を眺め、漢籍について論じ……と有意義な時を過ごしているうちに、いつしか子の刻も半ばを過ぎていた。
酒が入った事で少々酔ったと、無礼を詫びて行成は坐を外した。外したと言っても、御簾の外へ一歩出ただけではあるが。そして、夜風に当たりながら庭を眺めているうちに、思い出したのだ。
「夏は夜が良い。月の出ているのは勿論の事、新月の闇の中で蛍が飛び交っている様も良い。雨が降っている時も、また……」
以前、清少納言が草子に記していた事を、行成は口に出して当人に聞かせた。清少納言は、「まぁ」と呟き、困ったような笑みを浮かべている。
「お人が悪い。主上の前で私の戯言を口ずさむなど……」
「良いではありませんか、少納言。私は少納言の感性や、書き記す言葉、大好きですよ。大好きな少納言の言葉を主上に聞いて頂けるなら、これほど嬉しい事が他にありましょうか」
定子の言葉に、清少納言は頬を赤らめ、肩を竦めた。その様子に、定子は珍しや、可愛らしやと明るく笑っている。
その笑い声につられたのか、普段は真面目で堅苦しいと言われる行成の口からも自然と笑いがこぼれ出た。
笑いを努めて納める事も無く、行成は視線を再び庭へと移す。
月の見えない、夏の闇夜。昼間に雨が降っていたために、湿った苔のにおいが感じられる。その上を、蛍が一つ、二つ……。
空を見れば、月こそ隠れて見えないが、雲の切れ間からいくつもの星が覗いている。
あぁ、やはり夏の夜は良い。
感慨深げにそう呟けば、散々定子に褒められて流石に照れてしまったらしい清少納言が、顔を赤く染めながら御簾を掻き上げ、行成の腕を引っ張り上げた。思わず立ち上がった行成に清少納言は、照れを隠すように怒ってみせる。
「あまりお戯れを仰りませんように! 付き合いの悪い堅物な事で有名な貴方様がそんな事を口にするなど、御酒の召し上がり過ぎなのではございませんか? 早々にご自分の御邸に帰るなり、どなたかの殿居に付き合って休まれるなり、された方がよろしいのでは?」
彼女の言い分ももっともだ、と行成は苦笑した。先も感じていた事だが、たしかに今日は口が軽くなっている。帝も苦笑して頷いているようだ。なるほど、たしかにこれは、そろそろ帰って寝た方が良い。
「少納言の言葉に従い、今宵は帰って休む事としよう。……夏の星に見送られながらの後朝というのも、味わいがあって良い」
最後の言葉は、清少納言にだけ聞こえるように囁いた。すると、彼女は顔をしかめて、「失礼します!」と鋭く言うと、行成の腕を引いて御簾から遠ざけた。
目を瞬かせる行成に対し、清少納言は帝と定子の様子を窺ってから、声を潜めて険しい顔で言う。
「あまりここで、後朝という言葉を使われませぬよう」
「? と、言うと?」
行成が首を傾げると、清少納言は増々顔を険しくする。はぁ、と行成にだけ聞こえるため息を吐いた。
「後朝は、男女の別離を意味する言葉でもあります。そして、今年の秋には、主上の元に新たな妃が入内される……ここまで言えば、もう充分でしょう?」
そう言われて、行成ははっと口を噤んだ。
清少納言が言わんとする事に気付いた。そして同時に、そんな事にも気が回らないなど、今宵は本当に酒を飲み過ぎてしまっている、と猛省した。
清少納言が仕えている中宮定子は、四年前に亡くなった関白藤原道隆の長女。道隆が世を去ってからは後ろ盾の力が弱まり、更に彼女の兄弟が長徳の変を起こしてしまった事で、その立場は危ういものとなっている。
対して、勢力を伸ばしてきているのが道隆の弟、藤原道長だ。その道長の長女、彰子が、秋の終わる頃に入内を控えている。
力をつけてきている道長の娘の入内。いくら定子と仲睦まじいとはいえ、帝は道長に気を使い、彰子の元に通わざるを得ないだろう。そうなれば、定子は孤閨をかこつ事になる。帝の寵が薄れたと周囲に見なされれば、ただでさえ危うい定子の立場は……。
得心した。それでなくても、出産を控えた定子はもうすぐ平生昌の邸に移る事になっている。無事に出産を終えるまで、帝に会う事はできまい。
たしかにこの場で、後朝という言葉を口にするのは、配慮が無さ過ぎる。
清少納言に侘びの言葉を差し出し、行成はその場を後にした。今宵の己は、口が軽い。これ以上あの場に留まっていたら、またぞろ余計な事を言いかねない。
帰り際の行成に、「詫びる気持ちがあるのであれば、後日定子様に書を贈れ」と要求してきた清少納言の強かさは流石である。後の世で三蹟に数えられるようになる行成の書であれば、所持しているだけでも自慢の品になるだろう。
苦笑して、歩きながら行成は考える。さて、贈るにしても、何を書けば喜んで頂けるのやら。
ふと上を見上げれば、空はまだ暗く、星がいくつも瞬いている。
やはり、星に見送られているようだな。
それだけ考えると、夏にしては冷える空気の中、行成は振り向く事無く歩いていった。どこか人目をはばかっているかのような歩き方は、本当に後朝の文を送るために帰り道を急ぐ男のようで。
そして、それを見送るいくつもの星は、京が朝を迎えるまで、ずっと瞬き続けていた。
(了)