かわらべさん
ある晴れた夏の日。俺が川沿いの道を歩いていると、何やら前方から騒がしい声が聞こえてきた。
見れば、小学生男子数名が、何かを取り囲んでやいのやいのと騒いでいる。中には、木の棒で何かを叩いている者までいるようだ。
「おいおい、浦島太郎の亀かよ。室町時代も平成も、悪ガキのやる事は変わらねぇなぁ……」
呆れながら、俺は少年達に近付いた。止める前に、一体何をいじめているのかと上からそっと覗き込む。
ギョッとした。
そこで蹲っているのは、亀ではない。どう見ても、三十代ぐらいと思わしき人間の男だ。
「おい、お前らっ! 何やってんだ!」
怒鳴り付けると、悪ガキどもは蜘蛛の子を散らしたように逃げていく。ランドセルを背負っているから、きっと近くの小学校に通う児童だろう。あとで通報しておこう。
囲まれていた男は、相当手酷くやられたらしい。悪ガキどもがいなくなっても、まだ動かずに蹲っている。ビジネスバッグの中身はぶちまけられ、白い名刺が何枚も散らばっている。
「ちょっと……大丈夫ですか? 救急車、呼びましょうか?」
携帯電話を取り出しながら問うと、相手はやっと、むくりと起き上がった。
「や……大丈夫です。……ありがとうございます。助かりました」
立ち上がりながら、彼はぱんぱんとスーツの埃をはたいた。今時のサラリーマンにしては珍しく、中折れ帽子を被っている。殴られている間、ずっと飛ばないように押さえていたのだろうか。帽子の汚れが、一番酷い。
男は散らばった物を掻き集めるとビジネスバッグにしまい込み、一番汚れの少ない名刺を差し出してきた。
名刺には会社名が記され、その下に大きな明朝体で「河童三郎」と書かれている。
「……かっぱ、さぶろう……」
「かっぱではありません! かわらべ、です!」
怒った顔で、かっぱ……ではなく、カワラベさんは訂正を求めてきた。頭から湯気が出そうというのは、こういう表情の事を言うのだろう。
「……す、すみません……」
やや引き気味に謝罪すると、カワラベさんはハッとして項垂れた。
「……すみません。助けて頂いた方に、怒鳴ってしまうなど……。今まで、この名字のために何度もからかわれてきましたので、つい……」
「まぁ……何と言うか……変わった名字、ですよねぇ……?」
様子を伺いながら言えば、カワラベさんは「そうなんですよ!」と眦を下げながら訴えた。
「子どもの頃から、河童、河童って! 皿の水が乾いたら死んじまうんだろー、とか言って水をかけられたり、尻子玉注入! とか叫びながら浣腸されたり!」
「今だったら大問題ですよ、それ……」
呆れて言えば、「ですよねぇ」とカワラベさんは苦笑する。
「さっき、子ども達にいじめられていたのも、これが原因ですよ。うっかり名刺入れを落としてしまって、それを見た子ども達が河童河童、って。河童は妖怪だから退治しなきゃ! とか言いだして、あとはご存知の通りです」
「……災難でしたねぇ……」
「まったくです」
はぁ、とため息をついてから、カワラベさんは「あっ」と小さく叫んだ。
「そう言えば、お時間は大丈夫なんですか?」
言われて、俺も「あっ」と叫ぶ。
「そうだそうだ、そうだった。アポの時間に遅れちまう」
「あ、ちょっと待ってください!」
腕時計を見て、慌てて走り出そうとする俺を、カワラベさんが呼び止めた。そして、名刺を一枚欲しいと言う。
「後日、改めてお礼に伺いますので」
「いえいえ、お気遣い無く」
言いながらも、名刺を一枚、取り出して渡した。カワラベさんは名前の読み方を確認すると、胸ポケットの中に仕舞い込んだ。
「では、本当にありがとうございました。私も、会社に戻ります」
「そうですか。では……」
踵を返し掛けて、俺は足を止めた。カワラベさんが、会社に戻ると言いながら、川に向かって歩いていくのが視界に入ってしまったから。
俺が見ている事に気付かぬまま、カワラベさんは暑いのか上着を脱いだ。鮮やかな緑色のワイシャツが姿を現す。
次いで、帽子を取った。白くてつるんとした物が、目に入ってくる。
そしてカワラベさんは、躊躇う事無く川に踏み込み、そのまま水の中に沈んでいった。あとに残ったのは、ぽこぽことした水泡ばかり。
その光景を、しばし呆然として見詰めてから、俺は呟いた。
「……河童じゃん……」
(了)