紙が伝える僕らの世界
ぱらりと音を立てて、僕は本のページをめくった。
教授の急用で講義が休みになった、秋の午後。紅葉と共に降り注ぐ陽の光を浴びながらベンチで読み耽るハードカバーの重みが心地いい。
「高山ぁ。暇だったら一緒に何か食いに行かねぇ?」
やや遠くからかけられた声に、僕は顔を上げる。見れば、同じ講義を受講する予定だった友人が近付いてきていた。
「何見てんだ?」
彼はそう言うと、不躾に僕の手元を覗き込んでくる。そして、一瞥して「おおう……」と謎の呻き声を発した。
「お前……今時紙の本なんて読んでんの? 講義で指定された本でもないのに? この本、電子書籍でも買えるだろ?」
「紙の本が好きなんだよ」
苦笑して僕が言うと、彼は「信じ難い」とでも言いたげに、大袈裟にのけ反った。
「変わってんなぁ……。紙の本なんて重いし、場所取るし。電子書籍の方がずっと良いように思うけど」
そう言って、彼はタブレット端末を取り出して画面を見せてくれた。何十あるかわからない本のタイトルがずらりと並んでいる。
「紙の本が、好きなんだ」
もう一度言って、僕はぱたんと本を閉じた。
たしかに、電子書籍は便利だ。重さを感じる事無く何冊もの本を持ち運べるし、何百冊買ったところで部屋のスペースを圧迫しない。端末さえ持っていれば、いつでもどこでも、好きな時好きな場所で、読みたくなった本を呼び出せる。
何より、絶版や品切れというものが無いのが良い。特に学術書は、少し古くなると手に入らなくなってしまう物も多いので、何本もの論文を書かなければならない大学生にとっては本当にありがたい。
けど、だからと言って趣味の読書を全て電子書籍にするつもりは、今のところ無い。
何度も言ったけど、僕は紙の本が好きだ。紙の手触りも、インクのにおいも、ページをめくる時の音も。本を読む事で感じられる物が、どれも好きなんだ。
それに、電子書籍には一つ、とても大きな心配すべき点がある。
「うわぁぁぁぁっ!」
突然友人が叫んだので、僕はハッと我に返った。
見れば、よそ見をして歩いてきたらしい学生が接触したらしく、彼は手にしていたタブレットを地面に落としていた。余程打ち所が悪かったのか。哀れ、タブレットの液晶画面はひび割れのバキバキになっている。
「やべぇ、動かねぇ!」
「あ、下手に触らない方が良いよ。割れた液晶で怪我するかも……」
「俺のアドレス帳と課金したアプリのデータと電子書籍のデータが……」
彼は呆然とした表情で、ひびだらけになってしまった液晶画面を見詰めている。
これだ。これがあるから、電子書籍一本化は怖いんだ。
タブレットが壊れたが最後、全てのデータが失われてしまう。
こういう場面を目撃する度に、思う事がある。それは、記録媒体の電子化はいずれ、世界の滅亡を招くのではないか、という事。
大袈裟と思うかもしれないが、例えば日本史。弥生時代から何があって大和政権が誕生したのか、その詳細は未だに闇に包まれている。これは記録が残っていないからだ。当時の日本に、文字を書き記す文化が根付いていなかったからだ。
邪馬台国が存在していたと言われる時代には、中国大陸の魏が魏志倭人伝に当時の日本の様子を書き記してくれている。その中国がごたごたして、国外に目を向ける余裕が無くなってしまっている間に、大和政権は誕生していた。世界的に見れば、「いつの間に」という感じだろう。
だから、この時代の事はほとんどわからない。この時代の日本の人々がどんな暮らしをして、何を見て何を感じていたのか。知られる事も語り継がれる事も無いまま、この時代の文化や人々の暮らしの記録――彼らの世界は、歴史の教科書から滅亡してしまった。
日本だけじゃない。例を挙げるなら、謎の大陸として有名なアトランティス。巨大な領土と強大な軍事力を持ち繁栄していたと言われる伝説上の王国。
滅びてしまったのは仕方ないにしても、それほどの国の詳細が何故わからないままなのか。
これは僕の仮説になるのだけれど、アトランティスには現代のような、情報を電子化もしくはそれに相当する形に変換する技術があったんじゃないだろうか。
誰でも簡単に閲覧できるわけではなく、専用の端末か何かを利用しなければ情報に触れる事ができないようにする技術が。
そして、情報の媒体をそれに一本化した。だから……何かが切っ掛けで王国が滅んでしまった――端末が失われてしまった時に、彼らの歴史や文化は全て滅んでしまったのではないだろうか。
……考え過ぎかな?
僕は苦笑して、首を横に振る。そして、友人のタブレットをどうにかしてやれないものかと、自分のタブレットを取り出した。こういう時にどうすれば良いかぐらいは、調べてあげた方が良いだろう。
インターネットを立ち上げて、最初に表示されるのはニュースサイトのトップページだ。いつもならろくに見もせず検索を始めるのだけど、今日は少し勝手が違った。表示されたニュースタイトルが、僕の目を奪う。
それは、大手出版社が発行している雑誌が休刊になった、というニュースだった。売上が落ち込んでいるため紙での発行を取りやめ、代わりに電子書籍サイトのコンテンツを充実させるのだとか。
紙の本が、電子以外の記録が、次々と消えていく。
ああ、僕らの文化が、歴史が、生活の記録が――僕らの世界が、未来の歴史教科書から滅亡していく音がする。
思わず端末から顔を上げ、空を仰いで僕はため息を吐いた。
(了)