駆出し陰陽師と夏に降る紅葉
17
「……とまぁ、そんなわけで。先ほど帰って参りました。姉上に対して無沙汰をしてしまった事、まことに申し訳ございませんでした」
そう言って、頭を下げる。そんな季風に、姉は優しく微笑み、そして申し訳無さそうに眦を下げた。
「そんなに忙しかったのですね。まさか、あの文をお送りした日から今日まで、ずっと同じ怪異に携わっていただなんて。……ごめんなさい。さぞ眠かった事でしょう? お呼び立てしてしまって、こんなに長く語らせてしまう事はなかったわね」
「いえ、そんな事は……」
眠いのはたしかだが、こうして話す事で季風自身も怪異を振り返る事ができ、延いてはより正確な報告書の作成につなげる事ができる。
それより何より、この姉は季風の話を目を輝かせながら聴いてくれるのだ。だから、この姉に仕事の話を語るという行為は、季風にとっても楽しい時となる。
だから、気にしなくても良い。そう伝えてから、季風はちらりと御簾の外を見た。何やら、そわそわと落ち着かない。
「あの……姉上?」
「何ですか?」
気遣わしげに季風の様子を伺っている姉に、季風は御簾の外を差して見せた。
「先ほど、姉上が描かれていたというあの絵……じっくりと拝見してもよろしいでしょうか? その……今回の怪異が怪異でしたので、久々に絵や物語を楽しみたい気分になっていまして……」
そう言うと、姉はぱっと顔を綻ばせた。
「勿論、構いませんよ。何なら、今ここで新しい絵を描いて差上げましょう。どの物語の、どの場面が良いですか?」
言いながら、姉は既に紙と筆を用意している。本当にこの姉は、行動が速い。
「そうですね……」
腕を組んで唸りながら、季風はここ十数日で一気に読む事になった、大量の物語を思い浮かべる。ちなみに、姉から貸し出されていた物語の写本は、隆善の手配によって全て姉に返却済みだ。
どれが良いだろうか。源氏物語、竹取の翁、伊勢物語に宇津保物語、落窪物語……。
考えに考えた末、季風は源氏物語の第二十八帖が良い、と答えた。
「第二十八帖……野分の話ですね。……そうね、此度はもみじにまつわる怪異で、六条御息所に助けて頂いたのですからね」
お見通しですか。そう苦笑して、季風は頷いた。
そう……今回の怪異は、もみじにまつわるものだった。そして、季風が怪異の正体に気付く事ができた切っ掛けは、源氏物語に登場する六条御息所の生霊の話を読んだからであった。
第二十八帖は、初秋の話だ。野分……大風が吹く話だが、その季節であれば色付き始めたもみじを見る事もできよう。
そして、この話には斎宮女御と呼ばれる女性が登場する。彼女は、六条御息所の娘だ。
季風に怪異を解き明かすための材料を与えてくれた六条御息所にまつわる姫君が登場して、今回の怪異の中心となっていたもみじを見る事ができる場面を。
そう考えた時、季風の頭に浮かんだのが源氏物語の第二十八帖だったのだ。
多少、こじつけにはなるかもしれない。だが、この何でもできる姉の手にかかれば、きっと些細な事など全く気にならないほど、素晴らしい絵が描き上がる事だろう。
そんな期待を込めて、季風は姉の事を見る。姉は、苦笑しながら丁寧に墨を磨り始めた。
墨を磨るさりさりという音が、耳に心地良い。それが、季風の耳にはまるで物語の読み聞かせのように聞こえて。
いつしか季風に瞼はゆっくりと降りていき、その意識はとろとろと、紅葉に彩られた物語の世界へ誘われていく。
それに気付いた姉――らんの君は筆を置くと、女房に命じて、脇息と薄い着物を出させた。
季風を脇息にもたれさせ、この暑い時期に間違って風邪なぞひたりしないよう、肩から着物をかけてやり。
そうして、落ち着いた格好で眠っている弟の様子にくすりと笑ってから、彼女は再び、筆を執る。
白い紙にはみるみるうちに秋の花々と美しい男女が描かれていき、次いで華やかな色がのせられていく。
この絵が完成したら、弟を起こそうか。それとも、弟が心行くまで寝て、起きたところで見せてやろうか。
そんな事を考えると、何やらわくわくしてくるようで。
弟は己で気付いていないようだが、彼は昔から、こうして絵を描いてやったり、楽器を奏でてやったりすると、きらきらと顔を輝かせながららんの君が描いた絵に見入ったり、奏でる音に耳を澄ませていたりするのだ。
いくら有能であろうとも、自身は自由に外出のできぬ女の身。いつも弟が持ち帰る外の話に耳を楽しませてもらっている有様だ。そんな彼女でも、絵や音楽で弟を喜ばせてやる事ができる。
そう考えると、嬉しくて、嬉しくて。
顔を綻ばせながら、彼女はもみじの絵に紅い顔料を含ませた筆を下ろすのであった。
(了)