駆出し陰陽師と夏に降る紅葉
15
夜が、やってきた。季風と、邸の主人。それに何人かの家人達が、件のもみじの許へと集う。
「それで、季風殿……このもみじが秋でもないのに色付いたのには、一体どういう事なんじゃ?」
答えを急かす主人に、季風は苦笑した。これは、まずは簡単に結論を伝えた方が良さそうだ。
「結論を簡単に申し上げますと、このもみじはあなた様に、物語を聞かせたがっているのですよ」
「物語を?」
「えぇ」
首を傾げる主人に、季風は頷いた。
「一つずつ、説明をしていきますね。まず、この木から降り落ちている色付いた葉。これらのどれにも、大量の虫食いが見られます。そしてその虫食いは、よく見ると文字のようになっているんです」
言われて、主人達は各々、地に落ちている葉を拾い上げて確かめた。それぞれに一文字ずつ虫食いで記されている様を見て、誰ともなく「おぉ……」と呟いた。
「この葉は、決して同時に降る事無く。一枚ずつ枝から離れ、一定の間を置いて降っていました。これはつまり、枝から離れた順番にこの文字を並べる事で、意味のある文章が現れるという事です」
そして、十二日前に季風が回収した葉には源氏物語の四十二帖が一文字ずつ記されていた事。遡って全ての葉を照合した結果、源氏物語は一から四十二帖まで。最初の日は竹取の翁の物語が。他にも、短い物語がいくつか。全ての葉が、物語を語っている事が判明した。
照合したわけではないが、保管してあった葉を譲り受けた後に降った葉には、源氏物語の四十三帖以降が記されているのだろう。
「なるほど……この葉が、物語を語っている事はわかった。だが、何故わしに? 何故、物語を語ろうと?」
問われ、季風は少しだけ間を置いた。ここには、季風と主人以外に、邸の家人達もいる。語っても、良いものだろうか。
……いや、今語らなければ、いつ語るのだろう。それに、怪異の正体を語って聞かせなければ、家人達とてずっと不安なままだ。主人には悪いが、ここで語る必要がある、と季風は判断した。
「……気付いた切っ掛けは、品々を塗籠にしまう手伝いをさせて頂いた事でした」
「塗籠に? あぁ、妻の品を運ぶのを手伝ってもらった……」
主人の呟きに、季風は頷く。
「お方様の着物には、護摩の匂いが染みついていました。しかし、話を伺ってみると、護摩を焚くような場所にこの着物を持ち出した事は無いという」
そこで、季風は懐から一冊の書物を取り出した。姉が送ってきた物語の写し。そのうちの一冊だ。その書物をぱらぱらとめくり、該当する部分を指示した。
「源氏物語、もみじ葉の文字と照合するうちに、全て読んでしまったんですよ。そのうちの、第九帖。六条御息所と呼ばれる女性が登場するのですが……こんな話があるのです。……『怪しう、我にもあらぬ御心地をおぼし続くるに、御衣などもただ芥子の香に染み返りたり』……」
六条御息所は、生霊となって光源氏の正妻である葵の上にとり憑いた。源氏がそれを祓うために執り行わせた加持祈祷で、生霊に魔除けの芥子の香りが付く。六条御息所の魂が肉体に戻り、その衣に芥子の香りが染みついていた事から、六条御息所は己が生霊となり、葵の上にとり憑いていた事を自覚する事となる。
「護摩を焚くような場所に持ち出していない着物に染みついた、護摩の香り。そして最近この邸で、このもみじの木の紅葉に対処できないかと、見よう見まねで護摩を焚いた事があったらしい。それで、思ったんです。この着物ともみじの木は、見えないところで繋がっているのではないか、と」
「繋がっていた? 着物と、もみじが? 何故……」
訝しむ主人を眺めながら、季風は「そろそろか」と呟いた。話の流れを考えるだに、頃間。それに、夜となり、陰の気が高まっている今であれば、季風が手助けすれば主人達も彼女の姿を見る事ができる。
「それは……こちらの方をご覧になって頂けば、納得できるかと」
そう言って、もみじの木に向かって何事か呪を唱える。すると、もみじの前に、不思議な靄が現れた。
靄は薄らと光り輝き、次第に人の形を成していく。そして最後には、一人の老女へと姿を変えた。
「おぉ……!」
途端、主人が信じられないという顔付きで、呻き声を発する。
「お前……」
『殿……お久しゅうございます……』
そう言って、老女は頭を下げる。色の抜け落ちた髪が、はらりと肩から落ちた。
「お前、何故ここに……? たしかに前の年、わしが看取って……」
『えぇ……私が命を落とすその時まで、ずっとお側にいてくださいました。……本当に、嬉しかった……』
老女は、主人の亡くなった妻であった。
「ここからは私の想像になりますが……お方様が亡くなられた後、あなた様は相当気落ちなされたのではありませんか? それを心配なさったお方様はあなた様の側から離れる事ができず、あなた様が気に入っていたもみじの木にとり憑いてしまったのです。だから、お方様の着物に、もみじの木の下で焚いた護摩の香りが染みついていた……」
「じゃ、じゃが……それが何故紅葉を……? 何故、物語を……?」
「それは、お方様から直接伺った方が良いのではないでしょうか?」
そう言って、季風は視線で、主人の妻に話を促す。妻はしばらくの間恥ずかしそうに口元を袖で隠していたが、やがて、悲しそうな目をして言った。
『あの日……新年の挨拶に疲れて、釣殿へやってきた殿が、とても寂しそうに見えたのです。それで、いてもたってもいられなくなって……何かお慰みを……と考えた末、思い付いたのが物語を語る事でした……』
そこで、妻は辛そうに俯いてしまう。そこで、季風は言葉を引き取った。
「お方様は、物語がお好きで、よく絵巻物を眺めていらっしゃったとの事。誰かを喜ばせたいけど、何をすれば喜んで貰えるのかわからない時、人は、己がして貰ったら嬉しい事、自分が楽しくて、人にもそれを伝えたいと思う事をしますよね? だからこそ、お方様はご自分の好きな物語を語る事で、あなた様をお慰めしようと考えられたのでしょう」
だから、この邸の主人が眠りにつくと葉は降るのを止め、主人が目を覚ますと再び降り始めていたのだ。あれは、妻が伽として、夫に寝物語を語るのと同じようなものだったのだろう。
だから、誰が見ても嫌な気がしなかった。季風は、見ているうちに眠気まで覚えている。寝物語として物語っていたのだから、眠くなって当然であった、というわけだ。
「……わからんわい。お前、生きている頃は寝物語などしてくれた事が無いじゃろうが」
季風の話に、主人が拗ねたような顔をする。すると、妻は「まぁ」と言い。そして、少しだけむくれたような顔をした。
『だって、物語のどこが良いのか、わしにはわからん、の一点張りだったではありませんか。私は、本当は殿と同じ物語を読んで、殿と物語についてお話しをしたかったのですよ?』
少し責めるような妻の口調に、主人はしょんぼりと項垂れた。そんな主人の顔を覗き込み、妻は優しい声で言う。
『本当は、いつまでもこうして殿の事を見守っていとうございます。ですが、流石にそうは参りますまい……。ですから、殿。物語を、読んでくださいまし。殿のご趣味には、合わないかもしれません。ですが……その物語の向こうには、私がおります。物語を楽しんだ、私がおりますから……』
その言葉に、主人ははっと顔を上げた。それににこりと微笑んでみせると、妻は、季風の許へと歩を進める。
『長くお騒がせしてしまい、申し訳ございませんでした。どうぞ、私の事をお祓いくださいまし……』
そう言って頭を下げる妻に、季風は「えぇっと……」と困ったように頬を掻いた。
「あの……これ、私からの提案なのですが……。今夜の分の物語を語られてから去られてはいかがでしょう?」
『えっ?』
驚く妻に、季風は指を折って見せる。
「私が源氏物語の四十二帖の葉を拾ってから、今日で十二日目……という事は、源氏物語は、今日で最後のはず……ですよね?」
源氏物語は、全部で五十四帖からなる物語だ。計算を間違えていなければ、今日は丁度、その最後の五十四帖目のはずである。
実際、今の時点で地に積もっている葉を何枚か拾い上げて見てみれば、〝夢〟と読める虫食い文字の葉が何枚もある。読んだばかりだから覚えている事だが、源氏物語の五十四帖には、夢という文字が何度も出てくるのだ。
折角ここまで語ったのだから、最後まで語っていくと良い。そう言って、季風は妻を、もみじの下へと誘った。次いで、邸の主人ももみじの下へと誘う。
「最後の機会です。どうか、お方様が語る物語を、最後まで聴いてあげてください」
そう言って、自身はその場から去ってしまう。家人達も、季風に続いて、次々にその場から離れていく。終いには、この邸の主人と、その妻の霊だけが残された。
主人は、少し照れ臭そうにしながら、妻に物語をせがむ。妻は嬉しそうに頷くと、この三月を締めくくる、最後の物語を語り出した。
今度は、もみじ葉の一枚一枚で語るのではなく、妻の口で、妻の声で。その声を一言も聞き漏らすまいとするように、主人は真剣に聞き入っている。
語っているのは妻の声だが、やがて、この三月と同じように、もみじの葉が降り落ち始めた。
物語の世界を彩ろうとするかのように、季節外れの紅葉が二人の周りに舞い落ちる。
葉はいつまでも降り続け……やがて、妻の語る物語が終焉を迎えた時。妻と共に、姿を消した。