イマドキじいちゃんカレー











 夜遅くまで仕事して、なんとか終電に飛び乗ったは良いけれど、家の最寄り駅に着いた頃には日付はとうに変わっていて。

 夕飯を作る気力なんてあるわけがなく、そもそもスーパーマーケットが開いていない。コンビニエンスストアで弁当を買って帰れば良いのかもしれないけど、今日はもうそれすら面倒臭くて素通り。

 だけど、腹は容赦なく鳴る。ぐるぐると獣のうなり声みたいに鳴る。

 夕飯をどうしようか。家にカップ麺の買い置きはあっただろうか。……駄目だ、空腹過ぎてそれすら思い出せない。

 それでもなんとか家に辿り着いて、俺は首を傾げた。

 深夜の零時を過ぎているというのに、カレーのいい匂いがする。それに、アパートの俺の部屋には誰もいない筈なのに、窓から灯りが漏れている。

 どういう事だ? 泥棒……が、こんなに堂々と灯りをつけるわけないか。けど、俺は今一人暮らしだし、合鍵を持つような交際相手も親友もいない。こんな時間に大家さんが来るとも思えない。

 警戒しながら、そろそろとドアノブを回す。……あれ、回らない。

 出掛ける時に鍵をかけたんだから、回らないのが当たり前だろうと自分に言い聞かせながら、鍵を探す。出掛ける時に、照明を消し忘れたんだろうか。それなら、わかる。けど、このカレーの匂いは?

 鍵を開けて、今度こそ扉を開ける。すると、カレーのいい匂いが、より強く俺の鼻孔をくすぐった。……あ、この匂い、やっぱり俺の家から匂ってたんだ。

「おう、帰ったか雅紀。久美子さんから聞いていた通り、随分帰りが遅いんだな」

「じいちゃん!?」

 驚いて思わず叫び、俺は慌てて両手で口を覆った。今は深夜の零時……どころか、そろそろ一時だ。大声を出して良いような時間じゃない。

 俺は静かに扉を閉めて、鍵をかけた。

「そっか、じいちゃんが泊まりに来るって言ってたの、今日だったっけ。駅まで迎えに行けなくてごめん。……いや、その前に、じいちゃんが来る事、忘れててごめん!」

 謝れば、じいちゃんは「気にするな」と言って笑ってくれた。

「それだけ、仕事が忙しかったんだろう。大学を出て、初めての社会人だ。慣れない事や、戸惑う事も多くて、他に気が回らなくなる事もあろうさ」

 そう言うと、じいちゃんは「そんな事よりも」と言って、ちらりとキッチンの方を見た。一人暮らしを始める時は自炊をする気満々だったから、コンロや作業場がしっかりしている物件を選んだはずなのに、最近ではカップ麺を作るかコーヒーを淹れるためのお湯を沸かす事にしか使っていない。

「夕飯はどうした? 食べてきたか?」

「ううん、まだ。コンビニ弁当も買ってないし、どうしようかなって思ってたとこ」

 俺がそう言うと、じいちゃんは「なら、良かった」と言って笑った。


「カレーを作ったから、食べると良い。勝手に台所を使わせてもらったぞ」

「えっ、じいちゃんが作ったの? カレーを? 母さんが持たせたとかでなく?」

 俺が目を丸くすると、じいちゃんは誇らしげに「おう」と言った。

「盛り付けておいてやるから、着替えてきな。手洗いとうがいもちゃんとするんだぞ」

「子ども扱いしないでよ。俺、もうすぐ二十三だよ?」

「俺から見たら、二十だろうが三十だろうが、可愛い孫には違いないんだよ。ほら、腹減ってるだろ。早く着替えてこい」

 そう言って、じいちゃんは棚から勝手に皿を出し始める。すっかりキッチンの中を把握されている事に、怒れば良いのか、苦笑すれば良いのか。まぁ、自分の部屋を勝手にいじくり回されるんじゃなきゃ、良いか。じいちゃんだし。

 そんな事を考えながら、俺は着替えをするために寝室に向かった。





  ◆





「うまっ! じいちゃん、このカレー美味いよ!」

 久々の温かい夕飯に、俺は思わずがっつきながら、じいちゃんに向かって破顔した。じいちゃんはじいちゃんで、「そうかそうか。いっぱいあるから好きなだけ食え」なんて言っている。

「帰りが遅いと聞いてたからな。カレーなら、温め直しても美味いだろう? 寧ろ、できたてよりも時間が経った方が美味いな。うん」

 カレーにして正解だった、とじいちゃんは満足げに頷いている。そんなじいちゃんに頬を緩ませながらも、俺は「けどさ」と首を傾げる。

「じいちゃんって、料理できたっけ? 実家にいた頃、じいちゃんが料理してるとこなんて一回も見た覚えが無いんだけど」

 そう言うと、じいちゃんは「まぁな」と言いながら頭を掻いている。

「ばあちゃんが死んだ時にな、気付いたんだ。ばあちゃんが俺の好みに合わせて味を整えてくれてた芋の煮っ転がしも、ぶり大根も、唐揚げもきんぴらごぼうも、もう二度と食えないんだって。昔は俺が稼いで食わせてやってるんだって偉そうに思ってたもんだが、稼いだだけじゃアレは食えなかったんだよな。俺も、ばあちゃんに食わせてもらってたんだなって。休みで俺がゴロゴロしてても、ばあちゃんは俺に美味い飯を食わせてくれてたんだなってな」

 じいちゃんは、ちょっとだけ洟をすすった。

「それで、こうも思った。ばあちゃんはいつも俺の好きな物をこしらえてくれてたが、俺はばあちゃんに好きな物を食わせてやれてただろうか。俺がばあちゃんの好きな物を作ったら、ばあちゃんは喜んでくれただろうか、って」

「それで、料理を始めてみたの?」

 俺がスプーンを口に運びながら問うと、じいちゃんは「おう」と言いながら頷いた。

「久美子さんに、基礎を教えてもらってな。……まぁ、久美子さんも仕事が忙しいから、本当に最初のうちだけだが。あとは、孝史のパソコンとかタブレットを使わせて貰って、簡単なレシピを検索して挑戦してみた」

「……じいちゃん、イマドキだね?」

 そう言うと、じいちゃんは誇らしげな顔をしてまた「おう」と言う。

「今年の誕生日には、孝史にスマホを買ってもらってな。色んなレシピを好きな時に見ることができるのが楽しくて、今じゃ二日に一回は俺が夕飯を作っているんだぞ」

「すごいイマドキだね!?」

「因みに、今回こっちに来たのはオンラインの囲碁友とオフ会をするためだな」

「ちょっと待って、俺の脳の処理が追いつかない」

 混乱しながらスプーンをもてあそぶ俺を、じいちゃんは楽しそうに見ている。けど、不意に真面目な顔になると、俺に向かって言った。

「……なぁ、雅紀」

「……なに?」

 俺が問うと、じいちゃんは俺の顔を覗き込むようにしながら、問うてくる。

「……仕事は、大変か?」

「……」

 すぐに返事をする事が、できなかった。

 仕事は、正直に言うと大変だ。毎日ついていくので精一杯で、毎日夜遅くまで働いて、それでも自分の成長が感じられなくて。毎日ただひたすら、疲れと劣等感をため込んでいるだけのように思えてしまって。

 夜遅いから、まともな夕飯をもう何ヶ月も食べていなかった。朝食も適当。弁当など作る時間があるはずもなく、昼は毎日コンビニ弁当かジャンクフード。

 休日は疲れて寝てばかり。少しでも余力があれば、掃除と洗濯。遊びに行く余裕なんてありはしない。……最後に友人と会ったのは、一体何ヶ月前だろう……?

 けど、それを愚痴ったところで何かが改善するはずもなく、周りからは「俺もだよ」「社会人なんてそんなもんだよ」と言われて終わり。挙げ句、上司からは「いい加減、社会人だという自覚と責任感を持て」と怒られた。

 時々、先輩が「お前はよくやってるよ」と言ってくれるが、その言葉だけで自分を鼓舞できる時期は、とうに過ぎている。

 しんどい。

 仕事を辞めたい。

 けど、やり遂げたい気持ちもある。

 一人前になる前に脱落したくない。

 親や友人に心配をかけたくない。

 そんな考えが頭をぐるぐると過り、何も考えられなくなり。そして、ぽろりと涙がこぼれた。

「……っ! ごめっ……」

 思わずじいちゃんの前で泣いてしまった事を、俺は咄嗟に謝ろうとした。するとじいちゃんは、「謝らんでいい」と言いながら俺の横に来ると、俺の背中をぽんぽんと軽く叩き始めた。……あぁ、懐かしいな。子どもの頃、俺が悲しい事があって泣いていると、じいちゃんは今みたいに、軽く背中を叩いてくれたっけ。

 ぽん、ぽん、と俺の背中を叩きながら、じいちゃんは「何も言ってやれん」と言った。

「今の雅紀に、俺は何も言ってやれん。雅紀が働いてる姿を知らない俺が、お前は頑張ってると言っても、響かんだろう。そんな大変な仕事辞めてしまえと言ったら、今の職場で頑張りたい雅紀の気持ちに水を差しちまう。かと言って、雅紀が無理をして身体を壊すのも嫌だからな。もうちょっと頑張ってみろ、とも言えん。……何も言えん」

 今俺にできるのは、こうして背中を叩いてやる事だけだ、とじいちゃんは言った。「けどな……じいちゃんも何だかんだ、辞めたくなったり耐えたり辞めたりを繰り返してこの歳まで生きてきたからな。雅紀がどうしたいかがはっきり決まったら、相談には乗れるかもしれん。世代が違うから的外れな相槌になっちまうかもしれんが、それでも良ければ愚痴も聞ける。……無理には聞かんから、誰かに聞いて欲しくなったら、遠慮なく言ってくれ。……な?」

「……うん」

 ずび、と洟をすすりながら、俺は頷いた。そんな俺に、じいちゃんは「ほら」と言う。

「仕事を頑張るにも、自分がどうしたいか考えるにも、まずはエネルギーが必要だろ。冷めないうちに食べて、しっかり寝て、ちょっとでも元気になってくれよ?」

「……ん」

 頷いて、俺は再びカレーを食べ始めた。押し込めていた気持ちを、ちょっとだけでもじいちゃんに見せる事ができたからか……それで少しだけスッキリしたのか、さっきよりも更に美味く感じる。

 再びがっつき始めた俺を、じいちゃんはニコニコしながら見詰めている。……が、何故だろう。心なしか、そわそわしているようにも見える。

「……なぁ、雅紀?」

「んあ?」

 スプーンをくわえたまま返事をしたものだから、変な声が出てしまった。そんな俺に笑いながら、じいちゃんは問うてくる。

「その、な? カレー、美味いか?」

「うん、すごい美味い! ……どしたの?」

 じいちゃんの顔がパッと輝いたように見えて、その後照れくさそうな笑顔になった。今までに見た事が無い表情で、俺は思わず問いながら首を傾げてしまう。

 すると、じいちゃんは頭の後ろを掻きながら、やはり照れくさそうにして言った。

「いやな……さっき、今回こっちに来たのはオンラインの囲碁友とオフ会をするためだって言っただろう?」

「? うん」

 俺が頷くと、じいちゃんは益々照れくさそうな顔になる。

「実はな、一緒にオフ会をする相手は女性なんだ。俺の二つ上で、話しやすい人でな。それで、雑談をしている時に料理の話になってな……盛り上がって、今回は相手のお宅にお呼ばれして、料理をする事になってなぁ」

「えぇっと、それってつまり……?」

 オンラインでやり取りしていた相手に恋をして、今回のオフ会次第では近い将来、俺に新しいおばあちゃんができるという事ですか?

 視線で俺がそう問うと、じいちゃんは恥ずかしそうに頷いた。

「マジか……」

 呆然と呟きながら、俺は更にカレーを頬張る。……うん、美味い。

 うちのじいちゃんは、昭和一桁生まれだが料理を同居の家族に丸投げせずに自分でも作り、スマホを使いこなし、更にはオンラインで恋をしてオフ会をしてしまうほどイマドキな人間だったらしい。

 そんなイマドキなじいちゃんが作ったカレーは、ピリッと辛くて、野菜が大きくゴロッとしていて。それで……俺のことを想ってくれているのがわかる、とても優しい、味がした。












(了)





















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