平安の夢の迷い姫
35
「……来たみたいだね」
「え?」
惟幸の言葉に、加夜は辺りを見渡した。
すると、今までその場を作り上げていた白いふわふわとした靄のような物が、霧が晴れるようにすうっと消えていく。
靄自体が光を持っていたのか、辺りが少し暗くなる。足元に、板張りの床が姿を現した。柱が、調度品が、天井が、加夜の視界に飛び込んでくる。
そして最後に、簀子縁が現れ、その外が見えるようになる。
いつもの、邸の庭だ。ただし、築地が現の邸よりもうんと高く、門が酷く立派で大きな物になっている。
庭に、何かが降り立った。人の姿をしている。それは階に足をかけると、とんとん、と足音を立てながら加夜達の元へと歩いてきた。浅蘇芳の狩衣が、風も無いのにはためく。
「隆善様……」
それだけ言って、加夜はその後の言葉を失った。次の言葉を探すまでの時を稼ぐように、惟幸がにこやかに声をかける。
「遅かったじゃない」
「お前が早過ぎんだよ。っつーか、お前今まで、どうやってここに来てたんだ?」
「勘で?」
その返答に、隆善は唖然とする。勘であの道を歩けるとは……能力の高い術者だからこそだろうか。
「さて、と。たかよしも無事にここまで来れたし、僕はもう良いよね?」
そう言うと、惟幸は「よっこらしょ」と言いながら立ち上がる。「よっこらしょ」の言い方が非常にわざとらしい。
「お、おい。惟幸……」
「惟幸様……?」
困惑気な顔で、隆善と加夜、二人が呼び止めるように惟幸を呼んだ。二人きりにされたら、どんな顔で相手と接すれば良いのか……そう言いたげだ。
そんな二人を、惟幸は真面目な顔をして見詰めた。
「……二人とも、言いたい事、言えなかった事、素直に全部言っちゃいなよ」
そう言われて、二人は増々困った顔になる。「面倒臭いな」とでも言いたげに、惟幸はため息を吐いた。まずは、加夜の方に視線を向ける。
「加夜姫様? ちょっと思い出してくれるかな。さっきまでこの辺りに満ちていた、白い靄。あれ、僕が来ても晴れる事なんてなかったよね? けど、たかよしが来た瞬間にあっという間に晴れた。……これ、どういう事だと思う?」
「……そう、いえば……」
考えるが、答は出てこない。首を横に振ると、惟幸は「あのね……」と口を開いた。
「たかよしが来るまでここは、不思議な白い靄に包まれた、どう見ても夢の中とわかるような場所だった。それが、たかよしが来た途端に現の世と変わらない光景になった。それってつまり、たかよしが迎えに来れば、目覚めて、現の世に戻っても良い。ひいては、現の世でもっとたかよしと一緒にいたい。……そういう事だよね?」
「それは、その……」
顔を赤らめ、しばらく逡巡してから、加夜は「えぇ」と頷いた。
満足したように頷くと、惟幸は隆善の元に歩み寄った。そして、懐にとん、と拳を当てる。
「現に戻ったら、懐のこれ、早く渡しなよ。ぐずぐずしてないでさ」
ぎょっと目を見開いて、隆善は懐に目を遣り、そして惟幸に視線を戻した。
「お前……何でそれを知って……!?」
「苦手な占いも、たまにはやってみるもんだね」
そう言って笑うと、惟幸は隆善から離れ、そのまま階を降りていく。降り切ったところで、一度二人を振り向いた。
「じゃあ、僕はこれで。二人とも、なるべく早く帰ってくるんだよ」
そう言うと、惟幸はすたすたと門の方へと歩いていってしまう。早々に目覚めたのだろうか。その姿は、門をくぐる前に陽炎のように消えてしまった。
惟幸が消えた後をしばし呆然と眺めてから、どちらからともなく顔を見合わせる。
「加夜」
「隆善様」
同時に発した声がぶつかり合い、二人は気まずそうに口を噤んだ。重苦しい沈黙が、辺りに立ち籠る。隆善はとりあえずその場に腰を下ろし、加夜は座り直す。
やがて、先に沈黙に耐えられなくなったらしい隆善が、加夜の様子を伺いながら口を開いた。
「……加夜」
「……はい」
また、しばらくの間沈黙した。隆善はもぞもぞと、口を動かし辛そうにする。
「……すまなかった」
深く、頭を下げた。
「りゅ……」
やめさせようとする加夜を、無言のまま手で制す。加夜が口を再び噤んだところで、頭を下げたまま言葉を絞り出す。
「お前の事を、信じていなかった。お前の強さを信じないで、ただただ、おかしな物に触れさせまいとひた隠しにして……隠し過ぎて、お前を不安にさせちまった。……本当に、すまない……」
「そんな……私は……」
言い掛けて、言葉を止めた。惟幸の「素直に言え」という言葉が頭を過ぎる。
「……隆善様」
姿勢を正し、真っ直ぐに隆善を見詰める。隆善が顔を上げ、目と目が合う。今から言おうとする言葉に、加夜は心の臓が高鳴るのを感じた。
「隆善様、私は……もっと隆善様の事を、知りたいと思っています」
口調が自然と、固くなる。
「全てを包み隠さず……とは申しません。けど、隠さなくても良い事は、教えて頂きたいのです。お好きな食べ物、お邸でどのように暮らしていらっしゃるのか、お弟子様との他愛のない会話……」
一度、言葉を切った。加夜の発した言葉が、隆善の内に沁み込むのをしばし待つ。
「私が知りたいのは、普段の飾り気の無い隆善様。非凡でなくとも、格好悪くとも構わないのです。……だから、その……」
大きく、息を吸った。今ここで言わなければ、きっと今後も言う事はできない。
「聞かせてください。隆善様の事……隆善様が、私をどう思っているのかも……!」
「俺は……」
加夜の目を見詰めたまま、隆善は呟いた。そして、しばし考え、そして困った顔をする。
やがて彼は立ち上がると、静かに加夜に歩み寄った。そして両の腕を広げ、力強く、加夜を抱きしめる。
「りゅ……隆善様……?」
「……悪い、加夜」
ぼそりと、恥ずかしそうに呟いた。
「愛しいとか、大切だとか、代わりは無いとか……お前への想いを表す言葉は、いくらでもある。けどな……今この場で言うべき、最もよく俺の想いを伝えてくれる言葉が思い付かねぇ。……これじゃあ、駄目か?」
「……」
加夜は、隆善の腕に収まったまま、首を振った。そして、少しだけ上を向いて問う。
「……隆善様自身のお話しは……?」
「おい……俺が今までお前に、どれだけ過保護になってあれやこれやと隠してきたと思ってるんだ?」
済まなそうな顔で、苦笑した。
「一晩やそこらじゃ、語り切れねぇよ。惟幸に、早く帰って来いと言われただろうが」
言われて、加夜は残念そうに俯いた。その頭を、隆善が軽くぽんぽんと叩く。
「焦らなくても、これから少しずつ、話す。俺の事も、惟幸――俺の友人の事も、葵達、弟子の事も。一晩二晩と言わず、何日かけてでもな」
「隆善様……!」
目を見開く加夜に、隆善は微笑んだ。
「まずは、帰るぞ。不破や、家人達を心配させたままにするのは、お前も本意じゃねぇだろう?」
加夜が頷く。すると、辺りが今までにも増して暗くなり始めた。調度品が見えなくなり、庭も、柱も簀子縁も、次第に暗がりの中へと沈んでいく。
夢が覚めるのだ。
暗闇の中離れぬよう、加夜は隆善を抱きしめ返した。それを受けて、隆善は更に強く加夜を抱きしめる。
やがて二人の姿も暗がりの中に消え、最後には何も見えなくなった。