平安の夢の迷い姫
30
邸の前に辿り着いた途端、隆善はやや気後れを覚えた。
目の前に佇む邸は、藤原氏の物と比べれば話にもならぬほどの規模だが、貴族の邸全体で見れば決して小さくはない。どう低く見積もっても中流貴族。下手をすれば上流貴族の領域に片足を踏み入れかけているほどの家柄であると見える。
「……本当に、この邸なのか……?」
「左様でございます。ささ、瓢谷様! 早く中へ……!」
こうなってしまっては、もう後に退く事は出来ない。覚悟を決めて、隆善は門内へと足を踏み入れた。そして、唖然とした。
敷地の中へ一歩入れば、そこは阿鼻叫喚の地獄絵図……と言う程ではないが、騒々しさを極め、混沌という言葉を具体的に表すならばこのような感じだろうという光景が広がっていた。
まず、今現在隆善が弓手で吊るし持っているような化け犬がわんさかいる。犬だけではなく、猫や馬、牛もいる。どれも二本の後足だけで立ち、単や狩衣、直衣や水干を纏って、所狭しと走り回っている。逃げ出したのが手元にいる一匹だけというのは、奇跡のような話であるようだ。
二足で走り回る動物だけではない。掌ほどの小さな女達が、きらきらと光る鱗粉のような物をまき散らしながら飛び回っている。木々が人のようにゆらゆらと動き、池の水面では魚が宙に浮いている。申し訳程度に、楽器の付喪神が何体か踊っていた。
「おい……どうなってるんだ、この邸は……」
それ以上の言葉が、出てこない。雑色は「さもありなん」と言うように頷いている。端女が、困ったように庭を眺め渡した。
「何だか、私達がお邸を出た時よりも更に色々と増えているみたいですねぇ……。姫様ったら……」
「……姫様?」
隆善は、怪訝な顔をした。端女の口ぶりだと、まるでこの混乱ぶりの原因がこの家の姫にあるかのようだ。
と、と、と……と軽い足音が聞こえてきた。首を巡らせれば、五つか六つの可愛らしい女童が恐る恐る近寄ってくる。良い着物を着ていて、幼いながらも顔には品がある。恐らく、この邸の姫なのだろう。……という事は、彼女がさきほど端女が口にした……?
「……姫様? 何やら、我らが化け犬を追って外へ出た時よりも状況が悪化しているようでございますが?」
少しだけ凄んで見せた雑色の声に、姫は恐々と首を縮こまらせた。おずおずと、小さくて可愛らしい口を動かしている。
「……ごめんなさい。あの子たちにお友だちがいれば、もう逃げたりしないで、お庭で遊んでいてくれると思ったの。そうしたら……」
「済んだ事です。それよりも、姫様? 陰陽寮の学生様をお連れしましたよ。学生となると、安倍晴明様や賀茂光栄様と比べたら不安に思うかもしれませんが、その実力は先ほど我らがこの目でしかと見ています。きっと、今のこの状態を何とかしてくださるかと」
「おい。本人の目の前で不安だ何だとか言うもんじゃねぇぞ。……と言うか、安倍氏や賀茂氏と比べたら、どの陰陽師が来たって不安だろうが」
不機嫌そうに言う隆善に、雑色ははっと顔色を変えて視線を逸らした。誤魔化すように、端女が割って入ってくる。
「今の話からある程度お察しかと存じますが……この化け犬や、庭に現れた奇妙な動物達……これらは全て、こちらの姫様がお出しになってしまった物でございます。どういったわけか、姫様には生まれた頃より、思い描いた物が現の物となってしまうお力が備わっていらっしゃいまして……」
「つまり、今庭で暴れているあれやこれやは、全部この姫君が思い描いた想像の産物って事か。……童の想像力だ。こんな事が起こるのは、たまの事じゃ無さそうだな」
「はぁ……」
雑色が、後頭部を掻きながら曖昧に頷いた。
「仰る通りで。ほぼ毎日のように何かが現になり、邸の中を闊歩しております。幸い、人を傷付けるような物が現になった事は一度もありませんので、ある程度溜まったら陰陽師にお願いして調伏して頂いているのですが……」
「ですが、陰陽寮に勤める陰陽師の方々は皆様お忙しい身……。約束を取り付けねば来て頂く事も難しく、どうしても対応が後手に回ってしまいます。今日のように一度にたくさんの動物や妖を現にしてしまった時など、すぐに来て頂ける方を探すために京中を駆け巡る事も常でして。逃げ出した化け犬を追い掛ける途中、邸のすぐ近くで瓢谷様にお会いできて、本当に幸いでございました」
困ったような顔をしてはいるが、端女に悲壮感は無い。恐ろしいほどこの異常な邸に慣れてしまっているようだ。
「……安倍氏や賀茂氏に、相談した事はあるのか? 陰陽師の名門たる両家に相談すれば、その厄介な力とやらを消し去る方法もわかるんじゃないかと思うんだが……」
「安倍氏や賀茂氏とて、万能ではございませんよ」
雑色が苦笑した。どうやら、既に相談済みのようである。
「たしかに、陰陽師の名門。今この時より、更に膨大な数の妖や動物達が庭に溢れていたのを、瞬く間に調伏して頂きました。ですが、姫様のお力に関しては、天より授かった物である故、例え安倍氏や賀茂氏の力をもってしても消し去る事は難しい、と」
「……なるほどな。天からの授かりもの、か」
納得した様子で頷く隆善に、端女がどこか複雑そうな表情でもぐもぐと口を動かした。
「それに……これは、私が直接聞いた話ではなく、家中での噂話なのでございますが……どうやら、こうも言われたようなのでございます。このお力が、姫様に縁を運んでくるやもしれぬ、と……」
どこか、その言葉に縋るような顔をしている。それもそうか。このような力を持っているとなれば、入内は確実に無理な話だ。帝でなくとも、積極的に関わろうとは思わないだろう。もっとも、このような面白動物達を思い描くような姫がそのまま長じたりすれば、こんな力など無くても縁談には苦労するかもしれないが。縁を運んできてくれるやも、と言われれば、姫の将来を案じている者達であれば縋りたくなるのも道理だろう。
「まぁ、とにかく……話はわかった。この庭にいる奴ら、全部消しちまっても、問題は無ぇんだな?」
隆善の言葉に、雑色と端女は一も二も無く頷いた。そんな彼らの横で、姫がじっと隆善の様子を伺っている。
「……何だ? 消したくねぇ奴がいるなら、今のうちに言っとけ。あとから、あいつは気に入っていた、とか泣いても、俺にはどうしようもねぇぞ?」
問われて、姫は一時、驚いたような顔をした。そして、しばらく考えると、ぶんぶんと首を振る。
「ううん、大丈夫」
「あの……瓢谷様? お願いをしている身で恐縮ではございますが、その……姫様への言葉遣いですとか……」
「ん? あぁ……」
雑色に言われて少しだけまずそうな顔をした隆善に、姫が慌てて声をかけた。
「良いの! ていねいにしなくて良いの! そのままでいてちょうだい!」
ぶんぶんと手を振りながら訴える姫を、やっと来客に気付いたらしい若い女房が、外に出てきてたしなめる。隆善はしばらく怪訝な顔をして姫を眺めていたが、すぐに気を取り直して庭へと目を遣った。
「よし……やるか」
呟いて、まずは手元に捕らえている化け犬を調伏した。幼い頃から惟幸がやっているのを間近で見て、陰陽寮でも学んで、鬼や妖を調伏するための呪文は多く頭に入っている。印も、戸惑う事無く切る事ができる。呪符で動きを封じられていた化け犬は、あっさりと消え去った。
そもそも、派手な仕事は正式に内裏に仕えている陰陽師や、経験豊富な先輩達の仕事であり、隆善のような学び始めたばかりの者には回ってこない。先輩達の前でついつい失敗してしまうのは、祝詞を読み上げる順番であったりとか、祭壇の築き方であったりとか、そういう地味とも言える仕事ばかりであると、隆善は考えている。……それはそれでどうかと、自分で頭を抱えるところではあるが。
「臨める兵、闘う者! 皆陣破れて前に在り!」
鬱積していた物をぶつけるように、庭を逃げ惑う化け動物達に九字という名の気力をぶつけ続ける。躱しきれなかった者は、じたばたともがく暇も無く消え去った。
しかし、やはり修業が足りていないのだろう。幼い頃に見た惟幸や、陰陽寮の先輩達のそれと比べると、威力が足りていない気がする。
それに、精度も低い。勢いが弱いせいか、方向がしっかりと定まっていないせいか、大半はさっと躱されてしまっている。
庭を走り、化け動物達にできる限り近寄ってから気を放ってはみるものの、それでも三回に一回程度しか当たらない。
邸の者達が自分を見る目が、冷ややかになっている気がして仕方が無い。先ほどの化け犬の時には呪符の力もあってかなりの活躍だったが、学生のやる事。常にあのような働きができるとは、誰も思ってはいないだろう。気休めにでもなれば良いという程度で、元々それほど期待しているわけでも無い。目もきっと、そこまで冷たくはないのだろう。
しかし、ここのところの伸び悩み、先輩達の前での失敗。そして、これはきっとできるだろうと思っていた調伏すらこの場で中々上手くいかず、焦りはどんどん募っていく。知らず知らずのうちに、舌打ちが出た。
結局、庭の化け動物達を全て調伏するために、隆善は半刻ほど走り回るはめとなった。最後の一匹を消し去り、隆善はその場に座り込む。
「まさか、こんなにかかるとは……情けねぇ……」
思わず、そんな言葉が口を突いて出る。安倍氏や賀茂氏に連なる陰陽師なら、きっと一瞬で片付ける事ができる程度の怪異だったであろう。そうではない陰陽師や陰陽寮の先輩達だって、これほどまでの時はかからなかったはずだ。惟幸なら? 彼なら、どれほどの時で片付ける事ができただろう? やはり、一瞬かそこらだろうか。
「……情けねぇ……」
また、その言葉が口を突いて出た。他人の邸だが、蹲って落ち込まずにはいられない。
そんな隆善に近寄る、小さな影が一つ。騒ぎの原因たる、この邸の姫だ。
「……あの……」
「ん? あぁ、気にすんな。俺が未熟なだけだ」
半刻走り回らせた事への詫びだろう。そう考えた隆善は、先回りして謝るのを制した。だが、姫はぶんぶんと首を横に振る。
「ちがうの! あの……ありがとう!」
「……あん?」
思わぬ姫からの礼の言葉に、隆善は目を丸くした。そして、丸くなった目で姫の顔をよく見る。
どうやら、幼児なりに気を使って礼を言ってくれたわけではなさそうだ。目が興奮で見開かれ、きらきらと輝いている。
「すごいのね! あんなにたくさんいたのに、全部消しちゃって!」
興奮冷めやらぬ様子の姫に、隆善は「おいおい……」と苦笑した。
「凄いわけがあるか。あんなに時を要したんだぞ? 前に来てくれた安倍氏や賀茂氏の陰陽師は、瞬く間に全部消してくれたんだろう?」
口にした事でまた己の情けなさが蘇り、少し拗ねたような顔になってしまう。だが、姫はぶんぶんと首を横に振ってくる。
「だって、すごい陰陽師だっていう方たちがやると、本当にあっという間に消えてしまって、なんだか夢だったみたいなんだもの。だから、本当にすごいのかわからないの」
呆気無さ過ぎて、実感が湧かないままに終わってしまうらしい。更に姫は「それに……」と言葉を続けた。
「風がふいたり、火花がちったり、学生様が立ち回りを見せてくれたり……とっても楽しかったわ! あんな風に、私が考えて出してしまったものを消す様子を見ていて、楽しくなったのははじめてよ!」
「楽しく……?」
姫は、こくこくと頷いた。
「ここに来る陰陽師の方たちは、みんな早く終わらせたいって顔をなさっているの。それで、本当に早く消してしまうの。私……現になってしまった物が家のみんなに迷惑をかけてしまうのは嫌なのだけど、それを童の考えたていどの物だからと言って、かんたんに消されてしまうのもさびしいの……」
どちらの気持ちも、わからないではない。陰陽師達からすれば、面倒事以外の何ものでもない。童が新たな物を現にしてしまう前に、さっさと消して終わらせたいと思うのは道理だ。
だが、童の手遊びだからと言って、頑張って絵を描いたり文字を練習した反故をあっさりと捨てられてしまい、何とも言えない気持ちになった覚えなら隆善にもある。まだ五年か六年ほど前までは、隆善もこの姫と同じように童だったのだから。
「あんな風に、消したくない物がないか聞いてくれたのも、はじめてなの! それに、こんな風にかしこまらずに、親しげに話していただいたのも!」
隆善としては、後ほど泣きわめかれたりしないように確認しただけだ。初めて会った姫の事。家の者達や父親の性格も全く知らない。用心するに越した事は無いだろう。言葉遣いに至っては、相手が童で、うっかりしていただけだ。
調伏するのに風を吹かせたり火花を散らせたり庭を駆け回ったりして時を要したのも未熟なだけで、長ずれば隆善だって瞬く間に消してしまうようになるだろう。
どれもこれも、己が未熟で経験が足りなかった故の言動だ。だが、それを姫は喜んでくれている。
胸の中に、ふつふつと温かい物が湧き出でたように感じた。思わず、胸の辺りを馬手で握り締める。どくん、と、心の臓が跳ねる感触が手に伝わった。
そんな隆善の様子に気付かず、姫は寄り添っていた女房の袖を掴む。甘えるように、女房の顔を見上げた。
「ねぇ、不破。こちらの学生さま……」
不破と呼ばれた女房が、ちら、と雑色や端女に視線を遣った。雑色が「あ」と声を出す。
「隆善様です。瓢谷、隆善様。すぐそこの小路で、たまたまお会いしまして……」
雑色の言葉の後半は、姫の耳には届いていない。「瓢谷隆善さま……」と小さな声で呟いた。
「不破。私が考えたことを現にしてしまった時なんだけど……今後、この隆善さまに来ていただくことはできない?」
その言葉に、不破も、雑色も端女も、指名された隆善もぎょっと目を見開いた。
「姫様、それは……」
「だめ? 私、もっと隆善さまが術を使うすがたを見てみたいの! それに、今までの陰陽師の方たちよりも歳が近いから……もっとお話しとか、してみたいわ!」
縋るように言われて、不破と雑色達は困ったように顔を見合わせた。どうやら、姫には随分と甘い様子だ。
不破が、やや渋面を作って隆善に向き直った。
「瓢谷様……姫様はこう仰っていらっしゃいますが、瓢谷様はいかがでございますか?」
「いや……別に俺には、異存は無ぇが……」
よく考えないうちに口を突いて出た言葉に、隆善は己で驚いた。顔を輝かせた姫をたしなめるように後に下がらせ、不破は更に問う。
「既にお聞き及びの事と存じますが、姫様のこのお力は時を選びません。姫様が考えてしまった時に、お考えになった物が現と化します。そのため、今はある程度化け物達が溜まったところで、陰陽師に依頼してまとめて消して頂いている次第。瓢谷様は、依頼をすればどれほど後に来て頂けますか?」
「……そりゃ、他に用事が無けりゃ、すぐにでも来れるが……。まぁ、学生の身だからな。本職の陰陽師達よりは暇な時も多いと思うが……何なら、何日かに一度は、何事も無くても様子を見に来るようにしても良い」
やはり、よく考えないうちから言葉が口を突いて出る。己は何を言っているのかと、隆善は目を瞬いた。
なるほど、と不破は頷いた。そして、値踏みをするように隆善の顔をじっくりと眺める。まるで相を見られているようで、落ち着かない。
やがて不破は、再び頷いた。優しい顔をして、姫の方に振り返る。
「良いでしょう。中々陰陽師に来て頂けない今の状況はどうにかしなければいけないと、常々思っておりました。まだまだ実力が伴わないとは言え、何日かに一度は必ず来てくださるというのであれば、願っても無い話にございます。それに、見たところ顔も貧相ではございません。今のところ、将来性が絶望的というわけでもないかと……」
ついでに、男としての品定めもされたようだ。……が、貧相ではないという事であれば、あまり怒る気にもなれない。
嬉しそうな顔をした姫に、不破はにこりと頷いた。そして、隆善に向き直る。
「それでは、瓢谷様。今後をお願いいたしたく存じます。瓢谷様が当邸に出入りする旨は、私より旦那様に申し上げておきます故……」
「あ……あぁ……」
急な展開に目を白黒とさせながらも、隆善は何とか頷いた。すぐに、嬉しそうに飛び跳ねながら姫が近寄ってくる。
「隆善さま! これからよろしくお願いいたします!」
勢いにつられて隆善が頷くと、姫は不破に振り返った。
「ねぇ、不破! これから、色々と助けていただくのよ。私の名前、隆善さまに教えてもいいわよね?」
不破が良いとも悪いとも言わないうちに、姫は再び、くるりと隆善に顔を向けた。
「私は、加夜、ともうします。隆善さま」
そう言って加夜は、にっこりと笑った。